クマの定位置

佐古間

クマの定位置

「あれ、ミツヤマさん、あのクマの位置変えた?」

 レジ横を通りかかったハヤシダさんが声をかけたのは、シフト終わりが近い、十六時半ごろの事だった。

 寂れた駅の前に建つ、寂れたビルの小さなテナント店。“とまり書房”を表現するのにこれ以上の言葉はないだろう。土日祝日は多少混雑するものの、平日は閑古鳥が鳴くような小さな書店だ。

 週中、本日の昼シフトは、店長のハヤシダさんとアルバイトの私の二人だけ。十七時から夜シフトのアルバイトと私が交代になり、店舗は二十一時に閉店予定。もうそろそろ終わりだから、と、レジ番を任されてちまちまと簡単な作業をしていた私は、ハヤシダさんの告げた「クマ」の言葉の響きに首を傾げた。

「クマ? ですか?」

 店舗内のクマ、と聞いて最初に思い浮かぶのは、エスカレーター前、絵本コーナーに設置した、クマのぬいぐるみの事である。

 有名な絵本のキャラクターをぬいぐるみにしたもので、そのキャラクターの三十周年記念に作られたものだと聞いている。

 三十周年記念の特別な絵本が刊行されて、その付録の小さなぬいぐるみだ。

 小さいながらもふわふわの毛並みで、愛らしい顔は絵本からそのまま飛び出てきたみたいで、棚の整理や掃除をしに通りかかる度、私も眺めては癒されていた。その絵本自体、子供の頃によく読んでいて、愛着があったのだ。

 付録品を見本代わりに展示することは間々あるが。

 子供が手に取って遊べるように配慮しつつも、そのまま持って行ってしまわれないよう、ぬいぐるみはゴムで棚と繋がれている。ぬいぐるみ以外にも数点、手に取って実際に遊べるものを置いているため、それらは皆ゴムで繋がれていた。

 そのうえで、展示場所を定めており、未だとメインはそのクマのぬいぐるみなので、コーナーの背の低い棚の真ん中あたりに、件の絵本と一緒に飾っていたはずである。ハヤシダさんの話の通りなら、違う場所に飾られていたことになる。

「私は触ってませんけど……誰かが動かしたんですかね?」

 首を傾げながら、つい一時間前に掃除した時は定位置にあったはずだ、と思い至る。ハヤシダさんは首を傾げながら、「いや、でも今日特に客入り悪いでしょ?」と続けた。

「監視カメラも見てたけど、動かすような人影は見えなかったし……一時間前はいつものところにあったよね?」

 問われて、頷く。急に不安になって、私はレジの中からひょい、と体を乗り出させた。

 エスカレーター前とは言うが、少し体を伸ばせば絵本コーナーは目視で確認できる位置だ。そもそも小さい店舗だし、レジ前は視界を広くとっているので、背の低い棚ばかりの絵本コーナーは見渡しやすい。

 クマは確かに、定位置から少しずれて、「あそんでね」と書かれたサンプルおもちゃの詰まった箱――通称、おもちゃ箱――の中に仕舞われていた。おもちゃ箱といっても、中身は仕掛け絵本や音の出る絵本ばかりなので、取り出しやすいよう背表紙をこちらに向けて並べて仕舞われている。クマのぬいぐるみは、それらの上に、ちょこんと可愛らしく座っていた。

「レジで誰か通ったか見てない?」

 やや眉間に皺を寄せたハヤシダさんが、もう一度私に問うた。「見てないです」と首を振りながら、私も顔を顰めていく。

「うーん……」

「まあ、でもあの、誰かの悪戯じゃないでしょうか」

 実際問題、ぬいぐるみが勝手に動く、なんて想像をするよりは、どこからかやって来たちびっこが、ぬいぐるみを見つけて移動させた、の方が真実味がある。小さな子供なら、レジにいた私の死角を通って近づくこともできるだろうし、監視カメラも然りだ。すべての箇所を隙間なく監視することは難しく、どうしたって目視できる範囲はカメラの死角だったりする。ハヤシダさんは怖い顔のまま、「いや、そう思いたいんだけどさ」と神妙な声を上げた。

 ハヤシダさんは背がとても高くて、筋トレが趣味、と公言している通り上半身の体格が非常に良く筋肉もモリモリで、顔立ちが良いのが影響して無表情だと非常に威圧感を与えてしまう。不審者が来た時などはその威圧感で(あと見せかけだけではない筋肉で)退治してくれるので非常に頼りになるのだが、今のように怖い顔や顰め面をしていると、見慣れた私でもうっと引いてしまうくらい威圧感が増していた。正直に少し怖い。私が怒られているわけではないのだけれど。

「……ミツヤマさん、知ってる? ウチにいる妖精の話……」

 それから、恐怖を与える表情のまま、ぼそぼそとした声で続けた。

 表情と威圧感から想像もつかない、何ともファンシーな単語に「へっ」と私は間抜けな声を上げた。妖精、なんて単語が突然出てきたこともそうだけど、その単語をつい最近どこかで聞いた気がしたのだ。

(あー……トンダさんだぁ)

 一瞬、「どこで聞いたっけ?」と思考を巡らせ、一週間程前のシフトの時に社員のトンダさんから聞いたのだった、と思い出す。

 トンダさんは私よりも背の低い小柄な女性だが、茶目っ気のある気さくな方だ。一週間前、閑古鳥の鳴く店内で惰性的な仕事をしていた折、「到底売れそうにない古いコミック」についての話を教えてくれた。

 既に何年も前に完結している、古いコミックA5版全十七巻。他の書店では揃っているところを見たこともないような(そもそも取り扱っているところ自体が少ないような)コミックなのだが、月に一度全巻購入されていき、その度入荷しているという話で、その、コミックを買っているのが“妖精”なんじゃないか、という噂話だった。

 結果的に、そのコミックは当然妖精が買っていたわけではなく――そのコミックの大ファンの方が、布教用に毎月毎月一括購入されていた、というだけだったのだが――そこで初めて“妖精”なんて単語を聞いた。

(これは、揶揄われてるな?)

 その時のトンダさんも、当然私を揶揄うためにそんな話をしていたので。

 トンダさんと仲の良いハヤシダさんもきっとそうに違いない。私はきっと目を吊り上げて、「そんなこと言っちゃって、ハヤシダさんってば」と言い返した。

「揶揄ってますね? 妖精なんているわけないじゃないですか」

 いたら面白いけど。

 続けて言えば、ハヤシダさんは困ったように眉尻を下げて、「揶揄ってないよ」と続けた。

「ここにお店入れてすぐの頃からかな? 害になることはないんだけど、ちょっと不思議なことが今までずっと起こってるんだよね。犯人が分からないし、誰の利になるものでもないから、僕もトンダさんも“妖精のせいだ”って思ってるんだけど……」

 ちらり、と、ハヤシダさんの視線が私を見下ろした。

 真面目な顔で、ハヤシダさんにそうして見下ろされると少しそわそわしてしまう。冗談を言っているようには見えないし、でも、まさか、本当に“妖精”を信じているのか? なんて――

「ケンちゃん、またここにいたの?」

 一瞬信じかけた、その時だった。

 柔らかい女性の声が響いて、はっと顔を上げる。レジの前、絵本コーナーに、お腹の大きな女性と小さな男の子がいる。男の子は絵本コーナーのおもちゃ箱に手を突っ込んだところで、女性は少し疲れた様子で息を吐いた。

 様子を見るに、迷子になっていた子供を探しまわっていたらしい。

「うっ……母ちゃん、ごめちゃい……」

 男の子はぬいぐるみを掴もうとしていた手を引っ込めると、もじもじとしながらそう言った。お母さんと思しき女性は妊婦だろう、少しつらそうな様子で、「心配したのよ」と男の子に向き直る。見えなくなった子供を必死に探したらしい、汗が見えて、私は思わずレジから出ようとした。少し休憩していくよう案内できればと思ったのだ。

「ヨネダさん、大丈夫ですよ、ケンちゃん、ちゃんとここで留守番してましたから」

 だというのに、レジ前で“妖精”の話をしていたハヤシダさんが、いつの間にか絵本コーナーの母子の元に向かっていて、しゃがみ込んで男の子の頭をゆっくり撫でたところだった。

 出遅れた、と思った反面、「ここで留守番?」と引っかかった言葉にそっと首を傾げる。

 ハヤシダさんがヨネダさん、と呼んだということは、それなりの常連さんらしい。まだアルバイトをし始めて半年ほどの私では、常連さんの名前と顔を把握しかねているところがあって、この辺りの人間関係がいまいちわからない。ヨネダさんはハヤシダさんの顔を見ると、あからさまにほっとした表情を浮かべて、「今日も見てくださってたんですね」と頭を下げた。

「ケンちゃんに、つまらなくなったらここにおいでと言ってありますから。次からはまっすぐこちらに来ていただければ大丈夫かと」

 ハヤシダさんとヨネダさんが話始めたので、男の子――ケンちゃんは遊んでよい、と思ったらしい。先ほど掴み損ねたぬいぐるみをぐっと掴んで、じっと見つめては腕を動かしたりしている。

 ケンちゃんが大人しくしているからか、ヨネダさんは何度かハヤシダさんにお礼を言うと、ケンちゃんの近くに座り込んだ。絵本コーナーは子供が座って手に取れるように、マットを敷いてあり、子供用の椅子を四脚程置いているのだ。子供用の椅子といっても一応大人が座って問題ないものなので、そこでケンちゃんを見ながら休憩することにしたらしい。

 話し終えたハヤシダさんが軽い身のこなしでレジまで戻ってくる。私はジト目でそれを出迎えた。

「……いやあ、可愛らしい“妖精”だろ?」

 言いながら、ハヤシダさんの視線がケンちゃんの方を向く。私はゆっくり深く頷いた。

「揶揄ったんですね」

「やだなぁ、ミツヤマさん、揶揄ったわけじゃ……」

「揶揄ったんですよね」

「……はい、すみません」

 強く問い直せば、ハヤシダさんはその大きな背中をしゅんと丸めて小さくなった。

 別に、揶揄われたことが嫌だったわけではないのだけれど。

「ヨネダさん? でしたっけ。お知り合いなんですか?」

 気を取り直して聞くと、ハヤシダさんは「正確にはケンちゃんの方」と笑って見せた。

「一年前くらいに、迷子になって一人でいるのを見かけて。サービスセンター連れてったんだけど、結構泣いちゃってさ。あれこれあやしてたら、あのクマの絵本がすごい好きだったみたいで」

 結局、サービスセンターではなく“とまり書房”で母親が来るのを待つことになり、ハヤシダさんはその時ケンちゃんと友達になったそうだ。

「珍しいですね、えーと、ハヤシダさん見て……びっくりしないの」

「ありがとう、言葉を選んでくれたね?」

 ハヤシダさんはくすくす笑うと、「最初は僕見て泣いてたとこもあったけどねぇ」と懐かしそうに眼を細めた。

 ハヤシダさんはその巨体と威圧感のせいで、小さい子供から怖がられやすい。否、正確には小さい子供だけでなくて、大抵の人から怖がられてしまうのだが、話すととても気さくで良い人である。本人も子供好きで、昔は保育士を目指していたこともあったらしい。ちらっと聞いた話だ。

「話してるうちに、おっこいつは怖くねぇぞ! って思ってくれたみたいで。それからなーんか懐かれてるんだよね」

 たまに来てくれるんだよ、と、ハヤシダさんは笑った。

 ケンちゃんは絵本コーナーでお母さんに絵本を手渡している。読み聞かせて、という要求に、休んでいたヨネダさんは微笑みながら本を開いた。

「ま、ウチは気を抜くとすぐお客さん来なくなっちゃうからなぁ、誰かがいるってだけでも宣伝になるから、ウチもありがたいっちゃありがたいよね」

 ケンちゃんは顔をキラキラさせてヨネダさんの膝にしがみついていた。微笑ましい風景に思わず私も微笑んでしまう。まあ、これが売り上げに繋がるかどうかは置いておいて。

 絵本に夢中になったケンちゃんの手から離されたぬいぐるみは、ケンちゃんの手で再びおもちゃ箱に戻されている。とん、と座り込んだそのクマは、最初からそこが定位置だったと言わんばかりの顔をしていた。

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