時計館の秘密
生れつき大そう間のわるい人間というものがいるものだ。梶原正二郎という若い御家人がそれだった。そのとき彼は二十二だ。親父が死んで野辺の送りをすませたという晩に、
「今晩は。たのもう。どうれ」
両方分の
「ホトケに線香あげにきたが、ホトケはどこだ、どこだ」
ホトケと隠れん坊しているよう。仏壇の前へドッカリと
「なるほど。この白木の
大変な奴ら。年のころは正二郎といくつも違わぬ若侍だが、いわゆる当時の愚連隊。その兄貴株に祭りあげられているのが望月竜太郎という乱暴者で、役向きでは組頭をしていた正二郎の父の配下になるのだが、組頭の威光などというものはこの男には三文の役にも立たないばかりか、うッかりするとインネンをつけられるモトになる。組頭であるために、正二郎の父はこの若者の顔を見るのが
正二郎は小心の父に輪をかけた弱虫で、子供の時から同年輩のこの連中にいじめられながら、逃げ隠れするようにしてコソコソと育った男。蛇にみこまれたと同じことで、自分の分別でこの連中をどうすることもできない。言われる通りに酒をだすと、キリもなく飲み、酔いしれてバクチをはじめる。夜があけると、一ねむりして、日の暮れに目をさますと、また酒を所望し、あげくにはバクチをはじめる。四日四晩それがつづいた。五日目の朝、数名の仲間があわただしく飛びこんできて、
「行方を探すのにどれぐらい苦労したか知れやしねえや。こんなところにトグロをまいている時じゃアねえやな。そろそろ戦争がはじまるぜ。上野寛永寺へたてこもるにきまったのだ。おいらも威勢を見せてやろうじゃないか」
「それは面白いな。酒もバクチもちょうど鼻についてきたところだ。正二郎。長らく世話になったが、面白い遊びを教えてやるから、一しょにこい」
江戸城開け渡し。軽挙モウドウをいましめるフレはでているのだから、正二郎はフレに反した戦争などはしたくないが、この連中にこう言われると、
「家内が妊娠八か月で」
と言いかけると、
「バカヤローめ。女房のお産がすむまで戦争を待ってくれてえ侍が大昔からいたと思うか。ききなれないことを言う
と怒鳴られて、別れを告げるイトマもあらばこそ、手をとられ、腰をつかまれて、夢のように上野寛永寺へたてこもってしまった。
戦争に負けたが、正二郎も加えて十三名のこの一隊、一人も手傷を負った者がない。要領のいい奴らで、戦争を遊山と心得てかりそめにも勇み立つようなところがない。しばらく旅にでるのも面白かろうと、江戸を逃げのびて、
彼らは塩竈の鼻ツマミ者になった。イタチ組が通るというと、町中大戸をおろして一時は人通りがなくなったそうだ。イタチ組というのは彼らのことである。彼らは江戸をたつころは
酒屋へ使いに出されるたびに、正二郎が好んで行くのは「松嵐」という清酒の造り酒屋であった。なぜなら、この家だけは小心者の正二郎を
イタチ組の悪業にたまりかねた町の人々は寄々相談のあげく、この町の船主の中で誰よりも太ッ腹な人物で通っている一力丸の主人、兵頭一力親方の犠牲に仰ぐことになった。そこで一力は一
「追われ追われて北の果まで逃げても、逃げきれるものではない。あの連中に別れてこの土地に住みついてはどうだね。お前さんがその気なら、娘の
と言う。
そこで正二郎も考えた。今さら江戸へ戻ることもできないが、さればといってイタチ組と一しょにいる限りは、およそ性に合わない無銭遊興、押込強盗、ヤケ酒の生活から
しかし
「ムムムムム」
彼は脇腹をおさえて苦しみはじめた。こういう小心な男には神様が特別の仕掛を与えておいて下さると見えて、苦しみだすと、本当に腹が痛いような気がしてきたから妙なものだ。ただごとならぬ苦しみ様。
一力はイタチ組と肌の違う正二郎の人柄を知っている。この苦しみが狂言ではないかも知れぬが、イタチ組から離れた方がこの男の身の為だと見たから、
「放ッとくと死ぬかも知れんね。陸にちかい今のうちに船から下した方がよい。人家にちかい岸へつけて病人をたのんで行こう」
イタチ組の面々も、ここまで落ちてきた以上は、こんな小心な男は足手まといになるだけで、役に立つ見込みがない。
「ナニ、人家なんぞなくともかまわん、近い岸へつけて松の根ッこへ放りだせ」
*
さて聟におさまってみると、考えていたのとは勝手がちがう。彼の後にイタチ組の抜き身が光っていた時とはちがって扱いの相違が
だんだん様子が分ってくると、彼を聟にむかえたのも道理。お米は名題の
また清作が娘のお米に対する態度も冷淡である。清作はお米が自分の子ではあるまいと疑っていた。娘に似て母のお源も淫奔だった。清作と結婚まもなく、専信という
正二郎が聟にはいると、鬼の本性がハッキリしてきた。その時までは、そこは彼の家庭であり、お源とお米は家族であったが、正二郎が来てからは、そうではなかった。正二郎夫婦は赤の他人夫婦であって、お源はその母親にすぎないのである。そこは家庭ではなくて工場であった。正二郎一家はその職工で、彼のために金をかせぐが、その金は彼だけのもので、職工に与うべきものではなかった。彼自身の家庭は他にあって、そこには若い二号と、その腹にできたマギレもない彼の子供がいたのである。彼はその子供に死後の全ての財産を与えるという遺言状を書いて二号に与えたという取沙汰があった。
こう赤の他人扱いを受ければ、うけた一族は結束しそうなものだが、アベコベだ。その原因がみんな正二郎にあるかのように、彼はお源母子からさらに赤の他人扱い、否、下僕扱いをうけた。女房とその母はサシミだの天プラだの色々の
そのうちに旅絵師の松川花亭という若いニヤケた男がフラリと来て、この家に住みついてしまった。以前にもここに厄介になったことがあるらしく、お米は旅から戻った亭主をむかえるようなナレナレしさ。花亭も来た当日から亭主のように納って水イラズの食卓であるが、正二郎はその日から台所へ追ッ払われて、召使いと一しょの食事であった。お米は正二郎に花亭の紹介すらもしなかった。つまり花亭は彼女らと対等であるが、正二郎はそうではないということをハッキリ示しているのであった。お源のところへは宮吉という船頭がよく遊びにきた。清作は昼は時々
清作に三号ができた。そして、三号が妊娠したという噂が知れ渡った。
その日清作は二号の家でおそく目をさました。三度の食事に酒をかかしたことのない清作は、その日も二号を相手に朝酒をのんでいたが、食事が終ると、にわかに苦しみはじめて、医者の手当もむなしく、急死してしまった。死に様が怪しいので検視の役人が酒や食物をしらべたが、どれと言って味の変ったものがない。しかし犬に食べさせてみると、三匹の犬が一様にヨタヨタとふらつきはじめて苦しんだあげく、まもなく死んでしまった。どの食物ということは分らなかったが、どれかに毒が仕込まれているのは確かであった。死に方が普通と変って、最後に全身がしびれるらしく、口もきけずに、鼻汁やヨダレをたらして息をひきとったのである。
奥州ではフグを食う習慣は
町の人々にとっても二号の旦那殺しは有りうべきことであるから、彼女の処刑はとりわけ同情をかうこともなく冷淡に見送られた。この土地ではフグは食べると死ぬもの、食べない物ときめているから、網にかかったフグや漁師がイタズラ半分に持って帰ったフグは浜にすてられて顧る者がない。拾って帰るツモリなら誰でも拾って帰れるが、子供でもフグの毒は良く知っていて見向きもしないだけのことだ。
しかし、正二郎は
「オレのような余計な邪魔ものもいつ殺されるかも知れたものではない」
と、彼は怖れにふるえたが、できるだけ邪魔にならないように暮す以外に分別はなさそうだった。なまじ家にブラブラしているのがいけないと思ったので、お源やお米の許可を得て一力丸の親方を訪ね、
「私もヒマな身体で毎日ブラブラしていても仕方がありませんから、漁師の手伝いでもさせていただきたいものですが」
と頼むと、一力は
「そうかい。お前さんがその気なら、ナニ、あんな家に小さくなっていなくッても、男一匹、立派な暮しが立つように、なんとでも力になるぜ。お前さんも天下の旗本だ。奥州くんだりへ来たからってアバズレ女に気兼ねするこたアないよ。だが、漁師なんぞがお前さんに勤まるもんじゃない。船を一
自分が世話をやいている講中にムリをきいてもらって、わずか一回のカケ金だけで正二郎に無尽をおとしてやった。その金でそッくり米を買って、これを船で東京へ運んで売った。ところがその年は全国的な大凶作で米があがっているところへ、
その年は特別の年であったから、一艘の米だけで正二郎は大儲けをした。直ちにとって返して、儲けた金で第二船第三船第四船と矢つぎ早に差し向けたのがことごとく大当り。今様小型
「なア、平井さん。あんたが一人で商売をやると儲けをアバズレにまきあげられてしまう。また、この地にいるのもよろしくない。今、東京では会社というものが、はやっている。オレとお前さんと組で会社をやろうじゃないか。オレが頭取で、お前さんが副頭取。オレがここを本拠にサイハイをふって物資を東京へ送るから、お前さんが東京の支店長で売り
正二郎は
そこで二人は会社を起し、土地の名所
*
彼はお久美を探したが、行方を知る者がいなかった。しかし二号もつくらず、女に深入りしなかったのは、女を怖れていたからである。気心の知れない女が一様に薄気味わるくて、商法に熟達し、社交になれても、女に
女がシミジミ恋しいと思うようになったのは新築の西洋館に移りすんでからであった。衣食住がととのってみると、足りないものは女だけで、未知の世界であるだけに、
ある日、お客を
「旦那、駒千代という
と持ちかけた。人の心が顔に現れるとでもいうのか、まるで彼の心を見抜いたように時を得た至妙な話。正二郎はその宴席で始めて見る駒千代のやさしく華やかな姿に見とれて、さてさて美しい妓があるものと深く心に思いとめた直後であるから、人生は微妙なものだ。渡りに舟とよろこび、女主人に駒千代の心をたしかめてもらうと、あの物静かな
「あなたは駒ちゃんに仕えるわけじゃアありませんよ。駒ちゃん同様あなたの御主人様は旦那ですから、よく忠義をつくして、その代り、一生旦那に面倒を見てもらいなさい」
正二郎の面前でこうコンコンと言いふくめ、また正二郎には忠義の代りに
さて妾宅を構えてみると、駒子はやさしく親切で可愛らしく、正二郎はまるで欠点というものが分らないから、去る日も来る日も夢のようにうれしいばかり。女を知らない中年の男が女に
ところが、ある晩のことである。ふと寝物語りに、
「私にはお母さんがいるんですけど……」
と、別にさしたる理由もなく、何のハズミか口をすべらしたのは、これを運命というのであろう。正二郎のマゴコロが、駒子の心に
「身寄りがないときいていたが、お母さんが生きているのか。なぜ早く打ちあけてくれないのだね」
「だって、あんまりひどい暮しをしているものですから」
「娘を芸者にだすほどだから豊かに暮している
「ええ。でも今はメクラなんです。もとは旗本の娘ですけど」
「ほう。私も旗本のハシクレだが、姓はなんと
「嫁ぎ先の姓ですけど、梶原というのです」
もしも暗闇でなければ、正二郎の見るも
「あら。梶原という旗本ご存じですの? ぶるぶるふるえてらッしゃるんじゃないこと?」
「ナニ、二、三その姓に心当りはあるが、お前のお母さんに似た人は、さて、その心当りがあるかなア」
「でも、私は梶原という旗本の子供じゃないのよ。梶原の子供は姉さんだけ。その旗本は寛永寺の戦争で死んだそうです。私の父は望月彦太という旗本」
「望月彦太!」
「ご存じ?」
「きいたことのある名だが」
「そうですッてね。御家人仲間で鼻ツマミの
「どこに住んでいるのだね」
「
「お前に姉さんがいると言ったが、その人はどうしているのかね」
「鮫河橋に一しょにいます。お母さんの手をひくために。そして、今のお父さんの子供と夫婦になっています。車夫ですが、酒のみで、バクチ打ちで、悪党なのね。姉さんが気の毒ですわ。私が芸者になったのも兄さんに売りとばされたんですけど、私を助けるために姉さんがはからッて下さったのです。家に居ればロクなことにはならないでしょう。いッそ芸者になる方が身のためですッてね。身売りの金を手切金に、親子の縁を切るから、母も姉もないものと思って、こんな悲しい家のことは二度と思いだしてもいけませんよッて、そう言われて出たんです」
駒子は姉の厚意を思いだして堪らぬらしく、肩をふるわせているようであった。
駒子の母こそまさしくお久美であろう。その姉こそは別離の時にみごもっていたわが子であるに相違ない。なぜなら、梶原は寛永寺で死んだと言い、駒子の父はイタチ組の親分格の望月彦太というではないか。正二郎が寛永寺で死んだというのも、彦太の語ったことであろう。
駒子がわが子でなくて幸せであった。しかし、むごたらしい運命があるものだ。ようやくお久美の居処が分ったと思えば、それは愛する女の口からだ。そして愛する女がお久美の娘であろうとは! お久美はメクラとなって鮫河橋に住み、同じメクラと夫婦になって小さな子供が五人もいるとは! そしてわが子は酒のみバクチ打ちの車夫の女房たるに甘んじてもメクラの母の傍を去りがたく、母の手をひき
東京には多くの貧民窟があったが、特に代表的なものが三ツ。下谷万年町、芝
明治二十年ごろの平均賃金が、大工、左官、石工などで二十二、三銭(日給)、船大工、染物職などは十七銭、畳屋と経師屋などが二十一銭ぐらいで、一番高いのが洋服仕立の四十銭だ。(和服仕立は十九銭)。夫婦に子供一人の生活で、米代が一升十銭、
芸人、人力車夫、チョボクレ、立ん坊などは更に
私が中学生ごろまでは、まだこれらの貧民窟があった。キレイさッぱり無くなったのは大震災からであろう。この戦争中、雑炊食堂に行列していた片手のない男が、オレはむかし深川貧民窟のアサリ売りだが、日本人の最低生活てえものは、朝はニマメにツクダニにミソ汁、
正二郎はいささか胸つぶれる思いであったが、お久美には今はメクラの連れ添う男がいて、小さい子供が五人も生れているといえば、今さら名乗りでて、どうなるものでもない。かえッてお久美を苦しめるばかりであろう。すでにこの世にないものと思った方が上策である。そこでお駒には、
「なるほど、気の毒なお母さん、姉さんだが、バクチ打ちの悪漢がついていては、なまじ私が世話をすると、
「私も思い出さないことにしていたのです。うッかり申上げてしまいましたが、母や姉をどうこうしていただこうという気持ではなかったのです。私の抱え主の芸者屋のおカアさんにも姉が
駒子の覚悟はキッパリしていた。正二郎が案じる必要もなかったのだ。しかし、世間は望み通り順調に運んでくれるものではない。
*
お源とお米が尾羽うちからして正二郎のところへ迷いこんできた。船頭の宮吉の口車にのって、家も財産もそっくり彼の造船事業につぎこんで、結局かたりとられてしまったのである。宮吉が彼女らに与えた最後の言葉はナニ、お前の
宮吉には弱いが、正二郎には強い女たちであった。正二郎は彼女らに別の小さな住居を与えようとしたが彼女らはきかなかった。
「ここは私たちのウチだもの。歴とした本妻だし、その母だもの」
二人の女は言い張った。とりあえず二、三日は近所に宿をとれとすすめても、正二郎が困れば困るほど威丈高で、自分の家を主張して譲らなかった。
邸内に庭園をはさんで同じような立派な西洋館がもう一ツあった。それは正二郎が一力の上京中の宿のためにマゴコロをこめ善美をこらして用意したものであった。二人の女はその別館に目をとめると、
「じゃア私たちは邪魔にならないように、あっちへ泊めてもらいましょう」
一人ぎめに住みこもうとすると、この時ばかりは正二郎が、百雷の落ちるが如くに激怒した。
「何を言うか。無礼者め。別館に泊ることができるのは、天下に恩人兵頭殿をおいて外にはないぞ。ただ恩人の恩に報い、恩人をもてなすためにオレがマゴコロをこめて用意した別館だ。一足でも踏みこんでみよ。ひねりつぶしてやる」
二人の女はちょッと顔色を変えただけだった。正二郎が時を得顔に
「オヤ、そうかね。そんな大そうな御殿だとは知らなかった。こッちの方は私たちのウチなんだから、さア、さア、遠慮なく部屋をとりましょう」
大義名分によって百倍も威張り返った罰には、それなくしては百倍もしおれることを見抜いている悪達者な女二人、口惜しいながら何も言えない正二郎を
三日五日十日とすぎて、ちゃんと納ってしまうと、かねて
「私たちのところへお客様が来たから、当分お泊めしますよ。イエ、あなたには関係のない私たちのお客さま」
オセッカイは無用といわんばかりの切口上であった。誰かと思えば、松川花亭ではないか。しかし今さら花亭の如き一ツを
彼が何より不安なのは、あの暗い井戸端でフグをつくッていた宮吉の姿。そしてそのフグを隠し持って忍びでたに相違ない怪人物のことであった。その怪人物はこの三人のどれか一人に相違ないし、否、三人をまとめた一ツがそれなのだ。今や彼には巨万の富がある。殺された清作よりも、よッぽど確かな殺される原因があるではないか。それを思うと手をつかねてはいられないが、さてどうするという当てがあるわけでもない。死後の財産は全て駒子に与えるという正式の遺書をつくッてみても、殺される不安がなくなるわけではなかった。
上京した一力は正二郎から二人の女の話をきいて、
「そうかい。ナニ、オレがなんとかしてやるよ。心配するこたアないや」
と、二人の女に会って、すぐ出て行けと怒鳴りつけたが、
「ナニさ。私たちは正式の女房とその母親だよ。はばかりながら芸者あがりのメカケとは違うんだ。メカケを入れて本妻に出て行けという話はきいたことがないね。本妻が出て行かなきゃアならないものか、出るところへ出て、キマリをつけておくれ」
一力は物に
たのむ一力もむなしく撃退される始末であるから、正二郎の落胆、悩みは測りがたいものがあった。
その時、正二郎をそッと訪ねて、耳もとでささやいたのはお竜婆さんであった。
「私しゃアね。旦那。差出がましいことですが、心配で仕様がないから、それとなく法律の先生にきいてきたのですよ。あのアバズレどもを追ンだす
実に
「私にはお前があるし、お久美には今は連れ添う男があると知ったから、前世の宿縁とあきらめすべてを知らぬフリでこのまま過したいと思っていたが、お米お源が現れては仕方がない。お前の立場も私の立場も苦しいが、お米お源に住みつかれるよりはどれぐらいマシだか分らない。一応お久美とお園をここへひきとって、正式に訴えて出るから心をきめておくれ」
実子とは言え、まだ見たことのないお園にはさほどの情も覚えないが、お久美には顔を合せるのも心苦しく、はずかしい。全ての責が小心弱気の自分にあったのだとツクヅク思い当るからである。
駒子もあまりの意外さに
「お母さんがここへ来たら、私はどうなるのでしょうか」
それが何より
今にも胸がはりさけて破裂してはじけ出るかと思われるその切ない言葉が、たった一ツ言うことができないのだった。
「まア、うれしい。お母さんや、姉さんが、ここに住んで下さるの。散々お世話になり迷惑ばかりおかけしたお母さん姉さんですもの、一しょに住めるなら、私はどんなことでも辛抱するわ」
駒子はこの上の
*
新宿の
「実はね。この
と、巧みに友達をごまかして、二人は乞食に変装した。鮫河橋のメクラ女がお久美その人だという確証はないが、名前は梶原久美だから、まずその人に相違あるまい。しかし、お園の夫の車夫がシタタカな
ここは谷町一丁目、二丁目、元鮫河橋、鮫河橋南町という四か町から成り、まさしく高い丘の
方角は駒子からきいてきたのだが、どうして、どうして、この土地の概念を持たないものが世間並に方角などきいてきたって役に立ちやしない。
「梶原さんてえのはどこだね」
と、子供にきいても、大人にきいても、
「知らねえよ」だ。
男のアンマと女のアンマの年寄夫婦に、若い車夫の夫婦がいるうちはどこだい、と、お竜がキテンをきかして質問の方法をかえてみると、さすがに分った。
はじめは知らぬフリをして通り過ぎて中をチラとのぞいてみる。ありがたいことに、貧民窟は開けッ放しで、どこも中がまる見えだ。障子紙などというものが張っておけるぐらいなら、誰が貧民窟に住むものか。一度二度通りすぎて確かめてみると、男のアンマも、息子の車夫も、たしかに居ないようである。そして幼い子供たちがギャアギャア泣いている。
お竜がコンチハと
「この家ですかね。メクラの
「ここだけど、男は二人とも出払ってるよ」
それをきいてお竜は安心。声を落して、
「私はこんなナリをしているが、実はある人に頼まれてきたんです。むかし旗本の梶原正二郎という人にたのまれたのですが、誰にも知られぬように、あなたとお母さんにそこまでつきあってもらえませんか」
女の顔には感動よりも
「昔のことは、みんな忘れた」
こまごまと全ての話をきき終っても、お久美はまったく無感動であった。毛スジほどのなつかしさも浮かべず、折れた歯でもこぼすように
「今連れ添う二人の男にはそれぞれ充分に報いをするし、裁判がきまったあとでは五人の子供もひきとって、生涯大事に育てるから、それまではむごいようだが二人の男には内密に、今から直ちにウチへ来てくれまいか」
「あんたは誰さ。昔のことは忘れたよ」
「お園の父の梶原正二郎だよ」
お久美は返事をしなかった。さすがにお園はまだ若いし、母がイコジになるだけ、彼女は冷静に考えた。別に父はなつかしくなかった。自分でもフシギなぐらい父がなんでもなく見えるのである。しかし、血をわけた駒子、まだ別れて生々しい彼女と父と名のる男との意外な関係が
「とにかく、駒ちゃんに会ってみましょうよ。ねえ、お母さん」
無感動のお久美には
待っていた駒子は、母と姉を迎えて大よろこび。自分の部屋へ二人をともなって、くさぐさの話を物語る。駒子に一応まかせるのが何よりであるから、正二郎はわざとそれを見送って、自分は上京中の一力と、まずまず第一段は成功。お竜もよんで労をねぎらい、お竜のお酌で乾杯する。一力も話をきいて感無量。
「そういうものかねえ。しかし、昔のことは忘れた。あんたは誰だ、というお久美さんの心もしみじみ分る気がするなア。貧乏人は金持になりたがったり、あこがれているかも知れんが、自分がドン底へ落ちているのに、二十年前に生き別れて死んだと思った亭主が金持になって現れては、今の自分の境遇以外は忘れたかろう。金持の幽霊よりも、今の自分がなつかしかろうよ。本当に昔が忘れたいに相違ないなア」
「そうですかねえ。貧乏人のヒガミですよ」
「イヤ、イヤ。お竜さん。あこがれたものが
一力の言葉に力なくうなだれて声もないのは正二郎であった。
駒子の口から改めて正二郎と同じことをきかされると、お園にはそれが別の、なにか浄ルリをきくような切ない宿命を感じさせられたのであった。駒子は母と姉が
「姉さん。私はどうなるのでしょうね」
駒子の口からは思わずその言葉がもれた。妖しくハシャぎ語りつづける妹の様をジッと見ていたお園は、その言葉に胸を刃物で突かれたほど鋭い痛みを覚えた。自分も母もこの境遇には興味がないのだ。それを駒子は知らないのだ。そして母が父の本妻となり、自分が実子となったとき、義理の父のメカケたる自分の運命はどうなるのかと、小さい胸はただそれだけで一パイなのだ。妹が妖しくハシャイで語りつづけるワケは、ただそれだけなのである。
可哀そうな子供よ。心配するんじゃないよ。この境遇を幸福と見て酔っているのはお前だけだ。私たちはお前の幸福を祈っても、それを乱しはしない。
しかしお園の心にはムラムラと黒雲がわきたったのだ。この境遇が幸福でないとは、なんというウソつきだろう。駒子に代って、この家の相続者、全部の富をつぐ者は自分だけだ。それを、オメオメ妹にまかせて満足などとはウソというものだ。彼女はいささか目のくらむ心持をおさえ、ホッとひと息、
「とにかくお米お源という人をこの屋敷から出さなければ、あんたも幸福にはなれないのだし、その二人を追んだすには、お母さんがここの本妻で私が実子にならなければ解決ができないものだねえ。本当に、どうしたら三人のために良いのだろうねえ」
「私には、昔は、ないよ」
お久美はそのとき、フッとまた、石のような重い呟きをもらした。
そのとき、この邸へ酒気をおびて乗りこんできたのは八十吉であった。
「ヤイ女房とオフクロをだせ」
この
「当家はむかしの旗本で、お久美さんの遠縁に当るもの、かねて行方をさがしていたのだ。お前らにも悪いようにははからない。数日後には返しもしようし、そのとき、お前たちにも存分にお見舞いをだすから、今夜はひきとりなさい」
荒海で、イノチをかけて生きてきた老勇士、静かな言葉にも、荒くれ男の胸にひびく真実がある。八十吉はペコリと頭を下げて、
「ヘエ。そうですかい。お話は分りましたが、念のため女房にだけ会わせて下さい」
「なるほど、それは
そこでお園に言い含め遠縁の者だという程度に、深い話はせずに安心させて返してくれるようにと八十吉のもとへ差しむけると、お園は案外にも、みんな打ち開けて、
「お母さんはイヤだと言うが、ひとまずウンと言えば、私はここの相続人になるんだがねえ。しかし、それじゃア、駒ちゃんが気の毒。お母さんもウンといいそうな見込みがないが、そうなると、私も相続できないし、駒ちゃんも追んだされてお米お源にこの邸を乗っとられてしまうのさ。どっちみちお前さんにはイクラカになるのだから、どうでもいいだろうけれどもね」
「よかろう。話はわかった。どっちみち金になることなら、オレはなんでも辛抱だ。できるだけ余計の金になるように、一ツじっくり考えるかな。また来るぜ」
話が分れば、面倒は言わない奴。アッサリと立ち返った。
さて、その夜のことである。お米、お源、花亭の三名が、いずれへか行方知れず、
三名の行方不明は当分外へはもれなかった。お久美という正真正銘の本妻と、お園という正真正銘の実子が現れたから、案に相違、長居をしても恥をかくばかりと夜逃げしてしまったのだろうと、みんな笑って、それ以上には考えなかった。
これを疑ったのは八十吉である。お米お源が居なくなれば、強いてお久美を本妻にもどすには当らないから、充分の見舞金をつけてお久美お園を鮫河橋へ帰してやった。なんしろ、鮫河橋では前代未聞の大金、人の噂が大変だ。それからそれへと尾ヒレがついて、世間一般の噂になり、警察の手がうごくことになったのである。
*
警察が手をつけた時は、その日から三か月余もすぎていた。三名の姿が消え
「お米お源花亭の三名は塩竈に立ち返っちゃアいないのかえ」
「ハ。それはもう立ち返ってはおりません。松川花亭は生国不明でありますが、旅絵師の花亭に二人の女をひきとるような家があろうとは思われませんな」
「三名の者は殺されているな。犯人は梶原正二郎よ。お久美が元のサヤにおさまろうてえ気持がないから、駒子と添いとげるには、三名の者を殺す一手あるのみ。これほど明白な事実はあるまい。近所の土を掘ってみな。どこからか死体が現れてくらアな」
「相変らず浮かない顔だね。昔話に、ここ掘れワンワンという話があるが、気がつきそうなものじゃないかね。お久美が元のサヤにおさまらないから、駒子と添いとげるには三名を殺す一手。犯人は梶原正二郎。アッハッハ。明々白々。近所の土を掘ってごらんな。三人の死体がでらア」
新十郎はクスリと笑って、
「人間は誰でも人殺しぐらいはやりかねませんが、生理的にやや縁遠い人物はいるものですよ。梶原さんは生来の小心
しかし新十郎はこの事件を忘れていたわけではなかったのである。
彼はある日、だしぬけに松島物産の事務所を訪れ、帳簿の提出をもとめて、数日がかりでシサイに調べた。
それから一か月ほど経て、兵頭一力が上京したときに、彼は時計館の別館にただひとり一力を訪ねた。人払いをもとめて、静かに
「私は警官ではないのです。別に犯人をあげたいとは思いませんが、私の性分として、犯人を知らなければならないのです」
彼はニコニコ一力に笑みかけながら、
「三名の者が
一力はニコニコと、
「そう、そう、ランプ用の石油カン。それをおききになりたいのでしょうな」
「たしか二十本でしたな」
「その通りです」
新十郎はクスリと笑って、
「それが来たときは、二十本の石油カンですが、翌日は十七本の石油カンと、三本はほかの物がつまっていましたね」
「いえ。やっぱり石油です。だが、石油のほかの物も一しょにつまったというのが正しいのですよ」
一力は巻タバコをふかして、静かに新十郎の顔を見つめた。
「石油カンにつめられるまで、三人の死体は別に誰に隠しもせず、そこの戸棚へつめてカギをかけておいただけです」
一力は広間の戸棚を指して、ニコリともせず、言った。
「そうする以外に手がなかったのです。あの男は、自分の欲する身の出来事を処理する決断がない人なのです。半生めぐまれたことのないあの男に、はじめて訪れた幸福でしたよ。老先みじかい私が、あの男のたった一人の幸福のためにいくらか手荒なことをしてやった友情を分っていただけば満足です。私は、この世に思い残すことはありません。あなたが、社の帳簿を調べなさったという話をうかがって、さすがに天下名題の名探偵、よくぞ見破られたと、敬服いたしておりました。本日の御訪問はかねて覚悟していたのですよ」
新十郎は、ニッコリ笑って、
「三本の石油カンはどうなりましたか」
「オモリをつけて海底へ沈めましたよ。
一力がこう言ってアッサリ立ち上る前に、新十郎がアッサリと帽子をつかんで立上った。
「三人は海の底へ失踪したようですな。銚子沖三十海里に安住の地を見つけだしているそうです」
こう言うと、
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