過去を持つぬいぐるみ

秋色

Dark History of the Teddy Bear

「ねえ、聞いてもいいかしら。ここから元の画面を出すのはどうしたらいいの?」


 総合病院のロビーで会計を待つ若い夫婦に、一人の初老の婦人が尋ねた。グレーのタートルネックを着て、手にはペールグリーンのスマートフォンを持っている。

「スマートフォンって便利だけど、なかなか使いこなせなくて」


「ほら、ここを押すんですよ」夫の方が答えた。


「ああ、こうするのね。良かった。ありがとう」


「病院の会計って待ち長いですよねー」人懐っこい表情の妻が話しかけた。


「私はもう会計も済んだのだけど、タクシーを待っているところよ。外はこんな雨でしょう? このロビーの中で待たせてもらっているの。到着したら、電話をくれるようお願いしているのよ」


「そうなんですね。私達はタクシーなんて無理だなぁ。ね、卓也」


「うん。本降りになる前に帰れるといいけどな。雨の日は花織の運転が心配だし」ガラス張りの向こうの黒雲を見ながら夫は心配そうに言う。


「もう!」と妻がエアパンチをおくる。「お! ツイッターやってるんですか? 若いじゃないですかぁ」


「いえいえ、ちょっと眺めているだけよ。色んな写真を見てると楽しいでしょう。ネコとか季節の花とか海の風景とか……」


「いいっすね! ネコも、季節の花も、海も…」


「でも一番のお気に入りはコレなの」


「どれですか?」二人が覗き込む。


「ほら、見て」


「ああ、そういうの! よくありますね。いろんな風景の中に人形や縫いぐるみが写りこんでいるやつ」


 そこには、外国の様々な風景の中に登場する緑色のチェックの小さなクマの縫いぐるみが写っていた。エッフェル塔の前、ロンドンの時計台の前、ベネチアのゴンドラの前、と。


「かわいいー!」花織が甲高い声をあげた。


「でしょ?」


「このコは、ご主人と色んな場所を旅してきているから、こんなに擦り切れちゃってるのね」


「それがね、この写真のクマさんはご主人と旅しているわけじゃないのよ。外国を旅行する人に、持ち主が頼んでいるんですって。自分は身体が不自由で旅行が出来ないけど、代わりにクマの縫いぐるみを色んな場所で写真に撮ってくれるよう。そうしたら自分までその場に行ったような気がするでしょ?」


「親切な人がいるんだな」


「ちゃんと謝礼は払ってるのよ。何人か分の人形や縫いぐるみを持っていく人の事、テレビで見たわ」


「そっかー。でも荷物増えちゃうから、お金もらったって大変だな。そんなに、写真って大切なのかな」卓也が考え深げに言った。


「今ではSNSでアップというのかしら。それをすればたくさんの人が見てくれて、感想くれたりするでしょ? それが楽しいんだって」


「分かる〜」と花織。


「知らんヤツから絶賛されて、そんなうれしいかな。オレにはそこんとこはよー分からん」


「もー、卓也は。それがいいんじゃない。それにクマちゃんだけしか写ってないって、ある意味、個人情報が流出してないから安全なのよ」



 老婦人は頷きながら聞いていた。

「どちらが言う事も、もっともよね。縫いぐるみは個人情報とは無縁だものね。でも、実はそうでもないのよ。物事をよく見る人はいるものよ。この縫いぐるみからだって、きっとピンとくる人はいるわ」


「どゆ事?」花織はポカンとしていた。


「このクマの写真をここにあげてる人は、いつかクマの縫いぐるみを手掛かりに自分を知っている人が訪ねて来るんじゃないかって心待ちにしているの。このアカウントにね」


「えっと……。つまり、このクマの縫いぐるみの持ち主を知っている誰かがツイッターに投稿されている事にある日、気付くって、そういうこと? それでこのアカウントが誰のか分かるって事?」卓也が訊いた。


「そうなの」


「縫いぐるみは別れた恋人からのプレゼントだったりして。それだったら何か切ないよね。二人の恋は終わっても、プレゼントのテディベアだけは世界を巡ってるんだから」

 花織はガラス張りの向こうの雨空を見つめて言った。


「元カレが気が付いたら、ショックを受けるだろうな。ウザいと思うかな。それとも愛しいと思うだろうか」


「いいえ。それは恋人からのプレゼントではなかったの。ほら、よく見て。手作りの縫いぐるみでしょう? これは古い膝掛けの布を切り取って、縫いぐるみに作り直してあるんですって。元々膝掛けの端の飾りだったパールがベストのボタンに変身してるって。昔、職場で同僚達からプレゼントされた膝掛けをね」


「そっちかぁ!」卓也がホッとした表情を見せた。


「そりゃね、別れた恋人からのテディベアが世界を巡ってるのは何か重いもんねぇ。だけど膝掛けだった物がテディベアになって、世界の名所を背景に写っててもそりゃー気が付くかな。私ならすぐには気が付かないだろうな」


「だからこそ、いつか気が付くかなって楽しみなんじゃないかしら」


「うーん、退職前に同僚が贈った物ですよね。贈った方は柄まで憶えているかなぁ」

 夫が言うと、妻が反論した。


「女なら、柄とかは憶えてるよ。意外とね。相手のイメージに合わせて選ぶから。あと、退職する相手への思いとか」


「退職前の贈り物ではなかったそうよ。誕生日プレゼントだったって」


「えー。学生でもなく職場なのに、誕生日プレゼントをみんなで贈るなんて、どんな素晴らしい、仲良しな会社なんだ!?」


「逆よ。ブラック会社。だからこそ責めて社員だけは仲良く慎ましくやっていこうって。社員って言っても彼女を入れて五人だけ。それも彼女の他のメンバーは引きこもりから脱出した青年と気弱な若い女性、内気な主婦と定年後再就職の塾年男性という四人。とにかくそれで誰かの誕生日にはみんなでお金を出し合って誕生日プレゼントを買おうってなったんだって」


「何!? その世界観……」


「でもね、膝掛けをもらった人はすごくうれしかったんだろうね。テディベアにまで変身させてるんだから。私も赤ちゃん生まれたら、可愛い生地でこんな手作りのテディベアを作ってあげたいな」


「もしかして……。出産のご予定が? それでこの病院に来てるの?」


 二人はコクリと頷いた。「そうなんです。まだ全然目立ちませんが」


「それはおめでとうございます」


「不安しかないんですけどね。今のこの世の中」妻の言葉に夫は足元をみつめる。



「そう……、膝掛けをもらった人の事だけど、すごくうれしかったそうよ。誰も頼る人のいないシングルマザーで寒がりだったけど、何時も薄着だったって。好きな色の緑を選んでたし、チェック柄も彼女の好きな柄。そういうのをちゃんと見てくれてたんだなって。涙を連想させるパールは自分がよく泣くのを我慢してた事を知ってたのかな、とまで勘ぐったそうよ」


「良い話。でもやっぱり退職前に贈った物じゃないかって、その人の思い違いに一票賭けたい」


「卓也はあくまで誕生日プレゼントを贈るって発想にイチャモンつけたいんだ。何せ去年、私の誕生日を忘れてたもんね」


「いいえ。退職前のプレゼントって事は絶対あり得ない。その人は職場に突然来なくなったんだから。失踪したと言うべきかしら」


「え!?」二人は驚いて思わず大きな声をあげ、周りの人達が振り返った。


「それはつまり、ブラック会社だったからですかね? って貴女あなたに訊いても仕方ないでしょうけど」


「それもあるかもしれないわね。でも彼女が職場に来なかった日に判明した事をがもう一つあるの。前日、彼女に管理を委ねられていた会社のお金が持ち逃げされていた事。それも数年に渡り、彼女は細かく準備を重ね、翌日に取り引きのある絶好の機会を狙ってたの」


「うわぁ〜、それはつまり……計画的犯行」


「それってもう事件ですよね」


「事件には出来なかったのよ。全部悪い事で儲けた黒いお金だったから。失踪女性は、それが警察にも届けられないお金である事を知ってたの」


「でも残された他の社員は大変だったでしょうね。その後始末というか……。考えただけで怖い」卓也が身震いする仕草をした。


「会社はそれで事実上、消滅。社員達はいずれ辞めなきゃと思いながらも引き止められ、ズルズルいた人達ばかりだから、これで人生の再スタートをやっと切れ、ホッとしたた感じじゃないかしら。彼女はこっそり他の社員のその後を調べたけど、皆、それぞれ自分の行くべき道を見つけられたようだったって。まぁ、その後の人生でブラック会社にいた事を何かの折に親しい人に話したかどうかは別として」


「私なら話す! 基本、秘密は苦手だもん。でもお金持ち逃げ女性は、ブラック会社の社長に追われなかったのかな。すごく探したと思うんだけど」


「社長は元々、持病があったので、エネルギーを費やして探す事は途中で諦めたそうよ」


「じゃあなんで、その女性はテディベアに変身させた元膝掛けの写真をツイートしたのかな。身バレするかもしれないのに」


「そうね。もう昔々の事とは言え、ね。普通は、事件を起こした因縁の会社の人からもらった膝掛けなんて捨ててしまってると思うでしょうね。ただこの膝掛けの事を憶えてる人に、どんなに惨めで酷い事をされてもじっと耐えてた自分が今、こんなに自由なんだって、世界は広いって事を知らせたいからだそうよ。世の中悪くないって」


「いつか、このツイートに気が付くといいですね、膝掛けを贈った人達の誰かが」


「ええ、そうね」その時、婦人はスマートフォンの点滅に気が付いた。「あら、タクシー会社から着信が入ったわ。タクシーが着いたみたい。じゃ、行くわね。元気な赤ちゃんを産んでね」


「ありがとうございます。あの、お元気で」いつになくかしこまる妻に、夫も合わせ、「ありがとうございます」と頭を下げた。

 婦人はタータンチェックのマフラーで襟元を包むと、杖を手に持ち、足を引きずりながら出口へと向かった。




 ロビーから、婦人の姿が見えなくなると、花織は、卓也に向かってささやくように言った。


「ね、さっきの話、失踪女性ってきっと、たぶん……」


「うん、あの女性ひとだよね」


「普通、罪を犯した事をSNSに書き込んでたりしてないもんね」


 足に麻痺があるように引きずっていた姿とシンクロしてさっきの会話を思い出していた。


 ――身体が不自由で旅行が出来ないけど、代わりにクマの縫いぐるみと一緒に色んな場所で写真を撮ってくれるように……――


 そして彼女のタータンチェックのマフラーとペールグリーンのスマートフォンを思い出した時、誕生日プレゼントの話が蘇った。


 ――好きな色の緑を選んでたし、チェック柄も彼女の好きな柄――


 雨はいつの間にか止み、玄関から入ってくる人の傘にパールのような雨粒が光っていた。



〈Fin〉



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過去を持つぬいぐるみ 秋色 @autumn-hue

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