紙魚

兵藤晴佳

第1話


 学生の頃だったから、かれこれ30年以上も前のことになるだろうか。

 京都の大学で学んでいた僕は、後期試験が終わってからふと、岐阜の実家に帰る気を起こした。

 3月の初めごろのことだ。

 新幹線を使う金なんかなかったから、鈍行を乗り継いで行く。

 本当は、京都を出て2時間もあれば着けるはずだ。

 だが、柔らかい霧雨が客車の窓をしっとりと濡らすのを眺めていると、時間が止まったような錯覚に襲われる。


 ……いや、この列車、本当は僕の知らない別の世界に向かって走ってるんじゃないか?

 

 実際、岐阜の駅で降りてみると、まだ日は沈んでいないものの、空はどんよりと曇って、朝とも昼日中ともつかない。

 実家へ帰るバスの時間はだいたい見当がついていたので、柳ケ瀬辺りで本屋を見つけて時間をつぶすことにした。

 長く雨風に打ち叩かれてきたらしい板壁と瓦屋根の店を見つけてふらりと中に入ると、薄暗くて狭い。

 1階にあるのはありふれた婦人雑誌や児童書ばかりだったので、2階へ上がってみた。

 いくつもの木の棚が、数えきれないほどの人々の手が触れてきたからだろう、テカテカ光っていた。

 その間には、立ち読み、というか座り込み読み用と思しき、小さな椅子が置いてある。

 たまたま手に取った分厚い本を手に、そこへ腰掛ける。

 読むともなくページをめくりながら、棚の間にうずくまっていると、時間は無限にあるような気がした。

 そんなふうに目を通したページの文字は、意味を持つ言葉として頭に入ってこない。

 ページをめくってもめくっても、意味のない記号の羅列がぞわぞわと動き回っているばかりだった。

 まるで、虫のように。

 

 ……いや、違う。


 本当に、虫がページの上を這いまわっているのだ。

 細かくて、細長い。

 銀色に光っている。

 店員が傍を通りかかったので、手招きして本のページを見せた。

「これ、紙魚ですよね?」

 古い本やなんかに棲みついて、かじって穴を開けてしまう、あれだ。

 本の管理の悪いことおびただしい。

 これが古文書かなんかだったら、大事な記録を食い散られて、取り返しのつかない大きな損失を被ることになる。

 だが、店員はさらりと言った。

「違いますけど」

 ああ、そうですかと言おうと思ったが、どっちみち、こんな虫がぞろぞろ這いまわっているのでは、売り物にはならない。

 いや、この棚全部、いや、もしかすると、店の本は全部、こんな状態なのかもしれなかった。


 ……帰ろう。


 買っていく気にもなれない。

 本を閉じて棚に戻そうとしたが、そこではたと気付いた。

 

 ……蟄龍ちつりゅう


 京都の古本屋で、清朝中国の蒲松齢が書いた『聊斎志異』を手に取ってみたことがある。

 たまたま開いたページにあったのが、この物語だ。

 ちょうどこんな雨の日、本を読んでいると、こんな紙魚みたいな虫が這い上がってくる。

 通った後が焼け焦げるので龍だと思って、家の外へ放してやろうとする。

 だが、本の上から虫が飛び立つことはなかった。


 ……いや、そもそも、ここでそれやったら万引きだろ。


 龍に対する礼が足りないとか、そういう次元の問題ではない。

 だが、見れば見るほど、これは蟄龍ちつりゅうだった。


 ……何としてでも、これが龍になるところを見てみたい。


 本を椅子の上に置いて、その場で膝を突いて平伏してみせる。

 ありがたいことに、他の客はいない。

 ただ、さっきの店員が、僕をじっと見つめているばかりだった。

 何も現れはしなかったが、僕は手に持った本を、その眼の前へ持って行った。

「おいくらですか?」

 代金を払って、店の階段を駆け降りる。

 外へ出ると、空はまだ曇っていた。

 だが、紙魚……いや蟄龍は身体をすっくりと伸ばして首を持ち上げると、その中へ凄まじい勢いで飛んでいく。

 それが遠ざかっていくように見えないのは、見る見るうちに龍の身体が大きくなっていったからだ。

 やがて、一条の稲妻が閃いた。

 その中へと龍が消えていくと雲が晴れて、目に染みるような青色の早春の空が現れた。

 止まっていた時間が、動きだす。


 ……いかん!


 バスの時間はすぐ目の前だった。

 座席に駆け込んで、買ってきた本を開く。

 そこには、蟄龍ちつりゅうの物語があった。

 そんなわけで、僕は手元に未だ、『聊斎志異』を手放すことなく持っているというわけだ。

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紙魚 兵藤晴佳 @hyoudo

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