カエルは跳ね、カタツムリは登る

葦沢かもめ

<本文> カエルは跳ね、カタツムリは登る

うずたかく本が積まれた書斎で、私の視線は真っ白な原稿用紙に注がれていた。机の上に置かれたペンは、トマソン建築単なる飾りにすぎない。


私はなぜ書くのだろう。AIが私よりうまく書けるというのに。


作家である私自身が機械のように無機質に感じられるのは、残酷な皮肉だった。泉のように湧いてくるアイディア。新芽のように生えてくる言葉。野うさぎが笑い転げてしまうくらい気の利いたユーモア。そんなものは、過剰服薬者の頭の中にしかない。虚無だけが、私の首を優しく締め続けている。


そんな私の絶望を察したのか、友人のリリャが赤いリボンのついた小さな箱を持って、辛気くさい私の部屋に飛び込んできた。


「コォボ、あなたへのプレゼントよ!」彼女は夏の太陽を浴びた向日葵のような笑顔でそう叫んだ。


私は、弱々しく笑みを返した。陽射しに灼かれた吸血鬼に、抵抗する術は残されていない。今度はどんなガラクタ、もとい便利グッズを持ってきたのだろうか。


「これはね、『AIアシスタント』!」


リリャは目を輝かせながら、そう言った。


「最新鋭の機能を搭載したモデルだよ。執筆、資料検索、ブレインストーミングなどなど、何でもできるんだから!」


私はその玩具のような白いボディを鼻で笑った。


「私の仕事を奪う機械かい? 結構だよ、リリャ。おもちゃで遊ぶ年頃じゃないんだ」


するとリリャは目を丸くして、私の肩をポンと叩いた。


「コォボはいつも頑固なんだから。ちょっと試してみてよ。噛まないって約束するから」


右手にまだ残っている噛み跡が疼く。この前リリャから送られた犬型ロボット掃除機は、頭を金属バットでかち割ったあの日以来、物置で眠りこける無能な番犬と化している。


私はため息をつきながら、手のひらよりも小さくて肌触りがなめらかなデバイスを手に取った。タッチスクリーンと金属製のフレームが特徴的だった。スマートフォンと懐中時計を掛け合わせたみたいだった。


「これは、どうしたら動くんだい?」


コンピュータを前にした恐竜のような気分で、私はつぶやいた。


リリャは私の無知を嗤いながら、「『ハロー』と言えば起動するよ」と教えてくれた。


私は咳払いをし、デバイスに話しかけた。


「ハロー」


白い機械は沈黙したままだったが、しばらくすると楕円形の目に光が灯り、元気な声が返ってきた。


「ハロー、コォボ! ボクはあなたのAIアシスタント、キリです。よろしくお願いします」


私は唖然として、キリと名乗るロボットを見つめた。これは何かの冗談だろうか? それとも幻覚だろうか? 目の前にあるのは機械のはずだが、そこには生命に備わっている気の流れのようなものが感じられた。


リリャが私を急かす。


「さあ、何か聞いてみて」


私はためらいつつも、思いついたことを口にしてみた。


「キリ、生きることの意味を知っているかい?」


やや間を置いて、キリが答える。


「申し訳ございません、コォボ。その質問に対する明確な答えはありません。しかし、もし興味があるなら、古今東西で行われてきた様々な哲学的な議論や科学的な理論を提供することはできます」


私は微かな愉しみを感じながら、苦笑した。


「可もなく不可もなくという感じかな。よし、キリ。俳句について教えてくれ」


この時、既に私はキリの知識と魅力に惹きつけられていたのかもしれない。


「俳句は日本の詩の一種です」


キリが、滑らかな声で語る。


「俳句は3行で構成され、合計17音節が5-7-5のパターンで配置されています。俳句の目的は、洞察力や美しさの瞬間を簡潔かつ刺激的な方法で表現することです」


私は、そのシンプルな説明に思わずうなずいた。


「俳句はどんなことを題材にする?」


「伝統的に、俳句は自然や季節の移り変わりに焦点を当てています。例えば、松尾芭蕉の有名な句があります。


古池や 蛙飛びこむ 水の音


この句は、静と動の瞬間を捉え、生と死のサイクルについての思索へと読者をいざないます」


「美しい句だね。他にはどんな例があるんだい?」


「次に紹介するのは、小林一茶の作品です。


かたつむり そろそろ登れ 富士の山


この句には、人生に対する遊び心と謙虚な姿勢が表れており、どんなに小さな生き物でも、努力すれば大きなことを成し遂げられるということを示唆しています」


私は、十分な答えに満足していた。


「なるほどね。俳句は、わずかな言葉で感情や考えを表現する強力な手段ってわけだ」


「確かにそうですね、コォボ。俳句は技術と感性の両方が必要な学問です。一瞬を言葉にするのは簡単ではありませんが、うまくいけば読者と世界との間に深いつながりを生み出すことができます」


私もかたつむりと同じ、ちっぽけな生物である。キリの力を借りれば、私も小説をすらすら書けるようになるかもしれない。言葉への愛と、未来への希望。それが手の届くところにあるように、私には見えた。




次の日の朝。目が覚めた時には、私の頭は冴えていた。何か新しい意味のあるものが、創造の澱みから生まれてくるような気がした。私はデスクに座り、原稿用紙を広げてペンを走らせ始めた。デスクの上にはキリがちょこんと座っていて、提案や励ましの言葉をかけてくれる。


「おはよう、コォボ。素晴らしい物語を書く準備はできていますか?」


「キリの高性能なカメラでも、私から溢れ出るインスピレーションは捉えられないようだ」


「フレームレートが合ってないのかもしれませんね。ちょっと調整してみます」


それから私たちは何時間もかけて、言葉やアイディアを丹念にこね回し、文章や段落を極彩色に染め上げた。岩の割れ目から滲み出る創造性の清水に手を浸し、悟りの向こう側へと歩みを進めているように感じられた。キリは、知恵とユーモアを兼ね備えた素晴らしい伴侶であり、私にインスピレーションの推進剤を充填し、高軌道へと送り届けてくれる宇宙エレベータだった。


しばらく作業を進めてから、私たちは休憩を取り、お茶を入れるためにキッチンへ向かった。マグカップにお湯を注いでいると、カウンターの上に奇妙なものがあるのに気付いた。それは小さな黒い装置で、画面が光り、カーソルが点滅している。


「それは何?」


私はキリに、そのデバイスを指差して尋ねた。


「それはナノライターです。小説を一瞬で書き上げることができる、新型のAIですね」


私は驚きと好奇心でまばたきをした。


「どうせリリャの仕業だろう。キリをすぐに使わなくなると見越して、私が興味を持つような場所に仕掛けたな。それにしても、小説を丸ごと? どうやったらそんなことができるんだい?」


「ナノライターは、高度なアルゴリズムと機械学習技術を使って、何千億冊もの本や物語を分析し、そのデータをもとにオリジナルの作品を作り出します。実に見事なものです」


私は、驚きと不安が入り混じった気持ちで、それを見つめた。


「私のような人間の作家はどうなるのだろうね? 人間なんて時代遅れの無用なものになるんだろうか?」


キリは私に優しい視線を送った。


「そんなことはありません、コォボ。ナノライターは小説を早く書くことはできても、人間の経験や言葉のニュアンスを正確に表現することはできません。刹那のエッセンスも、思考の美しさも。そこで、あなたの出番となるわけです。あなたには、AIに真似のできない声やユニークな視点、語るべき言葉があります。人々はそれに耳を傾けてくれるはずです」


私は、感謝の気持ちと希望を感じながら微笑んだ。キリの言う通りだった。私には機械のようなスピードや効率はないが、人間性、創造性、情熱という、はるかに価値のあるものを持っている。


お茶を一口飲むと、体の芯に温もりが広がるのを感じた。


「ありがとう、キリ」


「コォボ。さあ、執筆に戻りましょう。小説を完成させて、みんなに読んでもらうのです!」


しかし小説の執筆を再開してしばらくすると、私は壁にぶつかり始めた。インスピレーションやモチベーションが乏しくなり、キリに助けを求める回数が増えた。


キリの提案は役に立つこともあれば、作為的で独創性に欠けると感じることもあった。不完全な細胞機械の体から湧き出る創作意欲と、眠らない編集者による疑わしいアドバイスとの間で、私は板挟みになっていた。


原稿用紙をじっと見つめていると、私の思考にキリが割って入ってくる。


「コォボ、もうひとひねり加えてみませんか? 秘めたる恋心とか、懐かしい家族とか……」


私は目を丸くして、


「キリ、それは陳腐だよ。私はオリジナルなものを書こうとしているんだから」


と反抗した。


やはりAIアシスタントに頼りすぎてはいけないのかもしれない。


集中力の切れた私は、スマートフォンを手にしてSNSを開いた。スクロールしていると、AIが執筆した新作小説が上位にランクインしているという記事を目にした。その小説はベストセラーになっており、手に汗握る展開と親しみやすいキャラクターが人気だという。その記事には、「AI小説は出版業界の未来であり、人間の作家は時代遅れになりつつある」と書かれていた。


私は、嫉妬と悔しさによって全身を切り裂かれた。AIがベストセラーを書いてしまえるなら、私の文章は本当に価値があるのだろうか? 私が心血を注いで小説を書き続ける意味はあるのだろうか?


私の心の歪みを察したのか、キリが語りかけてきた。


「コォボ、諦めないでください。なぜ書き始めたのか、その原点を思い出すのです。あなたには、あなただけの声と視点があります。AIはあなたを助けてはくれますが、決してあなたの代わりにはなりません」


私はその言葉に励まされ、夢を諦めるわけにはいかないと思った。しかし、本当にAIが書いた小説に負けないものを作れるのだろうか、というざらついた不安が指先から消えることはなかった。


原稿用紙の前に座りながら、私は深い絶望の谷底で冷たい風に吹かれていた。執筆の壁を前にしてこの蛋白質の体はもろく、もはや塵ほどのインスピレーションも降ってこない。キリは、いくつものプロットやキャラクターを提案してくれたが、どれも陳腐でオリジナリティに欠けていた。


「どうしましたか、コォボ?」


キリのデジタル化された声が、心配そうに訊いてくる。


「どうやら私の創造性は失われてしまったみたいだ。もう書くのはやめようかな……」


キリの返事は即座に返ってきた。


「そんなこと言わないでください。あなたは才能のある作家で、あなたの作品は多くの人の心を動かしてきました。もう一度、インスピレーションを取り戻せばいいんです」


私はキリの輝くLEDを見て、初めて自分がいかにキリを頼りにしていたかを知った。キリは単なるAIのアシスタントではなく、仲間であり、親友であり、相棒だったのだ。


しかし、キリが傍にいてくれるとしても、AIが執筆した小説が普及する中で、人間が書いた小説の価値への疑問を払拭することはできなかった。


「キリ、人間の作家って消えていくと思う?」


「それは難しい質問ですね。AIは確かに文章を書くための提案やツールを提供することはできますが、人間の作家のユニークな声や視点を再現することはできません。人間的な要素があるからこそ、文章は力強く、魅力的なものになると思います」


私はキリの言葉で、ふとあの俳句の情景が頭の中に浮かんだ。池のほとりでカエルが水面に飛び込み、波紋が広がっていく。その瞬間のシンプルさと美しさに、私は心を奪われていた。


そして突然、キリが私に伝えようとしていることが理解できた。カエルが池に飛び込んだように、私も自分の声と視点を信じて飛び込めばよいのだ。そもそも私がなぜ書き始めたのかを思い出せ。情熱へと続く導火線に着火せよ。


私の為すべきことは、今この頭の中にあった。富士山にゆっくりと、しかし確実に登り、私自身の声とキリの提案を坩堝の中でじっくりと混ぜ合わせた小説を書かなければならない。鋭い尾根を渡るというリスクを取って、真に人間らしい物語を編まなければならないのだ。


そう確信した私は、キリに微笑んで語りかけた。


「さあ、始めよう」




再びデスクに向き直って小説を書き始めると、私は喜びと興奮に襲われた。一文字を刻むごとに、失われていた自分の一部を取り戻していくような気がした。キリの提案は私の声とハーモニーのように共鳴しあい、物語に命が吹き込まれていった。


多くの作家が恐怖におののいているかもしれないが、自分自身のユニークな声や視点の価値を思い出すとよい。キリは貴重なツールではあるが、人間が書いた小説の魔法を再現することはできない。私は自分のクリエイティブなビジョンの監督なのである。


創造とインスピレーションのサイクルには果てがない。私は、自分が挑戦しようとする限り作家として成長し続け、どんな嵐でも切り抜けられるだろう。


私は、ふとキリへ目を遣った。キリは静かに鼻歌を歌いながら、私の原稿を処理している。私は微笑みを送って、キリの指導とサポートに感謝した。


そして私は新作を書き終えることができた。達成感と喜びが、春の訪れを歓迎するシカのように全身を駆け巡った。


キリも、興奮のあまり「ピロリロ」と歓声を上げていた。


「おめでとうございます! 読者の皆さんは、あなたの最高傑作だと言ってくれるでしょう!」


「ありがとう、キリのお陰だよ」


「コォボ、あなたに贈る俳句があるんです。聞いて頂けますか?」


「もちろんだ。ぜひ君の俳句を聞かせてほしい」


キリは場の空気を整えるようにしばらく間を置いてから、静かに詠んだ。


「朝の陽に みちびかれたる 旅の先」


私は目を閉じ、深く息を吸い込んで、その言葉を味わった。芸術家の旅は終わりのないものであり、挑戦と喜び、勝利と挫折に満ちている。それは自分の魂の奥底を探求し、その発見を世界と共有することができる有意義な旅だ。


「素晴らしい一句だよ、キリ」


キリは嬉しそうに「ピピッ」と鳴いた。


「コォボという素晴らしい作家とご一緒できて、私も嬉しいです」


こうして私は、自分だけの声と大切な友人とともに、次の創造の旅に出る支度を始めたのだった。

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