覆面屋敷
光子は一枝の言葉が頭にからみついて放れなかった。
「ちょっとでいいから、のぞかせてよ。風守さまのお部屋を」
「ダメ。お部屋どころか、別館の近くへ立寄ってもいけないのよ」
すると一枝はあざわらって、
「そうでしょうよ。
一度言葉をきって、
「風守さまは御病気ではないのでしょう。気が違ってらッしゃるなんてウソなんだわ。健全な風守さまを病気と称して座敷牢へとじこめたイワレは、いかに?」
一枝の目は
「母なき子、あわれ。母ある子、幸あれ」
そして、フッと
兄妹とはいえ、兄の風守は母なき子であるし、光子と弟の文彦は母ある子であった。風守の母が死んで、後添いにできたのが光子と文彦だ。異母弟の文彦を
彼女が学んだ国史にも、朝廷や藤原氏や将軍家などにゴタゴタや争いが起るのは
風守と光子は同じ父の子ではあるが、戸籍上では、風守は本家の養子、本家の後嗣で、すでに兄と妹ではないのである。これについては二十三年前、風守が生れる前後のことから話をしないと分らない。
多久家の当主は多久
彼には男の子が三人あった。
長子の稲守は三十の若さで死んだ。彼には子供がなかった。そこで、弟の水彦、土彦両名の子供から一名を選んで本家の後嗣にすることになった。ところが、水彦には木々彦という男子があったが、土彦はまだ結婚したばかりで、子がなかったのである。
水彦は次兄であるし、おまけに孫はその子の木々彦一人なのだから、文句なしに木々彦が本家の養子になりそうなものだが、駒守はそうせずに、選定を後日に残した。なにぶん駒守は怒った牛の角をつかんでジリジリ押しつけたという伝説をもつほどだから、生きながらにしてその威風はスサノオのミコトと大国主のミコトを合わせたように神格化されて、怖れかしこまれ尊ばれている。その生き神様のオメガネに易々とかなうことのできなかった木々彦は、そのために村人になんとなく安ッぽく見られるような貧乏クジをひくメグリアワセになってしまった。
それから一年後、土彦に長子が生れると、本家へひきとられて養子となった。それが風守であった。
生れたての海の物とも山のものともつかぬ風守を後嗣に選ぶということは、風守と木々彦の能力比較には無関係のことで、つまり神人たるべき家柄だから、人界の風習に一指もふれぬ教育が必要で、したがって生れたばかりの風守が選ばれ、すでに多少、分家の子供として発育した木々彦がしりぞけられたのだ、という説がある。
しかし、村人たちには今に伝わる秘密的な一説があり、駒守は水彦を好かなかった。否、末ッ子の土彦を
風守が生れると、いったん分家した土彦夫婦は風守とともに本家の邸内に起居することになった。風守の離乳期まで、という意味に人々は解したのである。ところが、足かけ四年の歳月がすぎ、風守の母は死んでしまった。これがまた秘密伝説の一つであるが、彼女の死は病死ではなく自害だという風説があった。
なぜなら、風守が本家の後嗣にふさわしい素質すぐれた子供ではなく、やたらにヒキツケを起すテンカンもちであったからだ。テンカンにも色々あるが、風守は人デンカンというのである。知らない人を見るとテンカンを起す。およそ族長の後嗣として、これぐらい困った素質はない。威儀をはって氏族の者どもを引見すべき族長がその時テンカンを起してはたまるまい。駒守が当然の順序をあやまり、強いて風守を選んだための天罰だという説もあるが、それは駒守を神とみる村人たちの公認を得たものではない。彼らにとっては神たる駒守が天罰をうけることを認めるよりも、神の選んだゆえにテンカンもちの風守をも神と認める方をとるのであった。しかし、天罰はかかってその生母たる一女性にあつまる。わが家族制度の悲しい気風だ。彼女が自害したのはそのためだ。村人たちは彼女の自害を信じていたし、それによって彼女の罪も許され、風守がテンカンたることもそれによって人界のものではなくなり、業病即成仏、業病即神の高貴なものとなったと見ているようであった。
土彦はなお本家の邸内から去らなかった。そしてひきつづき本家に居ついたまま、一女性と結婚した。それが光子や文彦の母の糸路であった。
業病もちの風守は本邸でも人々から隔離され、ヨシエというウバ、政乃というおつきの女中にかしずかれ、友だちとしてボダイ寺の三男で、風守と同い年の英信という子供だけが奥へ出入を許されるだけであった。光子も出入はできないのである。こういう妙な若神様の遊び仲間に選ばれた英信は、名誉であるよりも、
自分で風守を後嗣に選んだ駒守の心事こそ悲痛なものであろう。彼は業病の故によって、決して風守を憎まなかった。それどころか、風守の悲しさを自分の悲しさとして自ら罪を分ち着ようとするに至った。そして彼は黒い布の覆面をして人に接するようになった。なぜなら、風守がやむなく人に接する時には、相手の顔が見えないように黒い覆面をかけさせなければならなかったからである。もっとも風守の覆面には目がなかった。人を見せてはならないのだから、目を隠すのが目的の覆面だ。駒守は目がなくては歩くこともできないから、同じ覆面でも、目があった。
光子が兄(戸籍上ではイトコだか
覆面の祖父は村をでるとき馬にまたがっていた。それは魔王の旅立つように、威あり怖しいものに見えたのである。同じように覆面を胸まで垂れた風守はカゴにのった。そして、あたりの病毒ある風から防ぐように、カゴの窓を下したのである。光子が見た兄は、その旅行のときだけであった。
東京の別荘は、
一月ほどおくれて、風守の唯一の友たる英信も上京した。そして、仏教の学校へ入学した。彼は母屋に住まず、別館に一室をもらった。そして
それから六年すぎて光子は十八になった。そして、
*
一枝は水彦の娘であった。長男の木々彦の下に他家へ
木々彦は学問を好まず、
田舎では多久の一族だが、東京では多久家などとはその
金モウケといっても当てがあるわけではないから、何より残念なのは、木々彦が本家の後嗣になれなかったことだ。弟一家が本家にひきとられ、広大な別荘に起居しているのが残念でたまらない。何かにつけてその反感が言葉にでる。風守が業病にとりつかれたのは天罰だ。昔はそう言いふらしたものだが、今では、土彦の後妻に男子が生れて、もはや風守はキチガイでもないのに座敷
それをビリビリ身にしみて感じたのは光子であった。少女の霊感と言おうか。世事にうといとはいえ、汚れなき魂の直感であった。光子には思い当ることが多かった。
去年の夏休みに、光子ははじめて帰郷した。生れてはじめて邸内の隅々まで歩くことができたのである。彼女は兄の居室を見たときに叫びをあげるところであった。居間へ通じる廊下にはふとい
光子は思わず身ぶるいしたものだ。座敷牢の内部にはさすがに立派な床の間もあったし、違い棚や押入もあった。風守が育つにつれて用いたオモチャの数々がそっくりあったし、学習した書物もあった。学習の教師は英信の父の英専と、祖父直々であった。その二人のほかに近在に学のある者はいなかった。
風守の習得した書物は初歩から上京に至るまでそっくり積み残されており、風守が自ら手をいれた跡もハッキリ残っていた。彼が上京したときは今の光子と同じ十八であった
「これがキチガイであろうか!」
光子の胸をつきあげた思いはその一事である。なるほど、テンカンというものはヒキツケを起した時のほかは異常がないということだ。さすがに本家の後嗣たる風守である。人デンカンという奇妙な業病にとりつかれても、衆に秀でた天才にめぐまれているのであろう。しかし、ヒキツケを起さぬ時には天才とも言うべき風守を常時座敷牢に閉じこめるとは何事であろうか。他の人ののぞくこともできない奥庭もあるし、他の人の踏みこめない多くの部屋もあるのに、なぜ座敷牢に入れなければならないのだろう。
「なぜ座敷牢が必要なの?」
と、光子はボダイ寺の英専に
「それはな。これをちかごろの言葉で夢遊病と申すそうな。寝たまに起きていろいろのことをおやりになる。そういう奇病がござるために牢にお入れ申したものじゃ。東京のお居間も同じことでござろう。日中の強い光がお毒じゃそうな。強い光が目に入ると
という話であった。格子の外の黒い幕はすでに取り払われていたが、英専はそれを知らぬらしく、それも光子の目にとまったとみえて打ちあけたようである。
この村の伊川良伯という漢方医が多久家と共に東京に移住していた。先祖代々多久家の侍医の家柄であるから、主家と一しょに移住したのであるが、新式の西洋医学が起り、大博士や大家の多い東京に、今もって田舎の漢方医に脈をみてもらわねばならぬ風守が気の毒に思われた。現に良伯に脈を見てもらうのは祖父と風守の覆面二人組だけであった。父も光子も文彦も新式の西洋医学の先生に診てもらっていた。光子は内科の三田先生に何気ないことをきいたことがあった。
「夢遊病って、悪い病気ですか」
「そうですね。ちかごろ催眠術というものがハヤッていますが、まア、自然に催眠術にかかったような状態で歩きまわるのでしょう」
「悪いことをするのでしょうか」
「どんなことをするかは各人各様でしょうが、人間が目をさましている時に行うことは、みんな行う可能性があるでしょうな」
「それは不治の病でしょうか」
「精神病というのは、たいがい不治のようですね。フーテン院へ入院するということは生涯隔離されるということらしいですな」
光子の突きとめたことは
風守を座敷牢へ閉じこめることは納得せざるを得ないようであった。しかし、ここに納得できない一事があった。一枝の呪文に身が凍るのは、そのためなのだ。
文彦が生れてまもなく、光子は父母から言い渡されたことがあった。文彦をわが弟と思ってはいかぬと言うのである。すべて長男は家をつぐものであり、女は他家へ嫁ぐ身であるから、姉といえども長男を弟と見てはならぬ。その名を呼ぶにも文彦様と敬称しなければならぬと言うのであった。子供の時からそう
ところが、実の父母たる土彦も、糸路もわが子を文彦様とよぶのである。同じ分家の家柄たる水彦のところでは木々彦が長子で上がないから、姉の場合は分らないが、父の水彦がわが子を木々彦様と呼びはしない。してみれば、多久家の分家に長男を様づけにするという定まった家法があるわけでないのだろう。万事洋風をまねたがるハイカラ時代ではあったが、水彦が特にハイカラをとり入れている様子もほかに見当らないから、父母がわが子を文彦様とあがめるのは、なんとなく異様である。光子は幼時からの習慣で、自発的にその奇怪さにこだわることはなかったが、一枝の
彼女は毎日せつなかった。なぜなら、父母が文彦様とよぶのをきくと、ハッとせざるを得なくなったし、それは日常のことだからである。のみならず、街でよその父母がわが子を呼びすてにするのをきいても、顔をあからむるような、居たたまらぬ思いに駆りたてられるからであった。まして水彦が長子木々彦を呼びすてにするのをきけば、光子は卒倒しかけるかも知れないだろう。それほどこだわるようになった。
まるで天才とも言うべき風守をキチガイ扱いに座敷に閉じこめて、それが文彦に本家をつがせる父母の陰謀であるとすれば……イヤ、イヤ。そのような筈はない。文彦の生れる前から、風守は座敷牢に閉じこめられていたのである。村の風説によれば、風守が不治の病気であるために、その生母が自害したというではないか。それに、あの
そう自分に言いきかしてみても、それでハッキリ安心するというわけにはいかないのだった。どこと指摘はできないが、なんとなく秘密や陰謀が感じられてならないのだった。可哀そうな風守さま。光子は六年前の上京中の道中に
*
同じ邸内に住んでいても、光子はめったに英信を見かけることはなかった。まれに本邸の会席によばれることがあると、英信はうつむいているばかりで、食事をしているのと、いないのとの相違は、手と口が動いているいないの相違にすぎなかった。
英信はすでに優秀な成績で学林の業を終り、特に師について更に深い学問を習っていたが、彼は本場の京都へ行ってもっと深く究めたいと志望している由であった。彼は長男ではなかったから寺をつぐ必要はなかった。彼は仏教の学者になって、一生研究に没入したいと思い、特に西洋へ渡って、日本ではまだ未開拓の
ある日のこと、光子が邸内を散歩していると、藤ダナの下にボンヤリ腰を下している英信を見かけた。近づいてみると、
「風守さまは毎日どんな風に暮していらッしゃるのでしょうね。御退屈でしょうに」
風守の暮しぶりについて好奇心を起すことは、この家の礼儀にかなうものではない。その慎むべきことを、重々承知でありながら、ふと
「あの方は御病気ですよ。助かる見込みはありません。遠からず、おなくなりです」
こう静かな声で答えた意外さだけでも容易ならぬ思いがあったので、彼の返事の内容については吟味がおくれたほどであった。光子はやがてビックリした。ケロリとして、なんてことを言う人だろう。彼は風守の死を予言しているが、むしろもっと残酷に、彼自身がその死を予言しつつある地獄の使者のようにすら感じられた。
風守が大病なら、侍医の良伯が別館へつめかけそうなものだし、祖父や侍女たちの往復もヒンパンで、なにか気配がありそうなものだ。その気配がないではないか。
しかし、なんの表情もなく、声の抑揚すらもない陰鬱な彼の言葉には、ぬきさしならぬ凶事の
「御病気って、どんな?」
「そこまでは、知りません」
「遠からずおなくなりですなんて、なぜ、そう
英信は顔をそむけて、
「生者必滅は世のコトワリですよ」
と苦々しげに
光子は思わずカッとして、
「あなたは心底からの坊さんね。世の中をそんな風にみてらして、それで御自分が偉いとでも思ってらッしゃるのね」
英信はうるさそうに立ち上って、
「生きているのはやさしいが、死ぬのはむずかしい」
ききとれないような低声で、しかし、たしかにそうハッキリと呟いたのである。そして光子に目もくれず、立ち去ってしまった。
光子はこのテンマツを誰にも語らず秘しておくべきであったかも知れない。しかし、漢方医の良伯に偶然二人だけで出会わすことになったのは運命というものであろう。この漢方医は悟りすました坊主のように気がおけなくて、一向に威厳もないし、脈のとり方もオボツカなくて頼りないこと
光子は良伯のほかには誰の気配もないのを見て、自然につりこまれてしまい、
「風守さまが御病気だそうですけど、お悪いのでしょうか」
「風守さまの御病気は昔々大昔からのことですよ」
その返事がとぼけすぎバカにされたような気がして光子はやや腹を立てて、
「心配でたまらなくッてお訊きするのに、そんな返事をなさるのは
いつもとぼけたような良伯の顔を
「英信が! いつ、そんなことを言いましたか! あのキチガイめが! イヤ、イヤ。ちがうぞ。いくら、なんでも、そんなことを言う筈がない」
このとぼけた人物にまで、こうキッパリ否定されるということは、彼女にはたまらないことであった。やっぱり話すべきではなかったのだ。この邸内にある限り、このとぼけた人物ですら、風守についての噂は常にタブーでなければならないのだ。
けれども、いったん言いかけた以上は、光子はゴマカシができなかったし、必死でもあった。
「さっき、藤ダナの下で、英信さんからおききしたばかりです。私はウソなぞ、つきません」
光子の鋭い眼、思いつめた様をジックリながめて、良伯は落ちつきをとりもどした。
「なるほど、そうですか。どんな病気で風守さまの死期が近づいたと申しましたか」
「私がそれをおききしているのではありませんか」
「そんな怖い目でお
「生者必滅は世のコトワリ。顔をそむけて、そう言ったわ」
「憎い奴メが。サジ加減が狂っても、その一言で申訳が立つという奥の手だ。はてさて調法千万な。
良伯はカラカラと高笑いした。こんなとぼけた人物に何を言ってもはじまらないというものだ。しかし光子に気がかりなのは、立ち去りながら英信が呟きすてた一句であった。それは一枝が呟きすてた一句と同じように、なんとなく
光子は良伯の高笑いがやむのを待って、
「笑いごとでしょうか。英信さんは、こんなことも仰有ったわ。生きているのはやさしいが、死ぬのはむずかしいッて」
良伯は目をまるくした。棒をのんだようだった。しかし、やがてクスリと笑って、
「英信は本当に気がちがったに相違ない。漢方の書物に
と苦笑にまぎらして、二人の会話は終りをつげたのである。
ところが、その晩、光子は珍しく祖父の居間へよびつけられた。一対の
「風守について知りたがることは、今後は慎むがよいぞ」
祖父はきき終って、そう訓戒した。しかし、それで終るかと思うと、そうではなくて、
「だが、お前が風守について好奇心を起すにはイワレがあろう。なぜ風守の暮しぶりが知りたかったか、そのワケを語ってごらん」
覆面の奥にある目がどんなふうに光っているか、光子は顔をあげてそれを見る勇気はなかったが、地上のいかなる物もそれ以上は威力にみちた怖しいものはないことが感じられた。光子は隠すことができなかった。
「風守さまは御病気でもないのに、キチガイにされ座敷
「誰だ。そのようなバカなことを言うた者は?」
「一枝さまです」
「仕様のない小女めが。そして、誰が、なぜ、そういうことをしていると申したのじゃ」
「それはおききいたしません。ただ、母なき子あわれ。母ある子幸あれ、と仰有っただけです」
「ナニ?」
八十三の老人とはいえ、岩のような巨体であった。その岩は、にわかにゆれて、ミズミズしい豪快な音をたてて笑いだした。
「母なき子あわれ。母ある子幸あれ」
老人は大声で
「多少の詩心はあるとみえる。だが、あさはかな奴らが。以後は小人の言葉にまどわぬがよかろう。じゃが、文彦の姉のそなたに今まで教えておかなかったのが手落ちであろう。改めて、ただいま言いきかせるからよくきくがよい。狂者が家督をつぐことは有りうべからざる事じゃ。文彦が生れた時から彼が風守に代って家督をつぐべきことはすでに定っておったのじゃ。正式に遺言状も保管せられておる。ただ、いまだ家督相続者と名乗るべき時期が来ておらぬだけのことじゃ。以後はこのことを胸にたたんでおくがよい」
祖父はこう語りきかせて、おののく光子を放免したのであった。
祖父の言葉はすべての謎を氷解せしめたようにも思われたが、光子の疑念はそれによってはれることができなかった。乙女の直感は微妙なものだ。岩がゆれるような祖父の豪快な高笑いは、詩心があるという一枝の呪文についての疑念をはらしてくれたようである。その代り、別の疑念がからみついてしまったのだ。それは英信の呪文であった。彼女がそれを良伯に語ったとき、彼は目をまるくし、棒をのんだようになったではないか。光子の直感はそれにからみついてしまったのである。一枝の呪文はたかが世間の噂と同じような根もないものであるかも知れない。しかし、英信はただの人ではないのである。生れたときから風守とたった一人の友だちなのだ。すべての秘密を知る人であった。彼の言葉には、空想や
「生きているのはやさしいが、死ぬのはむずかしい」
*
さて、事件の起った日は、風守の誕生日であった。内輪だけの祝いであるが、東京に在住しておる一番近い
覆面を脱ぐことのない祖父はいつもの例と同じように一同と共に食卓につくことをしなかったが、その他の家族は水いらずで、話もはずみ、食卓は
食事の終りに、ユデダコのように赤くなった木々彦が一同によびかけて、
「私はちかごろコクリサマという術を会得したから、皆さんに教えてあげたいと思うが、英信さん、あなたは特に学のある人だから、あなたの学がこの魔法をどういう風に解釈するかそれを承るのがタノシミなのさ。さア、さア、ひとつ、別席で、コクリサマをやりましょう」
木々彦はムリに英信をさそい、光子と一枝と文彦もこれにつづき、五名は座敷の一つでコクリサマをはじめる。ザル碁同士の水彦土彦の兄弟は別の座敷で碁をはじめる。
コクリサマという遊びは世間衆知の遊びだから、御存知ない読者もなかろう。
木々彦はそういうことに凝りだしていたのである。コクリサマのみではなく、坐禅をくんだり直立不動合掌してピョンピョンはねるという、それで心身統一をはかったり法力を示す手段に用いたりすることは、すでに山伏などが古くから用いていた手であるが、木々彦はそのころそれを看板に売りだした一心教というのに凝った。術が長じると、今のお光様のように指先から霊波を発するという。昔から、あったものだ。
木々彦はまず直立合掌してピョンピョンとびはじめ、座敷から自然に庭へとび降り、またとび上ってみせる。一同をおどろかしておいて、
「サア、次にコクリサマをはじめよう。私のコクリサマは筆を握って字を書くのじゃないよ。手を一ツもふれずに自然に、立てた筆がうごいて神意をあらわす」
彼は道具をつくってテーブルの上へおいた。
「さて、神意を承るについては、かりそめにも神様を疑ってはいけない。神様は必ずあるものだ。そして、ここへ現れて下さる。だから、冗談やフザケタ気持でお伺いをたててはいけませんよ。まず何をききましょうかね」
一同の返事がないので、彼はうなずき、
「このコクリサマは女子供の遊びのコクリサマとちがって、本当に神様をおよびするのだから、つまらぬ伺いをたてたり、二度も三度も神様をお呼びしてはいけません。ひとつ、大事なことをおききしようじゃないか。幸いここには英信さんという生き証人がいるから、神様のお告げが正しいかどうか教えてもらうことができる。今日は風守さまの御誕生日だから、風守さまについて神意をお伺いするのが何よりだね。風守さまは、御自分の誕生日だというのに顔も見せて下さらないが、今、どんなにしていらッしゃるだろうか。そして、御病気はどんなだろうか。それを神様にお伺いしてみようじゃないか。ねえ、皆さん」
子供たちは顔を見合わせて緊張したが誰もが答えるものがなかった。しかし緊張の様子を見れば子供たちの好奇心は一目リョウゼンだ。いささか酔って赤くなった英信だけは緊張もしないし、つまらなそうだ。風守がどんな暮しをしているか、いつも見ている英信には全然珍しくないのは当り前の話である。彼はつまらなそうに首をふって、
「バカバカしい。風守さまが何をしているか、そんなことがコクリサマに分りゃしないさ。まア、木々彦さんのお嫁さんがどんな人だか、世間なみなことをきいてごらん」
「アレ、アレ。この坊さんは世間知らずだと思ったら、世間なみのコクリサマをよく知ってるよ。だが、私のは、世間なみじゃアないから、まア、見ていてごらん」
彼はテーブルのまわりへ五人それぞれ位置を示して正座させ、一々その姿勢を直してまわる。そして一同の両手の指を軽くテーブルの上へのせさせた。彼も
やがて彼は型の如くにコクリサマを呼びはじめた。同じ呼びかけをくりかえす。声が高まる。一同は自然に鬼気を感じてきた。もはや、笑いごとではない。呼びかけは高潮し、木々彦の髪の毛が逆立ち騒ぐかと思われるほど
「ア、ア」
という叫びをもらして、木々彦はバッタリ卓上に伏していた。彼の上体はケイレンしていた。まるで彼の魂が、彼の身体から静かに離れつつあるようであった。長いケイレンが終ってから、彼は静かに上体を起した。酔ってユデダコのようだった彼は、今は全く
「まるで今日はコクリサマにハラワタや心の臓をかきむしられたように苦しかった。いつもはこんなではないのだが、コクリサマも今夕はあまりの難題で、御立腹だったらしい。私は途中でたまらなくなって、いっそ止めにしていただこうと何度思ったか知れやしない。コクリサマのお告げはなんと出ているのだろうか」
木々彦は道具を分解して筆をぬいた。そこには、たしかに何かが書かれていた。木々彦はその台紙をとりあげて判読しようとしたが、よほど意外であるらしく、彼の顔はひきしまって、いぶかしさに鋭くゆがんだ。
「どうも、妙だ。どうしてこんなお告げがでたのだろう。ワケが分らない。しかし、奇妙じゃないか」
彼は人々にそれを示しながら、
「どうしても、そう読むらしいね。けふしぬ」
木々彦の声がふるえた。一同はゾッとして台紙の上に目をよせた。妙な模様が描かれているが、しかし、もしも文字に読むとすれば、ヒラガナで、けふしぬ、と読むしかないようである。
「フシギだね。これはどういうことだろう」
木々彦は英信をジッと見つめて、きく。英信も台紙の文字をじッと見ていたが、やがて、目を放して、つまらなそうに、
「ナニ。今日は死なないね。あんたのコクリサマが、まちがっただけさ」
木々彦は
「ア、ア。つかれた! 全力をだしつくしたようだ。しばらく、どこかで、静かに休ませてもらおう。血の流れが滝のように落ちて行くような気がするよ」
と、フラフラ立上って、よろめくように別室へ去ってしまった。英信は分解されたコクリサマの道具を付合わしたり解いたりしていたが、
「こんな道具を用いて神様をおよびしてお告げが伺えるなら、私なんぞ師について苦しい勉強をすることはありませんね。筆を台紙の上へ逆さに立ててガタガタゆすぶれば、なにか字らしいものが現れるのは当然だ」
すると一枝が抗議して、
「そうじゃないと思うわ。たしかにテーブルが自然にうごいたと思うわ」
英信は、なんだ、バカな、という顔で答えなかった。すると、いかにもフシギそうに、一枝に同意を表したのは光子であった。
「私も一枝さまの
すると文彦もフシギそうに目を光らせて、
「ぼくも、そうだったと思うなア。変な力が自然にぼくの手をうごかしていたような感じがするよ」
英信は目をむいた。しかし、すぐ暗い顔になった。バカバカしくて、たまらないという顔だった。いつもの
「とにかく、風守さまが今夜死ぬということは、大変なマチガイです。今夜は決して死ぬ
そう
「どこへ行ってらしたの?」
一枝がこうきくと、英信はつまらなそうにソッポをむいて、
「どこへも行ってやしません。苦しくなったから、便所へ行って、うずくまっていたのです。飲みつけない酒をのんだからでしょう」
「なんだ、つまらない。私は、また、風守さまの御様子を見にいらしたのかと思ったわ」
「見に行く必要がありますか。コクリサマなどというものは……」
英信の目は妙に光った。なんとなく異様であった。
「誰も死ぬ筈はありません」
変に声がかすれたような気がした。あえぐ息がきこえるワケではなかったが、なにかハアハア息をきらしているような切実な
英信はにわかにダラシなくテーブルの上へ
娘たちはいぶかしそうに彼を見つめたが、英信はその理由に気付かぬらしく、娘たちにボンヤリした視線を返して、
「酒をのんだから目がまわります」
アア、そうか、と二人の娘はうなずいた。
「御自分のお部屋でお休みなさるといいわ。ア、そうだ。木々彦さまはどうなさッたろう」
「どこかで休んでいるでしょう。お兄さまッて、時々あんな妙な風になる人よ。変に凝り性のところがあるらしいわ」
英信は、身動きせず、頰杖をついていた。二人の娘たちも文彦も、薄気味わるくなった。彼女らがソッと立上りかけた時であった。誰かのけたたましい叫びが起ったのである。大勢のののしり騒ぐ声に変った。それは離れていて、シカとききとれなかったが、やがて一人の声が叫びつつ近づいてきて、火事だ、火事だ、と叫んでいるのが分った。それから後は夢中であった。
彼女らは庭へでていた。走っていた。別館の前でボンヤリしていた。別館が燃えているのだ。
別館の中から、けたたましい叫びが起った。助けてくれ、と叫んだようだ。しかし、動物が
それは、まさしく八十三歳の多久家の当主、駒守であったに相違ない。岩のような巨体に、覆面をおろして、火焰の中に身動きもせず立っている。生き不動のように。
別館に居るべき筈のない駒守である。すると、駒守に似ているが、あれこそ風守なのであろうか。血をひく孫であり、同じ覆面であるから似ているのは当然かも知れない。誰にも姿を見せたことのない風守だから、人々は判断に迷った。
「大殿さま。早く、早く、逃げて」
人々は狂ったように叫んでいる風守の侍女政乃の声に気がついた。風守をよく知る政乃が大殿さま、と呼びかけているのだ。まさしくそれは別館にすむ孫ではなくて、当主駒守に相違なかった。どうして彼が別館の中にいるのだろう。彼はなぜ逃げようとしないのだろう。
火事がさらに一時にひらめいてすべてをつつんだ。身動きもせず立ったまま、駒守の姿は火焰の中に没したのである。
別館を焼きつくして、火は消えた。消防がおくれて、完全燃焼の自然鎮火にちかかったから、焼死した人の姿は白骨の細さにちかい黒コゲとなって発見された。まさしく二ツの
これで済めば別に問題はなかったのだ。もう一ツのフシギがあった。あの時以来、木々彦の姿が失われてしまったのである。
三日すぎ、十日すぎても、姿を現さなかった。それを怪しんだのは一枝であった。彼女は英信を疑った。火事の起る直前の英信の挙動は奇怪をきわめているのだ。
別館で焼け死んだのは駒守、風守の二人であろう。しかし、ほかにも事件があった筈だ。それは英信が木々彦を殺したという事件であるにきまっている。英信は強い体力はないけれども、当夜の木々彦は精根つきはてて疲れきった廃人だった。子供の力でも締め殺すことができるような無力な木々彦であったのである。
何か重大なワケがあったのだ。木々彦を殺したのも、別館へ火をつけたのも、英信の仕業に相違ない。火事の直前のフシギな挙動がそれをハッキリ証明している。
一枝の話をきいて、水彦は木々彦殺しの容疑者として英信を訴えでた。それは火災後十日すぎて、駒守と風守の葬儀がその故郷で行われた後であった。
木々彦は果して殺されているか? 雲をつかむような得体の知れぬ事件であった。事件の存否も確かではないのに、容疑者をあげるワケにはいかない。そこで新十郎が調査をゆだねられて、怪事件の解決にのりだすこととなったのである。
*
本家の家族は八ケ嶽
新十郎はそれを整理して、風守の生母が自害したという風説がそれまでに知り得た最も重大な何かだと思った。
新十郎は八ケ嶽山麓まであくまでつき従うという盤石の決意をくずしそうもない花迺屋と虎之介に、ちょッと
「八ケ嶽の
「アッハッハ。貝殻に
と花迺屋はアゴをなで虎之介はダラシなく帯をしめ直しながら、
「すべて緩急の呼吸は剣術に似て同じもの。人情のキビも剣術の呼吸ではかれる。お若いうちは、ここが分らないものだ」
と悦に入って高笑いした。こうして一行は八ケ嶽へ到着したのであった。
村人たちはまさにカキのように口を開かなかったが、意外なところに、そうでもない人たちがいた。それは多久家の人々であった。彼らは
彼女は出火直前の英信の様子が不審であったことについて、一枝に同意の証言を行うことを慎しむように心掛けた。新十郎たちの調査の主点がそこにあると思ったからである。その点こそ、出火事件の最大の秘密であると自ら信じているせいだ。彼女はそれを隠した代償に、英信についての他のことはみんな喋った。
新十郎は、藤ダナの下で英信が光子と交した言葉に
「生きているのはやさしいが、死ぬのはむずかしい」
まったく謎のような言葉である。いろいろな意味に解せられるが、どの答えもこの事件の答案にふれているようには思われない。
光子は駒守によびつけられて叱られたのは、言うまでもなく良伯が告げ口したためだ。あの悟りすました坊主のようなトボケた良伯が、この会話によって告げ口したのは、よくよく重大な意味が会話の裏にひそんでいるために相違ない。
その結果として、文彦が
「すでに遺言状もあるが、まだ文彦の後嗣たることを公表する時期ではない」
時期ではない。妙な言い方があるものだ。時期とは、何をさしているのだろうか?
「母なき子あわれ。母ある子幸あれ」
という一枝の
すべてそれらのことは、コクリサマの後に、英信が妙に確信をもって木々彦に答えた言葉によって、真相の核心にふれている何かが目ざましく
英信はコクリサマが「けふしぬ」と告げたことに対して、きわめて確信的に、
「今日はあの方の死ぬ日ではない」
と木々彦に答えたというのである。「今日はその日ではない」。それは風守の死ぬ日についての英信の言葉であるが、駒守は光子に向って「文彦の後嗣たることを公表する時期ではない」と言っている。示す物は別であるが、二ツとも「時期ではない」という点が共通しているのはなぜだろう。なにか時期というものがハッキリしている秘密があるのではなかろうか。とにかく時期ということが、この事件の核心に隠れているように思われるのである。しかし、ひるがえって英信の謎の言葉を思いみよ。
「生きているのはやさしいが、死ぬのはむずかしい」
妙に
それにひきつづいて一枝の疑惑を思いだすと、妙な結論がでてくるのである。「今日はその日ではない」と確信的に言いきった英信は数十分後に不審な挙動で戻ってきて、甚しく混乱していたようである。そして、その混乱の理由は、「その日ではない」
新十郎は光子にきいた。
「あなたが風守さまをごらんになった時のことを、よく思いだしてきかせて下さいませんか」
光子は一度考えたが、
「特にお話申上げるような印象はございませんの、この家や宿を出発するとき、宿へついたときに、カゴを降りなさるのを、ちょッとお見かけしただけですから」
「話し声はおききになりませんでしたか。笑い声とか
「いいえ。ついぞお声をおききした覚えはございません」
そう言ってから光子は顔色を変えて叫んだ。
「イエ、一度だけ、お声をききました。あの怖しいお声。
新十郎はそれをいたわるように、やさしく、また彼自身もいたましげに顔をくもらせ、
「それは、どんなお声でしたか? 似たような声をおききになったことがありますか」
「いいえ、似たような声などとは、とても。ただ怖しい叫び声でした。思いだしても、身がすくむように感じられます」
「風守さまは駒守さまと同じような、岩のようなお体格でしたか」
「いいえ似ているところはございません。長いマントのようなものを身につけていらしたから、たしかなことは分りませんが、むしろ
「さきほど、風守さまは天才だと
「十一、二から十八までの詩文のお作品を拝見いたしたからです。難解で正しい観賞はできませんが、そのように思ったのです。この奥の座敷
光子は無学をはじらッてか、顔をあからめて答えた。新十郎は彼女から訊きうるすべてを訊き終ったので、座敷牢へ案内してもらった。詩文の稿本はそッくり残っていた。
「風守さまの天才をゆっくり観賞したいと思いますが、しばらく拝借できましょうか。決して損んじたり失ったりはいたしません」
「どうぞ」
という許しを得て、それを大事にフロシキに包み、病める天才の起居した牢内をテイネイに見て
土彦や文彦の話もきいたが、光子のような謎のこもった観察をきくことはできなかった。
最後に英信に会った。木々彦の生死が不明なだけで、事件そのものの存否も確かではないのだから、新十郎は多くを
「今後も御研究をおつづけですか」
こう新十郎がきくと、英信は暗い顔をくもらせて、
「つづけたいと思ってはいます。西洋へ遊学させて下さるようなお話もあったのですが、大殿さまが御他界では、その望みもかなうかどうか分りません」
「妙なことをお訊きするようですが、藤ダナの下で光子さまにこう仰有ったそうですね。生きているのはやさしいが死ぬのはむずかしい、と。これは、どの意味に解すべきでありましょうか」
「それは……」
彼はちょッと口ごもったが、新十郎の問いかけをさげすむような風もなく、
「宗教家としての悟道的な意味によるちょッとした見解にすぎません」
「なるほど。私はあるいはそうではないかと拝察いたしておりました。次に、コクリサマのあとで、今日は風守さまの死ぬ日ではないと断言なさったそうですね。それはどういうことでしょうか」
「ただ、そう確信していただけです」
「なるほど。すると藤ダナの下で、風守さまは近々なくなられる、と仰有ったことと関係はございませんか」
そのとき英信の顔がひどく
「それは、心の迷いです。心の迷い。心の迷い。いけなかった……」
なんという打ちしおれた様であろうか。そしてこれをいかに解くべきであろうか。しかし新十郎はそれ以上はきかなかった。ただいたましげに、英信のしおれた様をジッと見ていただけであった。
八ケ嶽
「どうです。二人の筆跡はよく似ていると思いませんか。十八と二十とで年齢のひらきはあるが、よく似ている。むしろ同じ手のようだと思われる程ではありませんか」
彼は二ツの筆跡を花迺屋と虎之介に示した。たしかにそれは同一人の手のように似ていたのである。二人もそう思った。
新十郎は暗然として呟いた。
「多久駒守は、なぜ覆面したか。まったく、駒守は、神様のように頭の働く人だ。国家の枢機にたずさわると、海舟先生の次ぐらいに手腕を示した人物かも知れない」
虎之介は
「すると、あなたは犯人を御存知か」
「まア大体事件の
新十郎は二人をのこして行ってしまった。
*
虎之介は海舟の前にかしこまっていた。虎之介の話をきき終り、海舟は
「犯人は言うまでもなく火中に自決した駒守その人。ほかに罪ある者はおらぬ。人デンカンとは世をあざむく計略。風守は
海舟はまたもや無心に悪血をとりはじめる。逆行性健忘症まで心得ているとは、驚き入った話。イヤハヤ、とても、かてません。虎之介がことごとく舌をまいて、八ケ嶽山麓の里人が駒守に対するように平伏してしまったのは、当然の話でありましたろう。
*
虎之介が新十郎のところへ駆け戻ると、すでに花迺屋もいる。虎之介はもどかしと
「犯人は駒守。自ら火をかけて死んだのだ。風守は癩病。これによって哀れその母は自害。謎をとくほど哀れの至り。木々彦は逆行性神隠し。よくあることだ。いまにヒョッコリ戻ってくるな。アッハッハ」
新十郎はニッコリうなずいて、
「まさしく図星です。駒守は自ら別館に火をかけて自決したのです。しかし、もう一人焼死したのは風守ではありません。木々彦でした」
「バカバカしい。そんなら風守はどこへ行ったね。風守が逆行性神隠しなどと、バカな」
「風守ははじめからこの世に存在しない人物ですよ。いつまでも後嗣をきめずにおくことは由々しい問題でありますし、そうこうすると、木々彦を後嗣にすべしというような村人の意見が高まらないとも知れません。そこで英信の母がニンシンしたのに合せて風守の母は架空のニンシンを装う。やがて実の後嗣が生れた際に非常の処置をとって風守を消滅せしめることは、はじめから
そのときだった。早馬の使者が新十郎邸へとびこんできた。応対にでて、使者と話を交した新十郎は、一通の書面をたずさえて戻ってきた。
「八ケ嶽の
新十郎は告白文を二人に示した。それは次のように語られていた。
結城新十郎さま。
私はこの事件に直接手を下した犯人ではありませんが、私の一生はこれと共に終るべき運命を負うて生れたようにも思われますので、一切のことを申上げて自決することに致します。
多久風守と申すお方はこの世に実在したお方ではありません。まれに覆面をつけて人目に現れた風守さまは私自身でありました。早急に一応の後嗣を定めるために大殿さまが苦心の末に編みだしたカラクリでしたが、四年を経てもまことのニンシンが起らぬために、架空の後嗣風守さまの母は真の後嗣の母たるべき人のために覚悟の自害をとげられた由であります。風守さまの人デンカン、覆面、座敷
私が藤ダナの下で光子さまに風守さまの死期近きことを予言しましたのは、魔がさしたと申しましょうか。わが身に定まる運命を忘れて、おろそかにも俗心、
コクリサマの予言を見て確信的に否定したのは、風守さまを殺す者が私自身であるによって当然のことでありました。私はみたし得ぬ心に足おもく別館へ戻りました。すると、別館に忍び入る意外な人物を見出しました。それは言うまでもなく木々彦であります。私は
*
海舟は虎之介の持参した英信の遺書を一読した。読み終えて、虎之介に手紙を返した。海舟の顔には安らかな色が現れていた。
「運命というものは、在るような、また、ないような、あまり当にはならないものだ。つらつら悲劇のもとをもとむれば、チッポケなかびくさい系図にとらわれた氏族の罰さ。眼を天下に転じて歴史の示すきびしい実相をみる目を忘れた罰なのだな。寛永寺へたてこもった乱暴者が、逃げるに際して御苦労なことに権現様の木像を背負い十字にからげて担ぎこんだ男がいたぜ。そんなものを、どうするのだえ。フロの
虎之介は内々気をわるくしてうなだれたが、なんとなく図星のようで、イヤな気持もするのであった。
明治開化 安吾捕物帖 坂口安吾/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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