【短編】楠千里子はシンデレラなのか?

夏目くちびる

第1話

 嘘でも愛でも何でもいいから、誰か私を慰めて。



 毎日、眠る前に幸せを妄想して唱える私の悲しい呪文だ。この呪文を唱えると、何だかいい夢を見られる気がする。



 起きている間に夢を見なくなった私には、眠った後でしか甘えられる場所を見つけられないから。こうして、人には言えない慰めをしなければまともに立っていられないのだ。



 私は、丸の内のとある総合商社に勤めるサラリーマンだ。オフィスレディではなく、サラリーマン。スーツを身に纏い、髪を短くした、男のようなサラリーマン。



 大学生のあの日まで、私は正しい人が報われるモノだと本気で信じていた。

 だから、私は勉強を頑張ったし、ルールを守って生きてきた。不純異性交遊なんてもってのほか。そもそも、勉強に尽力したせいでそっちに意識を向けてる暇もなかったけど。



 けれど、ある日キャンパス内で楽しそうに笑うカップルやサークル集団を見て、不意に気付かされた。

 私には、大人に褒められること以外で笑った記憶がない。頼ったり、共有出来る思い出を持った仲間がいない。もちろん、恋人なんて存在があるハズもない。



 ただ、勉強とルールに塗り潰された私の青春。生徒会に所属して、生徒たちを型に嵌めて、嫌われながら大人にとって都合のいいルールを他人にも強制して、それが正しいってずっと思ってた。



 そして、気付いても尚、私はその常識から逃れる事は出来なかった。

 そんな事をしてしまえば、今までの全てが間違っていたって認めてしまったら、もう立ち直れないんじゃないかって思ったから。



 ……いつの間にか、社会人になっていた。



 もう、精神や経験の取り返しがつかないところまで来てしまったと分かったのは、会社の人たちが私へ向ける態度を知ってからだ。



 どうやら、社会は杓子定規に当てはめられるモノでもルール通りに動いているモノでも、ましてや正しい人が認められるモノでもなかったらしい。



 ……いや、それは正確ではない。この資本主義社会である日本という国においては、どんな手を使っても金を稼げる奴が正しい。



 そういう意味で言えば、正しくないのは私だ。常識に囚われた私が社会の非常識となるなんて、なんて皮肉なことなんだろう。



 私は、これまでの経験と知識を使えばきっと幸せになれると信じていた。対人能力だって、決して低くないから面接に受かったのだと思っていた。



 しかし、実戦は剣道と真剣勝負くらいまったく別の代物だ。柔軟な思考と対応力、更に言えば上下左右の交友関係にまったく応用の効かない私の仕事が上手く行くハズもなかったのだ。



 そうやって営業を追いやられて、私は総務部に腰を落ち着ける事となった。

 今の私の仕事は、社内でコンプライアンス違反を犯した社員の履歴を調査して取り締まること。結局、学生時代とやっていることが何も変わらないルールを他人に押し付ける生活を送っている。



 しかし、こんな仕事をしていれば当然営業の男性社員たちに好かれるハズもなく。更に言えば、彼らを慕っている女性社員にもよく思われず。

 つまるところ、私は学生の頃と同じように嫌われて、しかしあの日のようにルールが正しいとも信じきれなくなった自分の感情と板挟みにされている。



 その末が今。



 もう、幸せになれるハズなんてないって分かってしまったから、人と関わるのが本当に嫌だ。

 毎日毎日、無機質に取引履歴をチェックして、何を言われても会社のルールを押し付けるだけの冷たい女として生きている。



 お金はたくさん貯まるけど、これを浪費する気も起きないくらい、私は生きることに疲れてしまっているのでした。



 ……。



 アラサーともなれば、ずっとパソコンの画面を眺めていると本当に目が痛くなってくる。

 私は、青空を見て目を癒そうと思うと、一度トイレに向かい帰りに自販機のあるスペースで小休憩を取ることにした。



「ふぅ」



 缶の緑茶を一口。息を吐いて、窓の外を見る。そういえば、まだお昼ご飯を食べていなかった。

 声を掛けてくれる友達もいないから、没頭しているとつい忘れてしまう。この隙に、菓子パンでも買って食べてしまおうか。



 そんな事を考えていると、ふと窓の外にいた男の人と目があった。ヘルメットを被って、作業着の上にハーネスを巻き付けた男の人。どうやら、窓を拭いてくれているらしい。



「ここ、30階ですよ?」



 なんて怖いもの知らずなんだと思いながら仕事を眺めてると、ワイパーを腰に引っ掛けた彼が私に気がついて目線を向けてくれた。



 ……瞬間、逆光で見えなかった顔が顕になる。それは、とんでもないイケメンだった。



 髪型も分らないのに、こんな端正な顔付きだって分かるなんて、普通に考えてアイドルやモデルと同じレベルなんじゃないだろうか。



 少し暴力的な雰囲気。いや、昔に悪いことをしていて、今はすっかり落ち着いているといったところかしら。とにかく、私のような真面目バカが思わず憧れてしまうタイプといって差し支えない人だ。



「……ゴクリ」



 見惚れていると、彼はニコリと笑ってヘルメットのツバを少し持ち上げ、軽く会釈をして再び洗剤を隣の窓へ吹き掛け、ワイパーで汚れを落としていった。



 こんな高いところで笑顔って、どんなメンタルしてたら出来るんだろう。



 そんな彼を見ているうちに、私は胸の奥側がキュンと締め付けられたような感覚に陥った。

 しかし、やがて彼は静かに迎えに来たゴンドラに乗ると、ボーッと立ち尽くしたままの私に今度は右手をひらひら振って挨拶をしてくれた。



「あ、あ……っ」



 私は、手を振り損ねた。なんてノロマなんだろ。



 どうやら、別の場所へ向かうらしい。左斜め方向に下がっていくゴンドラの行方を、私は窓に張り付いて見下ろす。

 彼は、そこでもロープでぶら下がりゴンドラからは届かない場所の小さな窓をフキフキしていた。 



 彼の思考を妄想すると、私は怖くなって思わず内股に力を入れ一歩後ろへ下がってしまう。こんなに高いところに宙吊りになって仕事なんて、どう考えてもイかれてる。



 尋常じゃない。あぁいう人が、いるところにはいるモノなんだなぁ。



「……はぁ」



 それにしても、カッコいい人だった。もしも、さっきのキュンが恋のキッカケなんだとしたら、私の経験の無さもいよいよ極まっている。

 イケメンにちょっと微笑みかけられたから惚れてしまうだなんて、丸っきり中学生ではないか。



 危ない危ない。妙な希望を持ちたくないし、これからはなるべくイケメンと目を合わせないように生きることにしよう。うっかり惚れてしまったら、もっと悩み事が増えちゃうしね。



 ……それから、私は急遽舞い込んだ仕事を終わらせるために3時間ほど残業をして会社を後にした。



「疲れた」



 電車の中で独り言を呟くと、なんでかな。線路の下に見える居酒屋さんがやたらと魅力的に見えた。

 普段は外でご飯なんて食べないけど。今日はすっごく疲れたし、なんかお酒を飲みたい気分だったから次の駅で降りることにした。



 赤い看板の、チェーンの居酒屋さん。こういうところ、たまに飲み会で来たりするくらいで全然慣れてない。まぁ、社会勉強だと思って今日は恥をかいておこう。



 いつまでたっても知らない分からないじゃ、もっと歳を取ったときに恥ずかしいし。



「しゃーせーい!」



 入り口の見えるキッチンから板前さんの声が響き、続いて可愛らしい女の子の店員さんが私のところへパタパタと足音を立ててやってきた。



「いらっしゃいませ〜、何名様ですか〜?」

「ひ、一人です」

「お一人様ですね〜。カウンターのお席へご案内します〜」



 『お一人様』という言葉がチクリとくるのは、流石に被害妄想が酷いんじゃないかと我ながら思った。



 黒いコートを脱いで壁にハンガーで引っ掛け、カウンターの椅子を引いて静かに座る。

 すぐに、さっきの店員さんがおしぼりを持ってきてくれた。最初の飲み物を聞かれたが、咄嗟に答える事が出来なくて「後で頼みます」と答えて壁のメニューを見上げる。



 なんて情けない。人にルールを強制するくせに、私はこの店のルールを守れないだなんて。



「あれ、昼間の眼鏡のお姉さんじゃないですか?」



 ……え?



「あ、やっぱりそうだ。俺ですよ、昼にガラス越しに手振ったの覚えてます?」



 隣りに座っている声の主を見ると、それは紛れもなく例のメンタルがイカれているイケメンさんだった。



 覚えていないワケがない。忘れられるワケがない。きっと、私はあなたのせいで仕事が捗って、そして悩みが増えかけて、だからお酒を飲みたくなったのだから。



「こ、こんばんは」

「こんばんはです。仕事帰りですか?」

「はい」

「そうなんですか。夜遅くまで大変ですね、お疲れ様です」



 言うと、彼はニコリと笑って再び前を向きカウンターに並べていた馬刺しを摘み、そのままボーッと店内に流れるラジオを聞き始めた。



 それだけ。挨拶だけ。



 別に、馴れ馴れしく話しかけてくるワケでもなく、変にパーソナルスペースを犯すワケでもなく。本当に、偶然会ったからちょっと声を掛けてみただけって感じ。



 そっか。なんか、ナンパ的なあれ何じゃないかと思ったけど。まぁ、普通の人は挨拶くらい当たり前か。そもそも、私にそんな魅力があるワケじゃないし。



 あはは。ぐす。



「……えっと、どうしよっかな」



 注文用のタブレットを眺めて、結局ビールを頼んだ。料理は、どうしよ。彼の食べているモノがやたらと美味しそうに見えるけど、同じモノばっか頼んだら変に思われるかな。



「でも、美味しそうだなぁ」

「これですか?」



 お皿を動かされ、変な汗が出た。



「独り言、出てますよ。疲れてそうですね」

「あ、えっと。すみ、すみません。えっと、うるさくてすみません」

「いえいえ、よかったらどうぞ」



 やってしまった。



 寝る前に呪文を唱えてしまうくらい寂しがり屋の私は、いつからか独り言を呟くようになっている。

 年末に実家に帰ったとき、お母さんに指摘されたから周りに人がいる時は気をつけていたのに。



 彼の言う通り、私は疲れているらしい。



 それにしても、よりによってこの人の前で出してしまうだなんて。絶対に気味悪がられたに決まっている。凄く居心地が悪い、すぐに逃げ出したい。



「お待たせいたしました〜、ビールです〜」



 意味が分からなくなって店を出ようとすると、お姉さんがにこやかな笑顔でビールを持ってきてくれた。

 おまけに、知り合いだと思われたのだろうか。彼の料理を取るための取皿まで一緒に。



 な、なんでこんな事に。 



「よく一人で飲みに来るんですか?」



 彼は、特に何も言わず自分の料理を私との間に置いて取りやすくしてくれた。なに、この私を庇う対応力。あまりにも自然過ぎて、最初から友達なのかと思っちゃった。



「いや、初めてです」

「そうなんですか。ここ、何食っても美味しいのでオススメですよ。どうぞ」



 何というか、イケメンなのにチェーン店で気取らないで楽しそうに、しかも嬉しそうにご飯を食べている姿には一抹の違和感を覚えてしまった。

 こういう人は、色んなところで遊んで知り尽くして、だからお金を掛けたモノを好むんじゃないかって勝手なイメージがついてたからだ。



「ありがとうございます」



 差し出された馬刺しを一つ。生肉ってあんまり食べないけど、醤油と食感と脂がたまらなくおいしい気がする。



 緊張してしまって、よく分らない。とりあえずお酒を飲もう。



「あの、お兄さんは……」

南雲みなぐもシオリです、女の子みたいでしょう?」



 確かに、かわいい名前だと思った。



「南雲さんは、高いところ怖くないんですか? 昼も、凄いなぁと思って」



 とりあえず、緊張を解したくて。だから、一番気になっていた事を聞いてみることにした。



「怖くないですよ、ダムや橋なんかにもぶら下がって作業することありますし」

「ひ、ひぇ……」

「昔っから、高いところで生活してましたからね」

「生活?」

「はい。俺、ガキの頃はシカゴのデッカいスーパーマーケットの屋上にある看板の中に住んでたんですよ。ホームレスです」

「えぇ!?」



 彼が何を言ってるのか、私には良く分からなかった。シカゴの看板の中?ホームレス?それが子供の頃の記憶?



 何を言ってるの?もしかして、誂われてるんじゃないかしら。



「それに、世界中回って山だのタワーだの登りまくってますからね。むしろ、楽しいくらいです」

「せ、世界旅行ですか?」

「冒険ですよ、冒険。今でも、金が貯まると仕事辞めて一年くらい放浪するんです。そんで、金が尽きたら貯まるまでその国で生活するんですよ」

「ちょっと、凄すぎて信じられないです」

「なら、写真見ます? いっぱいありますよ」

「ほぁ〜……」



 見せられたスマホの写真には、テレビで見たことのある有名の建物やゲレンデから、どこなのかも分らない砂漠と岩壁までをもバックにして、きっと一人で撮ったであろう写真がたくさん詰まっていた。



 何なんですか、この人は。



「この辺とか、随分とお若いですね」



 それは、デジカメのデータを移植した解像度の荒い写真だった。やっぱり昔は荒れてたらしく、怖い顔の彼がいる高い岩の壁からは、地平線の向こうまで広大な景色が広がっていた。



 綺麗。こんな景色、私は見たことがない。



「あぁ、これスリランカですね。看板の中で一緒に住んでたおっさんに教えてもらった時から行ってみたかったんで、一番最初に冒険したんですよ。14歳だったかな」

「……一緒に住んでた? あの、14歳って学校とかは? というか、ご両親は?」

「行ったことないですし、親もいませんよ。でも、冒険先の国で友達作って、言葉とか国の歴史を教えてもらってたら色々覚えました。はは」



 ハッキリ言って、圧倒されていた。彼がどんな人生を歩んで来たのかが少しも想像つかなくて。あまりにも、私と人生のスケールが違い過ぎたからだ。



 彼の言葉が嘘じゃないって、この写真とあのメンタルを見せられたら信じるしかない。けど、ならばどうして私にこんな優しくするんだろう。



 考えれば考えるほど、分からなくなってくる。思考の糸が、こんがらがってメチャクチャだ。



「だから、算数とか理科は出来ないですね。お姉さんは、あんなすげぇビルで働くくらいだし頭いいんでしょうね」

「……楠千里子くすのきちりこです。別に、頭なんてそんな」

「千里子さん、いい名前ですね」

「し、栞君だって。その、あぅ……」



 この数瞬の会話の間に、一体いくつ私の知らない世界があっただろう。

 そして、そのどこにも私の常識が通用しない事を理解してしまって、あまりにも茫漠とした意識の差に目眩すら覚えた。



「どうです? 写真、楽しそうでしょう。冒険は、俺の生き甲斐なんです」



 ……憧れとは、きっとこの感情の事を言うんだって思った。



 私は、南雲さんの語る世界の一つ一つに興味を引き込まれ、写真の中に写る彼の笑顔に惹き込まれていた。

 知っている事が一つもない。こんな感覚、今までに一度だって感じたことがない。



 私の小さな世界、全部壊されたって感じがして心から羨ましい。

 きっと、私は何度生まれ変わったって、南雲さんのように自由に生きる事なんて出来ないだろうから。



「……いいなぁ」

「普通に仕事してれば出来ないですよねぇ」

「あ、そうじゃなくてですね。なんか、南雲さんの生き様と言いますか。私、凄く卑屈なので。明るくて、やりたい事を何でもやれちゃうのが羨ましいと言いますか」



 こんな時、私はちゃんと伝えたいことを伝えられないんだって初めて知った。

 辛い。本当はもっと、南雲さんの話を聞きたいのに。あなたみたいな人なら、私の抱えている悩みをどうするのか聞いてみたいのに。



 ……あれ、もう酔ったのかな。まだ、ビール一杯しか飲んでないけど。疲れていると、お酒が回るのが早いって聞いたことが。



「俺みたいなって、千里子さんはそんなに窮屈な生き方してるんですか?」

「う、うん。しかも、他の人にもルール押し付けちゃうような感じ」

「そうですか。なら、何があったのか話してみてくださいよ。せっかく会ったんだし、どうすればいいのか一緒に考えてみましょう」



 先に教えてくれたからか、誘われるままに自分の過去の話をしてしまった。

 それにしても、なんて話しやすいリアクションをしてくれるのだろう。寂しさも相まって、お酒と口が回る回る。



 そうして、すべてを話し終わった時。



「よく頑張りましたね」



 私は、自分が南雲君の目を真っ直ぐに見つめていた事に気がついて。だから、冷静になってラジオの音が耳に入ったとき、恥ずかしくて俯いてしまった。



「しかし、結構ヘビィな悩みですね。少なくとも、俺には耐えられなさそうです」

「えぇ? いや、南雲君の人生と比べたら別に」

「そんなことないですよ、千里子さんはめちゃ辛いと思います。ちゃんと出来て偉いです」



 ……きっと、彼以外の人にそんな言葉を言われても、薄っぺらいって思っただろう。私の何を知ってるんだって、捻くれた感想を抱いただろう。



 でも、ずっと黙ってニコニコしてくれて、私のことを分かってくれたって思ってしまった。日本じゃ考えられないような過酷な環境で育って、それでも明るく生きている南雲君だからこそ。



 もしも、この選択肢が間違っていたとしても、私は後悔しないって信じられた。



「ど、どうしたらいいかな」

「つまるところですね、千里子さんは寂しいんですよ。人間って、目標とか趣味とか、後は尽くしたい人なんかがいれば辛い事も頑張れますから」

「うっ、いきなりそんなクリティカルな指摘を」



 辛くなるから、その辺はボカしておいたのに。



「だから、作りましょうよ。目標とか、趣味とか、恋人を」

「……やろうと思って出来るなら、誰も苦労しないよ」



 いつの間にか、私はタメ口を使っていた。南雲君が年下だって分かったから気が抜けたのだ。



「なんでですか? ひとまず、友達は出来たじゃないですか。もう寂しくないですよ」

「ふわ!?」

「次は趣味ですかね。明日、朝から日帰りで草津の湯畑行くんですよ。さっき暇だって言ってましたし、一緒に行きましょうね」

「待って! テンポが早すぎてついていけないよ!」



 彼の中では完全に行くと決まっていたのか、私の反応を見ると少し不思議そうに首を傾げる。ただそれだけで、私の脳みそは沸騰してしまった。



 ズル過ぎる。そんなふうにされたら、例え詐欺だって思っても断れないじゃないですか。



「嫌ですか?」



 嫌なワケないから、こんなに困ってるのに。きっと、南雲君には私みたいにウジウジ考える人の気持ちが分らないのだ。

 というか、ウジウジ考えてたら本当に命が危ないシーンに出会い過ぎて、即断即決がデフォルトになってしまっている。



 きっと、この生き方を選べるのは彼の中に彼だけのルールが存在するからに他ならない。それに従って生きるから、南雲君はこんなに明るくて気持ちがいいのだ。



 ……羨ましくて、仕方ない。



「いえ、あの。はい、ありがとうございます。えっと、頑張ります」

「オーライ、ライン交換しましょ」



 そして、スマホを取り出して方法が分からずオロオロしていると、彼が勝手に全部を終わらせてくれた。



「よし。ということで、乾杯しましょう。特急、俺の隣の席が埋まってたら嫌ですね」

「は、はい」

「お、まだ空いてますよ。はい、購入したんでコード送ります。それ、乗るときに必要ですからログインしておいてください」

「……ひぅ」



 本当に、やることはやるって感じだ。とっとと手続きを終わらせた南雲君は、さっきまでの脱兎のようの忙しない行動から一変。まったりとグラスを傾けて静かに微笑んでいる。



「草津の温泉って猿も入ってるんですって、猿だからってタダはズルいですよね〜」



 あまりにも間の抜けた話題で一段落したせいで、私はもう戻れないところまで彼に惚れている事に気がついてしまった。



 なるほど。恋は落ちるモノとは言いますが、ここまであっさりと一番下まで落ちてきてしまうとは想像もしてませんでした。



 大人って、こんなに簡単に人に惚れてもいいのだろうか。私には、ちっとも分からなかった。



「そのお猿さん、お風呂から上がったら律儀に牛乳まで飲むんだよ」

「マジですか!?」

「ふふ、ウソぴょん」

「ふはっ! 信じちゃったじゃないですか!」



 何だか、靄がかった景色がすっかり晴れたような気分。それにしても、もうここにあるモノを遠くまで探しに行くなんて、我ながらとっても間抜けな話だ。



 打ち明けたら、南雲君は笑ってくれるだろうか。そんな事を考えたが、私にはそんな勇気なんてないから黙って彼のお話を気のゆくまで楽しんでいた。



 今日からは、呪文を唱えなくても眠れそう。



 × × ×



「あれ、スーツと全然イメージ違いますね」

「買ってから、着る用事が無くて奥にしまってたんだけど。へ、変かな」

「いや、いいんじゃないですか? 俺は好きですよ〜」



 鳥の鳴き声と街の雑踏をなんとなく聞きながら、私は上野駅で南雲君を待っていた。

 緊張し過ぎて眠れなくて、うっかり早く来てしまったけど。待っている間、私は少しも退屈だとは思わなかった。



 というか、むしろもう少し一人でいたかった。トントン拍子に事が進んでしまって、未だに心が荒波を打っているからだ。



「じゃ〜ん、缶ビールとシウマイ弁当〜」

「も、もう飲むの?」

「そりゃ、特急乗ったらビールとシウマイ弁当でしょう。何なら、日本人はこれしか食わないって聞きましたよ?」



 ここ、普通に東京なんだけどね。



「誰に聞いたの?」

「フランスで会った関西弁のブラジル人のおっさんです」

「ふふっ。もうメチャクチャ」



 上野から高崎へ向かい、それから一駅挟んでバスで揺られること30分。私たちは、午前中のうちに草津温泉湯畑へ辿り着いた。



 湯畑についてからは、幾つかの温泉に入って体を癒やし続けた。

 そんなこんなで、お腹も空き始めた午後15時頃。休憩しようと南雲君が提案したから、私たちは茶屋でうな重を食べて二階のカフェテラスでのんびり過ごしていた。



「マジで猿がいましたね。俺のことジッと見てきたから、うっかり話しかけちゃいましたよ。普通に無視されましたけどね」

「あはは、きっとメスだったんだよ」

「え? なんでメスだって分かるんですか?」



 そりゃ、あなたの顔に見惚れるならば高確率でメスでしょうよ。



 とは言えず。



「ほら、お猿さんは野生の勘で優しい人のオーラが見えるから。南雲君の事が気になったんじゃないかな」

「それ、なんか嬉しいですね。優しいって言われると、結構テンション上がります」



 私は、きな粉あんみつラテをストローで啜りながら今度南雲君に直接優しいって言ってあげようって思った。

 けれど、困った。こっちのネタで話を振ったら、次に驚く顔を見られないかもしれない。



 ……。



「まぁ、お猿さんなら顔がかっこいいって思ったりするかもしれないし」

「へぇ。もしかして、千里子さん俺の顔好きだったりするんですか?」



 ずっるい。普通、こういうときって誤魔化したり照れたり、或いはウザったく反応するモノでしょ。

 それを、こんなにかわいらしく尋ねて。年下だからって、遠慮もなしに。顔のことを褒められるのが、まるで当たり前の慣れっこみたい。



 本当に、ズル過ぎる。



「ちょっと」

「そうですか、ありがとうございます」



 言って、南雲君は目にシワを寄せて無邪気に笑った。憎たらしいくらいカッコいいこの顔を、何とかして歪ましてやりたいと思うのは、独り占めしたいからか、それとも私の性癖が歪んでいるからか。



 何れにせよ、完全敗北して悔しいから、私は何も言わずに空へ立ち込める温泉の湯気へと目を逸らした。


 

「旅行は、趣味になりそうですか?」

「う〜ん、一人で来ようとは思わないかも」

「そうですか。まぁ、仕方ないですね」



 抹茶パフェを食べる南雲君は、何だかションボリしているようだった。何というか、本当に私の人生が明るくなるように頑張ってくれてるんだなって思った。



 けれど、その下心の無さが、私は少しだけ悲しい。



「南雲君ってさ、やっぱ世界中にガールフレンドがいたりするの?」

「ノーコメントでお願いします」

「あ、やっぱりそうなんだ」



 ちょっとだけ怒ったような目を向けると、彼はお茶目に笑った。



「まぁ、仲のいい女友達っていうんならいるけど、いわゆるガールフレンドはいないです」

「なんで?」

「内緒です、千里子さんには教えられません」

「なによ、それ」



 ……多分、遊び相手なら幾らでもいるんだろうなって思った。だって、少しも寂しくなさそうなんだもん。



「ふぅん」

「な、なにかな」

「千里子さん、やっぱカレシが欲しいんでしょ」



 邪推だ。それだけはわかって欲しい。



「べ、別に。寂しくないなら何だっていいよ」



 ただ、恋人が一番分かりやすく、私を安心させて慰めてくれるんじゃないかって思っただけ。他に満足出来るなら、それでもまったく問題ないもの。



「どこまでやったことあるの?」

「どこまでって、なにが?」

「恋人っぽいこと。知ってたら、そんなに羨むような事でもないんじゃないかって思って」



 南雲君の意見は、ビックリするくらい私の盲点を突いてきた。

 確かに、私が知らないから神格化しているだけで、実際に経験してみれば全然心の埋まらない大した事じゃないのかもしれない。



「な、何もしたことないよ。だって、カレシ出来たことないもん」

「手を繋いだことも?」

「う、うん」

「キスしたことも?」

「……うん」



 それにしても、ここまで聞いてくるのは少しイジワルが過ぎるのではないだろうか。アラサー女の一人ぼっちを誂ったら、そのうち本当に泣き始めちゃうんだから。



「じゃあ、やってみる?」



 ……え?



「恋人の練習。俺、やり方分かるよ」

「は、はわ……」



 脳がショートする。何も考えられなくなる。たった一つの提案に、私はすべてを奪われている。



「俺じゃ嫌かな」



 溶けきった氷の水を吸っても、ズゾゾと情けない音がなるだけで喉は潤いもしない。

 どんどん、顔が熱くなってくる。この真っ赤になった耳が湯あたりだと言ったら、南雲君は信じてくれるだろうか。



「ち、ちち、違うくて。その、ほんと、ちょっと待って欲しい、です」



 いつの間にか、周りの音が聞こえなくなっていた。ただ、微笑んでいる南雲君の顔だけが私の意識を支配している。



 彼は、悪魔なんだ。



 少なくとも、私のルールには昨日出会ったばかりの男と手を繋いだりキスをしたりする、なんて項目はない。

 順序を重ねて、段階を踏んで、そうやって初めて辿り着くモノだって。凄く青臭くて恥ずかしいけど、恋愛ってそういうモノなんだと思ってた。



 なのに、面倒事の全てをすっ飛ばして、いきなり憧れている彼を手に入れるだなんて。そんなの、悪魔でもない限り不可能に決まっているだろう。



「どれくらい待ったらいい?」

「……ぅ」



 南雲君は、待ってなんてくれない。



 オフィスで手を振りそこねた時のように、このチャンスを逃したら私はまた後悔するのだろう。

 間違いなくそうだ。社会のルールに縛られて、大事なチャンスを見逃して。どんどんつまらない方向へ進んでいって。私の人生って、そんな後悔の連続ばっかりだもの。



 ……今だ。



 今、私は私のために何かを選ばなきゃいけない。ならば、私を縛る新しいルールに彼が欲しいだなんて、とっくに分かり切っているではないか。



 だから、もしもこれが彼にとっての遊びなんだとしても。彼が突然居なくなって、深く傷ついたとしても。



「……よ」

「ん?」

「よろしく、お願いします」



 私は、今の私の気持ちを大事にしてみたいって、そう思った。



 本当に、バカだ。



「ふふ、それじゃよろしくね。千里子ちゃん」

「う、うん。あの……」

「今日は、これで帰ろっか。明日も仕事でしょ?」



 先走り過ぎて、思わず何を練習するのか聞いてしまうところだった。彼はこんなに落ち着いているのに、常に余裕のない自分が恥ずかしい。



 けれど、それすらも茶化さずに包んでくれる南雲君は、一体どれだけ大人なんだろう。一体何をすれば、こんなに大人になれたんだろう。



 どれだけ仲良くなっても、それだけは教えてくれないって分かった。



「そ、そうだね。うん。帰ろ」



 こうして、私に恋人の練習をしてくれる男の人が出来た。友達以上カレシ未満。そんな中途半端な関係も、やはり私のルールには無いモノだ。



 ならば、それを形容する言葉は一体なにか。



 その答えが、私は欲しかった。



 × × ×



「おつかれ、千里子ちゃん」



 月曜日。



 就業時間が過ぎると南雲君から『何時に終わるの? 一緒に帰ろ』と連絡が来ていたから、時間を言って近くのカフェに向かった。



「お疲れ様。南雲君も仕事帰り?」

「そうだよ」

「南雲君がいなかったら、職場の人たちが困るんじゃない?」

「そうかもしれないけど、カノジョと飯食いに行くんで帰りますって普通に出てきた」



 言うと、彼はグラスを下げ台に直して私の前を歩いた。あまりにも自然なカノジョ呼びに、思わず本当にそうなってしまったんじゃないかって勘違いしそうになる。



 違う違う。彼は、私の練習に付き合ってくれてるだけだ。ぬか喜び、よくない。



「しかし、すげぇビルだよなぁ。こん中で何してんの?」



 言いながら、私の職場を見上げる南雲君。



「モノを仕入れて売ってる。私はみんなのお手伝い」

「なるほど、分かりやすくて助かる」

「他にも、グループ企業の内事が集まってきたりするかな」

「ふぅん、一流って感じだ」



 聞いた割には大して興味も無さそうだったから、私はバッグの肩紐をギュッと掴んで後ろを歩く。

 東京駅に近付くにつれて、人通りが増えていく。いつも一人ぼっちのこの喧騒の中、ついていく人がいるっていうのは何だか心強い。



「……あっ」



 信号で立ち止まると、ぶら下げていた左手の人差し指を南雲君が攫った。繋いでいるのはとても弱い力なのに、まるで水滴のように熱く吸い付いて離れない。



 離したくないって、私が思っているからだ。



「ふふ、練習だから指一歩だけ」

「……うん」



 恥ずかしくってつい顔を背けると、少し遠くにいた同じ会社の人たちが目に入った。

 どうやら、向こうも私に気がついたようだ。女性社員の数名が、目を大きく見開いて驚いている。そんなに露骨に驚かれると、何だか見下されてたんだなって分かって辛い。



「なんかあった?」

「ううん、何も」



 交互する目線の先には、もちろん南雲君がいる。そりゃ、これだけカッコよければぶっちぎりで目立つだろうと思った。



 私の手柄じゃないのは分かってるけど、すごく気分がよかった。



「新橋に行こうよ。エスニックを食べるんだ」

「う、うん。もう決まってるんだね。びっくり」

「さっきネットで調べて予約したよ。俺、東南アジアに行ったら絶対にタイに行ってトムヤムクンを食べるようにしてるんだよ」



 さらっと予約をとっていてくれた事が、妙に嬉しく感じる。



「そうなんだ。私、あんまり食べたことない」

「本当に? エビが入ってる辛いスープだよ?」

「ふふ、どんなモノなのかは分かるよ。私が言ってるのは、本格的なトムヤムクンを食べてないってこと」

「あぁ、なるほどね。千里子ちゃん、仕事と勉強の事しか知らないと思ってた」

「もう、そこまで世間知らずじゃないよ」



 きっと、私が緊張しないように気を遣ってくれてるんだろうな。恋人のやり方を知っているという言葉に嘘がないのは、喜ぶべきか怒るべきか分からないけど。



「エビはタイ語でクンって言うんだ。クンクン動くからクン」

「本当に?」

「嘘ぴょん。今考えた、猿の牛乳のお返し」

「んもう!」



 誂われて、思わず大きな声を出してしまった。視線を後ろへ向ける。一定の距離をとって、会社の人たちが南雲君を監視しているように見えた。



「あの人たち、悪者?」



 それは、あまりにも予想外な一言だった。



 彼の過酷な試練を生き延びてきた嗅覚か、それとも私が怯えたような目をしていたのかは分らないけど。どうやら、とっくに気がついていたようだ。



「ち、違うよ。同じ会社の人たち」



 彼の目に、14歳だった頃の鋭さが垣間見える。ちょっと怖くて、私は指を握る力を強くしてしまった。カタギじゃ絶対に作れない、殺気にも似た恐ろしい空気。



 あぁ。やっぱり、本当に普通じゃない人なんだ。



「あの人たちに、苛められてない?」

「そういうのじゃないよ。私が浮いてるってだけで、私以外の誰のせいでもない。……かな」

「ふぅん」



 すると、南雲君は私を引き寄せてピッタリとくっついた。まるで、自分の顔が彼女たちの羨むモノだって分かっているかのように。彼女たちに、見せつけるように。



「み、南雲君!?」

「銀座の中、歩いていこうよ。予約の時間には、まだちょっと早いしさ」

「こ、これじゃ本当の恋人……っ」



 彼女たちの視界から逃げるように、南雲君は私を半ば抱くような形で人混みの中を進んでいく。

 時々、強くぶつかってくるおじさんもいたけど。いつもならよろけてしまう衝撃も、すべて彼が受け止めてくれている。



 守ってもらえた。理解して、胸の奥が痛いくらいに締め付けられた。



「ふぅ、こっちは歩きやすいね」

「……うん」



 有楽町も越えて、気が付いたら10分以上歩いていた。恥ずかしくてずっと俯きっぱなしだったから、街の景色が変わったことに気がついていなかった。



「銀座って、なんか居心地悪いよ。俺は好きじゃない」



 私は、好き嫌い以前にほとんど来たことがないから判断が出来ない。



「なら、電車かタクシーに乗ればよかったんじゃない? どうして歩くの?」

「せっかくおいしいモノ食べるんだから、お腹減ってる方が得でしょ」



 ……なんか、こういう庶民的な感覚は落ち着く。常人とかけ離れたメンタルや感覚を持ってるのに、本当に不思議な人だ。



 人混みから離れていけば、それだけ長い間私たちを見せつけられるから、というのは考え過ぎだろうか。



 南雲君の考えが分らないのが、何だか凄く悔しかった。



「ついたよ」



 それは、如何にもエスニックという雰囲気の居酒屋さんだった。仕事終わりから間もないのに、中は人でごった返している。



 予約してなきゃ入れななったに違いない。約束って、大切なんだなぁ。



「千里子ちゃんって、ホストとかハマりそうだね」



 カウンターに座って注文をすると、南雲君が口を開いた。



「きゅ、急に何よ。大体、私はそんなところに行ったことはありません」



 遠回しにチョロいと言われている事くらい、流石の私でも分かる。タイ産の薄味で爽やかなビールをチビと飲んで、顔色を誤魔化す。



「ちょっとお姫様扱いしただけでそんなに喜んでたら、悪い男にお金取られちゃうかも」



 全部バレてた。やだ、もう。



「なんか、遠回しに自分はそんなに悪い男じゃないって言ってるように聞こえるよ」



 けれど、私だって言われっぱなしではない。美女もイケメンも、三日で慣れるというだろう。私は、彼の顔を見て憎まれ口を叩いてみることにした。



「優しくて顔のいい男がカレシだと、結構気分がいいでしょ?」



 ……あのさぁ。



「れ、練習だから。別に、気分いいとかはないよ」

「そう? なら、ちょっと性格悪くなっちゃおうかな」



 よく意味が分からなかったが、ツッコむとまた困らされると思ったから止めた。少年漫画よろしく、結局搦め手ではド直球の対応に負けてしまうということがよく分かったからだ。



 私は、私の気持ちをありのままに伝えることでしか南雲君と肩を並べられないのに、それだけは怖くて絶対に敵わないというジレンマを抱えているのでした。



「さっきの人たちにさ、会社で何されたの?」

「別に、露骨に苛めると業務に差し支えるから何もないよ」



 大きい会社だけあって、それなりに忙しいし。大体、コンプラチェック部の人間にそんな事するなんて、クビになりたいって宣言するようなモノでしょ。



「要するに、何もしてくれないワケだ」

「……ん? そういったつもりだけど」

「そりゃ、寂しくなるよね」



 言うと、南雲君は私の前髪を人差し指で耳にかけ、背中をポンポンと叩かれた。



「……性格悪い」

「ふふ、そうするって言ったじゃん」

「そういうことが分かるって事は、南雲君は普段からそういうことを考えてるってことじゃん。ヤな人」

「そりゃ、なんの気兼ねも無しに人のこと信じたら全部カッパがれるもん。俺、これでも結構痛い目見たんだ」



 全部、というのはいわゆる本当の全部なのだろう。映画で見るような、本当の全部。下の毛まで毟られるっていう、本当の全部。



 よく見ると、南雲君の首や腕には細かい古傷が幾つもついていた。殴られたのか、切られたのか。理由を想像しかけたけど、怖くてすぐに止めた。



「なら、どうしてこんなに私に優しくするの? たくさん損したなら、騙す側に回るか受け入れるかしかないと思うけど」

「別に。ただ、千里子ちゃんみたいな人が報われてもいいんじゃないかって思っただけだよ」



 ……あれ?



「千里子ちゃん?」

「い、いや。その、ごめんね。別に、そんなつもりじゃないんだけど」



 本当に、そんなつもりじゃなかった。少しだってこんなことになるとは思っていなかった。



 けれど、だから、それ故に。私の気持ちが止まらないのだ。



 こんなに嬉しい言葉があるだなんて、知らなかった。人って、悲しくなくても涙が出ることが本当にあるんだ。



 私は、報われたかった。正しい事をして、報われたかった。誰かのためだって言い張れない正義は、きっと偽善と同じなんだろうけど。



 それでも、私は私なりに頑張ってきた。だから、他のどんな言葉より、私の軌跡を認めてほしかったんだと思う。



「今のは、本番まで取っておいた方がよかったかな」

「うぅん。そんなこと、ないよ」



 もしも、今甘い言葉を囁かれたら、私は自分の足だけじゃ立っていられないくらいに南雲君を好きになっていたに違いない。



 ここで黙った南雲君は、心の底から優しい人なんだって分かった。



「来たよ、トムヤムクン。このエビ、殻ごといくけどいい?」

「ふふ。どうせそれが本場の食べ方だって嘘言うんでしょ? お手洗い行ったとき、ちゃんと調べたもん」

「ちぇ、騙されてくれると思ったのに」

「残念、効かないよ。私、お勉強だけは出来るんだから」



 このスープが辛くて、本当によかった。もしもそうじゃなかったら、私はこの涙を誤魔化す理由を得られなかったから。



 ……別に、本当に誤魔化せてるだなんて思ってないよ?



「うまかったね」

「うん、エスニックちょっとハマりそう」



 その後、私たちは席を空けるために近くの公園のベンチで休んでいた。



 気が付いたのだが、私はおいしいモノを食べる事が好きみたいだ。このまま色々とお店を知っていけば、食べ歩きが趣味になるかもしれない。



 冷静に考えてみれば、美味なんて最も幸福に直結している要素の一つだ。そんなことに気が付かないくらい追い詰められていたと思うと、何だか切なくなってくる。



「美容にもいいし」

「ちょっと、それどういう意味?」

「ストレスのせいでお肌荒れてるから」

「なんで最後まで言うのよ!」



 ケラケラと笑う彼を見て、私は久しぶりにとても恥ずかしい気持ちになっていた。優しくしてくれたときのポカポカではなく、カーッと熱くなってくる感覚がある。



 学生の時は、いっつもこんな感じだったっけ。多分、今の私ってあの時みたいに凄く本気なんだろうな。



「ごめんごめん。でも、なんか今のはよかったね」

「なにが!?」

「千里子ちゃんの本当の姿って感じがした。三日前からずっと、俺に嫌われないように怯えてるみたいだったし」



 ……そうやって、胸の内を見透かして。今までもきっと、優しい笑顔と化け物じみた洞察力で女の子を泣かせてきたに違いない。



 一番嬉しいこと、全部やってくれるなんて。南雲君は、本当に悪魔だ。



「帰ろう。俺、今週は忙しくなるからまた土曜日に会おうよ」

「う、うん。約束する」

「それじゃ、ついでにもう一個くらい練習しとこっか」



 言うと、彼は私に一歩近付いて眼鏡を外した。視界がぼんやりとして、よく見えない。



「な、なに? 返してよ」

「練習だから、マスクつけたままね」



 そして――。



「……はぇ?」

「なんか、逆にエロいね。これ」



 前髪を分けて眼鏡を戻した南雲君は、何だかちょっぴり照れているようにも見えた。

 そのせいかな。本当は、恥ずかしくて大声をあげてしまいそうだったけど、私は大きく深呼吸をして真っ直ぐに彼の目を見ていられた。



「き、きき、きききすはいけないとおもいますけど」



 嘘です。全然落ち着いていません。



「お別れの挨拶。実は俺、一緒にいられないと結構寂しくなっちゃうタチなんだよ。だから」



 だからって。そんな言い方、まるで練習じゃないって言ってるようではないか。



 あなたが私を好きだって、そんなふうに聞こえてしまうではないか。



「それじゃ、またね。仕事頑張って」

「……ね、ねぇ」

「うん?」



 もしも、狂ってしまったのだとすれば、その瞬間はまさに今だ。この三日で、何度も何度も一番嬉しい瞬間を更新し続けて。最後には認めてくれて、涙が出るくらい嬉しかったのに。



「南雲君、もしかしてお家なかったりする?」



 私は、本当の本当に、練習だなんて言ってられなくいくらい南雲君が好きになった。



 ルールなんて、クソくらえって思った。



「一応、職場の寮に入れてもらってるよ。一日1500円、シャワー別料金」

「……よ、よかったらさ」

「うん」

「日本にいる間、私の家で暮らさない?」



 こうやって、その国々で女の子の家を渡り歩いているならばもう天晴だ。彼が、私みたいな男慣れしていない女に優しくする理由もハッキリする。



「いいの?」



 でも、別にいい。死んでもいい。例え嘘でも、私の長い孤独を埋めてくれたのだから。



「うん、いいよ」



 騙されて、全部失うならそれも本望だ。私の人生が、この三日間の為だけにあったって言われても文句はない。



 それくらい、好き。



 × × ×



 お金を持ってる独女がヒモを飼ってる的な話は時々聞くけど、きっとキッカケは男の子が寂しさを埋めてくれるからなんだって思った。



 もちろん、南雲君は働いているからヒモじゃないけど。男の子を家に泊める理由が分かったって、そう言いたいだけだから失礼な例えをどうか許してほしい。



「それじゃ、仕事行ってくる」

「土曜日なのに大変だね」



 南雲君が家に来てから半年。すっかり慣れたマスク越しのキスをすると、彼はどこか楽しそうに駅の方へと歩いていった。



 ……そう、半年経ったのにマスク越し。他のことは、何もしていない。



 お恥ずかしながら、私は未だに彼に気持ちを打ち明けられず、練習相手として彼に一緒にいてもらっている立場である。

 しかし、もう時間は多くは残されていないハズだ。まもなく、貯金が貯まってまた日本を出ていくに違いない。



 こうやって、土日に出勤したり夜勤に出たりするのがいい証拠。そうなったとき、果たして私は現実に耐えきれるだろうか。



 あの時は、この幸せに死んでもいいって思ったけど、愚かにも人という生き物は幸せにすら順応してしまうらしい。

 今の私は、彼があまりにも好きだから、最初の思いを乗り越えてもっと長く一緒にいて欲しいと思ってしまっている。



 執行日が分らない死刑囚も、似たような気持ちなのかしら。私は、いつ訪れるか分からないの別れの日に怯えて、すっかり大人しくなってしまっているのでした。



 ……こんなことなら、『嘘でもいいから』なんて唱えるんじゃなかった。



「ふぅ」



 南雲君が使っている部屋には、モノがほとんどない。ジャケットとバックパック、後は布団と、小さなちゃぶ台にパスポートや通帳なんかの貴重品が置いてあるだけ。



 他は、全て持ち歩いているらしい。まぁ、あの小さな鞄にすべて入るモノだけで生活しているのが、如何にも住処を持たない人って感じがする。



 私は自分を女だって思うことが少ないけど、この現状に不安を覚えるのが女の本能なんじゃないかって思った。



 例え初めてで嘘の恋でも、最後の女になりたがるモノらしい。練習だなんて、残酷な話だ。



「……また」



 嫌なラインが届いた。



 どうやら、南雲君を見た女性社員から情報が伝わったらしい。もしも嫉妬があるのなら、私は更にいない者扱いされるんじゃないかと思ったけど、実際にそうはならなかった。



 彼女たちは急に友達ヅラをこいて南雲君を紹介、或いは彼の友達を紹介して欲しいとお願いしてくるようになったのだ。



 なるほど、大企業のパン職に就くだけあって狡猾さも尋常ではない。どうせ恥だとも思っていないと分かるのが、同じ女として辛かった。



 ……それとも、私の孤独それ事自体が被害者妄想だったのだろうか。彼女たちはずっと、私と親しいと思っていたのだろうか。



 何がなんだか、分らないよ。



 ……。



「おつかれ、駅で物産フェアやってたから美味しそうなの買ってきたよ〜」



 月が出てから間もなくして、南雲君はいつも通りの緩い雰囲気のまま帰ってきた。



「……どうしたの?」

「なんでもない」



 私は、玄関で靴を脱ぐ南雲君の背中に抱きついたまま目を閉じていた。

 縋りついた、といったほうが正しかったかもしれない。けれど、彼は黙って私が前に回した手をポンポンと叩いて慰めてくれた。



 ずっと、腹の中を探っている私を。何かの罠だなんて、未だに疑念を拭えない私を。離れたときの言い訳を、何とか模索する私を。



 ただ、黙って慰めてくれる。



 愚者に残された最後の術は、疑うことだけだ。この温もりすら疑う弱い私には、あなたと向き合う勇気なんて一生出ないに決まってる。



 ……だから、あなたから突き放して。もう、そんなに優しくしないで。



「197か国だよ」

「……なにが?」

「地球にある国の数。まぁ、実際にはパレスチナとかソマリランドみたいな承諾されてない国もあるから正確じゃないんだけど」



 急に何を言い出すのだろうか。それくらいのことなら、流石に私でも知ってる。



「それで、俺が行ったことのある国の数は187。多分だけど、次に冒険に出たら全部の国を回れると思うんだよね」



 相変わらず、途方もないスケールだ。すべての国を歩くだなんて、妄想はしても実行に移せる人間がこの世に何人いるだろう。



 私の手には、南雲君はあまりにも大き過ぎる。



「凄いね」

「でも、ちょっと困ってることがあるんだよ」

「なに?」

「俺、帰る家が無いんだ。家に帰るまでが冒険なのに、これじゃ一生終われない」



 ……。



「なんで、そんなこと言うの?」



 前にも、同じような事があった。彼が、まるで私の事を本当に好きみたいな言葉を使う事。

 けれど、今度のは格別だ。勘違いというにはあまりにも。確信にも似た、強い力を持つ言葉だった。



「千里子ちゃんって、空が青いこと知らなそうだなって思ったから」

「意味分からないよ」

「……シンデレラって物語、あるでしょ?」

「う、うん」

「あの話の王子様の気持ちって、考えたことある?」



 何を言ってるのかさっぱり分らない。そもそも、シンデレラは女の子の話ではないか。



「ないよ」

「おかしいと思わない? 王子なんだからあらゆる欲求が満たされてて、女なんて幾らでも献上されただろうに、わざわざ一目惚れするなんてさ」

「シンデレラが一番の美女だったからじゃないの?」

「本当にそう思う? 生まれた時から顔のいい女に囲まれてる王子が、本当に一目惚れをするって?」



 私は、答えられなかった。確かに、ベンチマークが美男美女ならどれだけ良くても顔に一目惚れするというのはおかしな話だ。

 


「なら、どうして?」

「簡単だよ。王子は、誰かを幸せにしたかった。だから、愛されたいと願う不幸なシンデレラに惹かれたんだ」



 言うと、南雲君は私の手を取って強く引っ張り、優しく転ばせて私の頭を膝の上に乗せ、ジッと目を見つめてきた。優しい束縛に、抵抗する力が少しも湧いてこない。



「千里子ちゃんが俺に気がついてくれた時、俺がどれだけ嬉しかったか分かる?」

「は、はぇ?」

「あなたがずっと一人で仕事してたのを、俺は知ってた。どれだけ嫌われたって、必死に自分の役目を果たそうとしてたのを知ってた。声は聞こえなかったけど、俺はあなたが頑張っているのを窓の外から見てたから」



 全身から力が抜けていく。



「俺とは真逆の世界に生きるあなたに、俺は憧れた。だから、俺はあなたを幸せにしたいと思ったんだ。居酒屋で再会したときは、少し出来過ぎな偶然だって思ったけどね」



 ――ただ、千里子ちゃんみたいな人が報われてもいいんじゃないかって思っただけだよ。



「……うん」



 私は、私を信じられなかったのに。こんなにも、私のことを信じてくれる人がいるだなんて。私が憧れた人が、私に憧れてくれただなんて。



 本当に信じられないけど、否定する理由が一つも見つからないのが心から嬉しかった。



「それが、俺があなたに優しくする理由。尽くしたいと思った理由」



 悩みのすべてが、溶けて消える。今、私の中にあるのは確かな幸せ。ただ、それだけだった。



「ほら、食べよう。おいしいモノ、好きでしょ?」



 そして、南雲君は私の手を引いて立ち上がり笑う。あんなに遠くに見えていた笑顔が、今では近くて愛おしい。



「ねぇ、南雲君」

「うん?」



 だから、私は彼に言ってあげなければならない言葉がある。家のない彼が、旅を終えて安心出来る場所があるんだって、ちゃんと教えてあげなきゃいけないのだ。



 彼のマスクを外し、背伸びをする。何も怖くなくて、ようやく素直に『好き』を伝えられた。



「おかえり」



 壁なんて、最初から無かった。全部、私が自分で作ったモノだったって、ようやく理解出来た。

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【短編】楠千里子はシンデレラなのか? 夏目くちびる @kuchiviru

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