幽霊の出る家

いぬきつねこ

幽霊の出る家

 ——行ってらっしゃい。気をつけてね。

 沙也加さやかがそう言って送り出したから、裕人ひろとは律儀に青信号になるまで待って、横断歩道を渡って、そして死んだ。

 あんな車通りの少ない道で、しかも信号は押しボタン式で、周りみたいに車が来ないのを見計らってぱっと渡ってしまえば死ななかっただろう。

 大型トラックが、いつもは通行人がいない場所だからと油断して、減速せずに裕人に突っ込んだ。体の一部は、ついに巨大なタイヤと車体の隙間から取り出せなかった。足りなくなった体を隠すために、棺の中にはことさら沢山の花が押し込まれた。

「こんなに綺麗なお顔で、眠っているみたい」

 葬儀の最中に誰かが言った言葉に、沙也加は口の中で言い返した。

 右手も、左足の指も、臍から胸にかけても抉れてなくなっちゃったんですよ。それでも眠ってるみたいですか?

 そんなことを言っても、裕人は帰ってこない。



 菊川きくかわさんの一人娘の悠里ゆうりちゃんも、交通事故で死んだ。

 菊川さんの誕生日、悠里ちゃんはお小遣いを握りしめてコンビニに行った。お母さんが好きなチョコレートアイスをプレゼントするためだったという。日中預けられていたおばあちゃんの家をこっそりと抜け出して、小さな足でコンビニに急いだ。

 ガラスの扉を押し開けようとしたところで、猛スピードでバックしてきた軽自動車によってコンビニの壁と車体の間に、悠里ちゃんは押し付けられた。

 それでも車は止まらなかった。運転席では、パニックになった高齢者がアクセルを踏み続けていた。古い車には安全装置はついていなかった。

 小さな子どものどこからこんな大きな声が出るのかわからないほどの悲鳴が、潰されていく悠里ちゃんの喉から迸っていたという。

 店から飛び出した店員と集まった近所の人がなんとか車に飛びついて老人を引きずり下ろすまで、悠里ちゃんは壁と車の間でもがき続け、肺が潰れて死んだ。最期まで、アイスの入った袋を離さなかった。



 浅田あさださんの奥さんは、朝のウォーキングの途中に、倒れてきたコンクリート塀が頭に当たって死んだ。前の日にあった地震で崩れかけていた塀は、たまたまそのタイミングにそこを通りかかった長谷川さんの奥さんめがけて崩れ、彼女は発見されるまで冷たくて重たい石の下にいた。

 塀の所有者は、ブロック塀に必要な補強を行っていなかった。自分たちのせいではないと声高に主張していた所有者は、翌日には姿を眩ましていた。

 奥さんが事故にあって5日経ち、病院で彼女の呼吸が止まるのを見届けた長谷川さんは、その日が30回目の結婚記念日だったことに気がついた。



 伏見ふしみさんの息子さんは、勤めたばかりの会社で死んだ。火事に巻き込まれたのだ。採用面接に落ちた男による逆恨みの放火だった。火は燃え広がることはなかったが、古い社屋は煙が抜けるところがなかった。黒い煙は建物内部に充満し、中にいた社員は全部で3名が亡くなった。屋上へと出るドアは塞がれていた。逃げ惑う人々を見下ろして、犯人は屋上で喉を切って死んだ。

 希望の職種に就けたから、慣れるまで大変だけど頑張るよ、ボーナスが出たら家族で旅行に行こうと笑っていた息子さんは、非常口の手前で倒れていたという。

 助かった社員が、息子さんが率先してほかの人の避難誘導をしていたと語った。




「僕の事情はちょっと皆さんと違っていて……」

 鯨井くじらいくんは、色の抜けた、着古した感じのするデニムの膝に置いた手を忙しなく組み替えながら、話し始めた。明るい茶色に脱色した髪の向こうで、大きな目が悲しげに揺れていた。


 鯨井くんは、弟さんを殺された。

 殺したのは父親だった。

 母を病気で亡くしてから、精神的に不安定なところのあった父親は、母親と同じように病弱だった鯨井くんの弟の首を絞めて殺し、自分も首を吊って死んだ。高校から帰った鯨井くんは2人の遺体を発見し、警察を呼んだのだという。


「急に一人になっちゃって、最初は葬儀とか忙しくしてたから何か麻痺してたんですが、あれから2年経って、ボクも高校を卒業して暇になって、あ、今はバイトなんですけど、そしたら父さんのこととか弟のこととか考えるようになって……。こんなことは友達にも話せないじゃないすか。それで、こういう会があるって聞いて、えっと、来ました」


 鯨井くんは曖昧に笑って、困ったように頭を掻いた。

 菊川さんが最初に拍手をし、沙也加たちもそれに続いた。公民館の小さな会議室に、拍手の音が響く。


 2週間に一度、「分かち合いの会」は開かれる。


 沙也加たちは、大切な人を失っている。沙也加は夫を、若いシングルマザーの菊川さんは娘を、元税理士の初老の男性である浅田さんは奥さんを、地元でご主人と一緒に自動車修理の工場を営んでいるという女性の伏見さんは息子を亡くしている。

 皆は市立病院の心療内科が運営していたグリーフセラピーで知り合った。身近な人の死を体験した悲しみや痛みを分かち合うための集まりで、2週に一回それは約1年間続いた。最初は20人近くいたメンバーは、癒されたからか、それともこんなものでは癒されない絶望の深さからか少しずつ減っていき最後まで会に残っていたのが、今ここにいる4人だった。4人の中に何だかわからない繋がりみたいなものを沙也加は感じていて、どうやらそれは他の人たちも同じようだった。皆、傷ついていて、その傷は全然癒えてくれなかった。4人が揃って、個人の思い出や、やり場のない気持ちを吐き出している時だけ、ほんのちょっと傷口は痛むのをやめた。

 4人だけで会いませんかと、本来なら禁止されている個人的な接触を提案したのは伏見さんで、誰もそれに反対しなかった。

 公民館を借りてくれたのは、趣味の囲碁の会で手続きに慣れている浅田さんだった。

 そして、ここで小さな「分かち合いの会」をするようになって、今日、鯨井くんという若者が参加した。茶髪にオーバーサイズの黒いカットソー、膝が抜けそうなデニム姿というどこにでもいそうな青年は、ふっと通りかかって見つけた「分かち合いの会」に顔を出したのだという。

 見た目よりずっと穏やかな話し方と、悲しい時に拳で鼻の下を擦る癖のある彼は5人目のメンバーとして迎えられた。

 公民館へと続く石畳の脇に植えられた銀杏の木が、金色に輝く晩秋の頃だった。



 新年1回目の会は、冬晴れの日だった。街路樹はすべて葉を落とし、毛細血管のように細い枝を冬晴れの空に伸ばしている。


「家に弟がいるんです」


 鯨井くんが、ほつれかけたセーターの袖をいじりながら言った。

 沙也加たちは椅子を円形に並べて座っている。皆が真正面から見つめ合って話しづらくならないように、少しずらしたいびつな円を描いて、パイプ椅子は並べられていた。

 鯨井くんは沙也加の向かい側にいて、セーターの袖から飛び出した毛糸をまたいじった。

 この数回ですっかり緊張が解けて、滑らかに話すようになった鯨井くんは、メンバーの顔を見回した。いつからか、彼は自分のことをオレと言うようになっていた。この方が自然だ。そんな彼の目の下に隈がある。厚手のセーターに包まれた体も、少し痩せたかもしれない。

 大丈夫かな。沙也加は心配になった。

「すいません。おかしくなったと思うかもしれませんよね。順を追って話します」

 皆の気遣わしげない視線に気がついたらしい鯨井くんは、眉を下げて笑った。

「オレ、弟と親父が死んだ家にまだ1人で住んでるんです。二階建てで、部屋が5つあって、一人で住むには広すぎるんですけど、なんか出ていかなくって、そのまま住んでるんです。でね、最近、弟が出てくるんです。オレが風呂上がりに麦茶を飲もうと台所に行ったら、あいつ、居間でゲームしてるんです。あんまり自然なんで、タクト、タクトっていうのが弟の名前です。タクトあんまりテレビに近づきずるなよってオレは言っちゃったんですよ。タクトが振り向いた瞬間、オレはタクトは死んだんだったって思い出して、そしたらもういないんです」

 タクト、名前の響きが夫の裕人ひろとと似ている。沙也加はぼんやりとそんなことを考えながら鯨井くんの話に耳を傾けていた。

「そういうことが、最近何度も起こるんです。普通にタクトが家の中にいるんです。幽霊、かなって、思って……」

 鯨井くんはぐいと鼻の下を拳で擦った。

「あたしは、幽霊でも会いたいなあ」

 古い蛍光灯の照明が一段明るくなるような、朗らかな声で発言したのは菊川さんだった。短いボブカットが揺れて、耳たぶの大きな金色のピアスが光る。美容師らしく、今日もおしゃれだ。

「毎日悠里のお骨に手を合わせるの。そうやってあの子の顔を頭の中に思い出そうとするんだけどね。だんだん、だんだん細かいところがわからなくなるの。怖くて、スマホに保存してる写真とか動画とか必死で見て、そうだ悠里はこんな顔だった。悠里はこうやって笑うんだったって、あたしは思い出そうとしてる。会いたいよ」

 大きく頷いたのは、浅田さんだった。

「歳のせいか、私もだんだんと妻の顔がわからなくなります。遺影と、最期の時の顔ばかりが妻になっていく」

 アタシもよ。伏見さんが低く呟いて膝の上の両手をギュッと握りしめた。

 沙也加は裕人の顔を思い浮かべようとした。楽しい思い出がいい。プロポーズの時の焦ったあまり指輪の蓋が開かず汗をかきまくっていた顔を鮮明に瞼の裏に描こうとしたが、それは端から崩れたパズルピースみたいにバラバラになっていってしまった。沙也加はその瞬間に夫が死んでからの2年と少しという年月がのしかかってきたのを感じた。

 記憶は、上書きされていく。

 忘却という冷たい手が、背中に回される。


 何となく重たい雰囲気のまま会は終わり、「それじゃあ2週間後に」と手を振って皆が席を立った。

 沙也加は最後に部屋を出て、鍵を受付に返すと、駐車場にとめた車へと向かう。裕人が事故にあって、しばらくは運転席に座ると動悸がして、運転できなかった車にもいつしか平然と乗れるようになった。

 変わってしまう。ハンドルを握りしめる。

 わたしたちは変わってしまう……。

 ふっと目を上げたフロントガラスの向こうに、明るい茶色の髪が見えた。

 自販機の横で、鯨井くんが缶コーヒーを片手に佇んでいた。彼の目線の先を5歳くらいの男の子と父親らしい男性が歩み去っていく。子どもは補助輪のついた自転車を押していて、父親は自転車が倒れないようにそっと手で押さえながら歩いていた。

「明日は補助輪はずそう。大丈夫。パパがいるから」

 そんな会話が聞こえてきそうだった。笑っている。生きている。この人たちには、明日がある。

 その明日は、沙也加にも鯨井くんにもあるはずなのに、なんだかいつまでも明日なんて来ないような気がするのだ。それでも沙也加たちは大切な人を忘れていく。窓ガラスに沙也加が映る。凍った目だ。時間が止まっている。

 沙也加は目線を上げて、まだそこに立ち尽くしている鯨井くんを見た。鯨井くんの目も、時間がとまっていた。

「鯨井くん!」

 沙也加はドアを開けて呼びかけた。

 鯨井くんは一瞬肩を震わせて、驚いた顔のままこちらを見た。沙也加だとわかると、手を上げて「どうも」と言った。

「寒いでしょ?送ってくよ」

 断られるかと思ったが、鯨井くんはぱっと顔を綻ばせた。

「ありがとうございます。バス行っちゃってちょー寒くて、待つのも歩いて帰るのだるかったからありがたいっす」


 鯨井くんは助手席に座った。

「車だとここから15分くらいです。角に大きな神社のある通り、わかります?」

「うん。西友のある通りだよね」

「そうです。そこから先ちょっとややこしいんで近くなったらまた伝えます」

 2人とも、黙った。車のウィンカーだけがカチカチ音を立てている。

 今日は祝日で、道は空いていた。

 鯨井くんはスマホをいじるでもなく、空になったコーヒーの缶を握ったまま、窓の外を見ていた。

「あ、そこの電柱を右です。その次をまた右」

 鯨井くんは手際良くナビをする。車はいつしか、沙也加の来たことのない住宅街に滑り込んでいた。

 建売らしい似たような住宅が並ぶ細い道を進む。

 価格の終点が見えてきた。

 ぽっかりと取り残されたように、鯨井くんの家はあった。

「親父が起こした事件のせいで、土地が売れないんです。だからちょっと寂しいことになってて、空き家に間違われることもあるんですよ」

 鯨井くんが指差したのは、玄関ポーチのある、薄いクリーム色の四角い一軒家だった。屋根はなく、屋上だろう手すりが見えた。

 表札には「鯨井」と出ている。暗くなると勝手に灯るらしい門灯が、闇の中でふんわりと光っている。

 大きな家だ。

 家の隣には、車庫がある。

「あの、よかったら上がってってください。車そこにとめてくれていいんで」

 鯨井くんが車から降りながら言った。

 沙也加は目を瞬かせた。

 鯨井くん、今19歳くらいだろうか。わたしは32歳。いや、そんな下心なんてあるわけないか。頭の中で疑問と疑惑が躍る。

「あっ!いや、そういうんじゃないんで!だって、弟もいますから!」

 鯨井くんは首を何度も横に振って、おまけに両手を顔の前で振った。その様子があまりにも必死だったので、沙也加は笑ってしまい、鯨井くんの口から自然と発せられた「弟もいますんで」を聞き逃していた。

 鯨井家は、外から見た通り家の中も広かった。玄関を入ってすぐ左手に階段のある、少し昔の造りだが、廊下も階段もしっかりしている。鯨井くんはバイトで生活していると言っていたし、もしかしたらお金のある家なのかもしれない。

 沙也加が通されたのは居間で、そこは畳敷の10畳ほどの広さがあった。和室にも調和する布張りのソファとテーブルが置いてあり、部屋の隅のテレビの前には、ゲーム機とソフトが散らかしてあった。

 沙也加はソファに座り、今は何も写していないテレビに目をやった。

 ソファと、縁側に繋がる障子が映り込んでいる。

 わずかにふっと目を動かした時、テレビの中で影が動いた。

 細いボーダーのカットソーに、あまり垢抜けない黒いカーゴパンツ。絶対にスキニーのデニムが似合うよと言ったのに、足が窮屈と言って頑なに身につけなかった。いつもどこか野暮ったいけど、沙也加はそれが嫌いではなかった。素朴で、素焼きの焼き物みたいにあたたかみのある人だった。

 裕人。

「裕人!」

 沙也加は叫んで振り返った。

 いない。いるはずない。

 この家に裕人がいるはずない。だって、だって彼は死んだ。トラックに轢き潰されて死んだ。わたしはお骨を拾った。それをお墓に入れた。こんな所にいるはずが、ない。


「やっぱり見たんですね」


 鯨井くんが、湯気の立つ湯呑みをふたつお盆に乗せて立っていた。台所と繋がる襖を足で開けると、鯨井くんはお盆をテーブルに置いた。


「ね、この家、出るんです。最初は気配を感じる。どこかに映り込んだり、視界の端をよぎったりするんです。次第にそれが増えて、目の前に現れる。今、タクトはゲームを選んでますよ」


 カタンと音がした。

 沙也加の目の前で、放り出されていたゲーム機のコントローラーが持ち上がり、テレビ画面が、明るくなった。

「お客さんがいるんだから後で遊べよ。あいさつした?したならいいよ」

 鯨井くんはテレビに向かって声をかけ、また沙也加の方を向いた。

「怖がらないでください。何もしません。普通に生活してるだけです。俺にしか見えない。でも、沙也加さんも、ここにいたらもっと良く見えるようになってくるのかもしれない」

 鯨井くんは静かに言った。

「裕人がいたの……」

「そういう場所なんだと思います。幽霊が姿を現しやすい磁場みたいのがあるみたいです。そういう場所色々あるんです。ネットで色々調べました。幽霊を呼びやすい場所のひとつが、多分この家なんです」

「幽霊」

 沙也加は、少し躊躇ってからその単語を口に出した。

 鯨井くんは両手を温めるように湯呑みを覆ったまま頷いた。

「そう。幽霊。多分オレたちに憑いてるんです。オレたちに会いたがってる。なあ、タクト。会いたかったよな。気づいてやれなくてごめんな」

 鯨井くんは、明滅する画面に向かって少し笑った。画面の中では、陽気な音を立ててマリオがコインを集めている。

 沙也加はテーブルに目を伏せた。

 電灯が反射している。そこに影が落ちた。

 裕人だとわかった。

 幽霊。幽霊。幽霊。

 でも、あれは裕人だった。会える。裕人に。ここにいたら、会える。

 沙也加の中で、何か熱いものが広がった。それは痛烈な心の動きで、欲望で、そして、希望だった。裕人を失って初めて、こんなに心が動いた。

「ごめんなさい。オレ、沙也加さんを実験台にしたんです」

 鯨井くんの押し殺した声で、沙也加は現実に引き戻された。

 鯨井くんは項垂れていた。

「弟が、オレの心が生み出した幻覚なんじゃないかって思ったんです。オレも親父みたいにおかしくなったんじゃないかって怖かったんです」

 湯呑みにかけた指が震えている。

 鯨井くんは覚悟を決めたように顔を上げた。

 アーモンド型の大きな目の蓋に、涙が光っていた。

「でも違った。いたんです。タクトはいた。そして、この家はそういう場所だった」

 沙也加は自然に、鯨井くんの肩に手を置いていた。

 そうだね。そうだよ。自分でもびっくりするくらい優しい声が出た。

 もし、沙也加に子どもがいたらこんな声をかけただろう。子どもが何か大事なことを決心して、それを周りが反対した時、きっとこんな声をかけただろうと沙也加は思った。

「そうだよ。タクトくんはここにいる。それに、裕人もいる」

 鯨井くんはまた俯いて、嗚咽混じりに「はい」と言った。



 幽霊の話を他のメンバーにするかどうか、沙也加は鯨井くんと話し合って、話すことに決めた。

 次の「分かち合いの会」で話を聞いた面々は、一様に不審な顔をして沙也加と鯨井くんの心の心配をしたが、次第にその顔は真剣になっていった。

「本当に?」

 伏見さんが席から乗り出して尋ねた。

「はい。鯨井くんの家に行くたび、裕人ははっきりしてきています。庭に出てみたり、家の中をゆっくり歩き回ったりしてます」

「裕人さんは鯨井くんには見えないの?」

 浅田さんが、腕組みをして鯨井くんに訊く。

「はい。気配は感じます。今横を通りすぎだなとか、ドアが開いた音とか、カーテンが揺れたとか。でも見えません。タクトしかオレには見えない」

「それで、わたしにはタクトくんは見えないんです。でも、冷蔵庫が勝手に開いたり、テレビが点いたりとかはわかります。鯨井くんが言ったみたいに、通り過ぎたりした時もわかります」

「うーん。それじゃあ、家族にしか見えないのかな?」

 菊川さんが首をひねった。

「多分そうなんだと思います」

 沙也加は頷く。

 うーん、とだれからともなく唸って、沈黙が続いた。

「あたし、行くわ」

 立ち上がったのは菊川さんだった。

「鯨井くんの家に行く。会いたいもの。悠里が近くにいるなら会いたい」

「——アタシも」

 よっこいしょと声をあげて、伏見さんが立ち上がった。

「私も行きますよ」

 慌てて浅田さんが立ち上がる。浅田さんだけは何だか半信半疑な顔をしていたけれど、皆が立ち上がったから、引くに引けなくなったのだろう。

 縋っているのかもしれない。

 かつてわたしたちが「分かち合いの会」に生きる理由を、明日がくる理由を託した時のように、今、みんなは鯨井くんの「幽霊が出る家」に託している。

 菊川さんと沙也加の車に分乗して、5人は鯨井家に向かった。家はあれから何度か訪れた時のまま、やはりそこにある。

 住宅街のはずれ。両隣3軒の建売区画はぽっかりと空いた真ん中に、鯨井くんの家がある。

 沙也加が玄関ポーチに降りると、裕人がにこにこと人の良さそうな笑顔をして扉の横からみんなを見ていた、

「わたしの友達、浅井さん、菊川さん、伏見さん」

 沙也加はメンバーを順番に紹介する。友達。そう。友達だ。言ってから言葉が沁みてきた。

「そこにいるの?」

 菊川さんが、ちょっとズレた方を見て頭を下げた。

 みんなもそれに続く。

 パタパタと軽い足音がした。でも廊下にはだれもいない。

 菊川さんが足を止めた。

「聞いた?」

 玄関で靴を脱ごうとしていた浅田さんと伏見さんが固い表情で頷く。

 また、パタパタと軽い足音がして、よく磨かれた廊下が、キューっと鳴った。廊下を誰かが滑っている音。

 途端に脱ぎかけのパンプスを転がして、菊川さんが家の中に駆け上がった。

「悠里っ!!」

 悲鳴のような声に、沙也加は心臓を刺されたような気がした。


 菊川さん、見つけたんだ。


「悠里っ!悠里でしょ!!廊下で滑って遊んだらダメ!また転んでおでこをぶつよ!」


 廊下の中程に駆け出して、そして菊川さんはその場にへたり込んだ。

 肩が細かく震えている。


「あの子だ。悠里です。あの足音、ねえ?本当だ……本当だ……いたんだねえ……悠里……」


 そこにいる誰かを、何とか手触りだけで見つけて引き寄せようとして、伏見さんは空気を抱き寄せる。

 何度も。何度も。何度も繰り返して、何も掴めないのを確認すると涙で崩れた化粧を手のひらで拭って、伏見さんは鯨井くんに頭を下げた。


「鯨井くん。この家に住まわせてくれる?」

「菊川さん!」

 浅田さんが慌てて止めに入ろうとするのを、鯨井くんは手で制した。

「大丈夫です。菊川さんも冷静です。だから、大丈夫。部屋は空いてます。2階の階段上がってすぐの部屋がいいと思います。母さんの部屋だったから。そのまま家具も残ってます」

 菊川さんは頷いて、階段を上っていった。

「鯨井くん……」

 浅田さんは困ったように階段と鯨井くんを見比べていたが、その顔が急に引き攣った。

 ガラス戸が開く音がした。

 沙也加たちは廊下から動いていない。

「居間の方ですね」

 沙也加は廊下の奥に目をやった。

「行きましょう」

 鯨井くんが歩き出す。

 廊下を進み、襖を開けて居間へ。

 縁側から庭に続くガラス戸が開いていた。ちょうど人1人抜けられるくらいの幅だ。

 庭は寒々しかった。冬だからというのもあるだろうが、花壇のコンクリート枠の中には、手入れの行き届いていない土が剥き出しになっていて、枯れた雑草がへばりついている。

 カラカラに乾いたジョウロが転がっていた。

 土が、まるでそこだけたった今掘り返されたように小さく凹んでいた。

美奈江なみえ……」

 浅田さんの目が見開かれた。

 ジョウロが、ほんの少し動いた。風かもしれない。

 浅田さんは庭に飛び降りていた。

「美奈江は、花が好きだったんです。私が事務所を閉めたら2人で庭に花壇を作ろうって言っていました」

 サラサラと土が動く。

 小さな土の山に手をやって、浅田さんは美奈江、美奈江と呼びかけた。


 伏見さんが忙しなく辺りを見回していた。

「克彦……」

 息子さんの名前だろう。

「克彦、いないの?克彦?返事して」

 祈りに似た声だ。ひどく震えて泣き出しそうな声で伏見さんは呼びかけた。

 沙也加は伏見さんの背中に手を添えた。

「息子さんが好きだったものとか、ありますか?裕人をはっきり見たのは、鯨井くんのお父さんの書斎だったんです。裕人は本が好きだったから。たぶん、その人が好きな場所に出てくると思います」

 伏見さんは台所を指差した。

「あの子、料理が好きだったんです。小さい頃の夢はコックさんで、就職先は冷凍食品の会社、そこの企画部に受かって……」

「キッチンに行ってみましょう」

 沙也加は伏見さんの背中にそっと手を添えたまま、並んで歩いた。

 大きな食器棚と小さく唸りを上げている冷蔵庫。冷蔵庫の上の電子レンジ。ダイニングテーブルの上の出しっ放しの食パンの袋が、カサリと音を立てた。

 伏見さんが顔を上げた。

 目で、何かを追っている。そこにいる。見えない誰かの動きを必死で追いかけているのが、沙也加にはわかった。

 伏見さんの目線の先で、電子レンジの扉が開いた。

 自然に開いたのとは違う、音を立てるのを気にして、そっと誰かが開けた密やかな音だった。

「克彦。そこにいるんだね。相変わらず食いしん坊だねえお前は。お腹が空いてるの?それなら母さんの分も何か作ってよ」

 伏見さんは、見開いた目から涙を流しながら、レンジに向かって精一杯、明るい声を出していた。

 優しい、お母さんの声だ。何気ない言葉の端に、その人の成長を見守ってきたことが表れている声だ。

「次はお父さんも連れてくるよ」

 沙也加は、食器棚の横に立つ裕人に微笑みかけた。

 よかったね。みんな会えた。よかったね。



 奇妙な共同生活が始まったのは、バレンタインの日からだった。皆で話し合って決めた。

 月初めに鯨井くんに生活費をわたす。鯨井くんは遠慮したけれど、「皆で暮らすんだから」と伏見さんが押し通した。

 鯨井くんのお母さんの部屋だった2階の部屋は、菊川さん親子の部屋になった。内装はほとんどそのままだが、ベッドの脇には悠里ちゃんのお気に入りだったすみっコぐらしのぬいぐるみが置かれた。ぬいぐるみは時々動く。

 庭に面した居間の向かいの和室は浅田さんと奥さんの部屋になった。

 浅田さんはよく庭に下りて手入れをしている。

 今は鉢植えのシクラメンくらいしか咲いていないが、春になったらこの間植えたチューリップが咲くだろう。土はふんわりとよく整えられている。

 買い替えたジョウロと大きなスコップが庭の隅に並べて置いてある。誰かが土をいじっているかのように、時々土の山が一人でに築かれている。

 2階の西の角部屋は、伏見さんの息子、克彦さんの部屋だ。いい大人の男が両親と住むのは恥ずかしいだろうからと、伏見さんは鯨井家に通ってくる。

 伏見さん夫婦が遊びにくると、台所が賑やかになる。

 本棚がたくさんある2階の真ん中の部屋が、沙也加と裕人の部屋だった。裕人は本を読み、他の住民たちの顔を確認するように家の中を歩き回っては、この部屋に戻ってくる。沙也加はそんな裕人と共にひっそりと暮らしていた。前の部屋もそのままにしてある。誰にもこちらの暮らしを告げてはいない。


 東の角部屋は鯨井くんの部屋だった。

 鯨井くんも、同居する住人たちに干渉せずに静かに暮らしている。鯨井くんは生活音をほとんど立てない。でもいつも誰より早く起きて、誰より遅く寝る。廊下や階段の共同部分を掃除して、バイトに出かけて、夜に帰ってくる。沙也加たちは「おかえり」と彼を出迎える。悠里ちゃんとは違う、裸足の足音と一緒に。

 幽霊たちは、喋らない。だから会話はできない。そこに佇んでいるだけだ。しかし、繋がっている。言葉は交わさなくても、確かにそこにいるのだから。

「悠里ちゃん、さっきお風呂場で水遊びしてたみたい」

「台所から音がするから克彦くんがいるのかな」

「裕人さん静かに歩くのねえ」

「タクトくん、また夜中にゲームしてた」

「やっとチューリップの蕾がついたよ。美奈江さんも喜んでるんじゃない?」

 沙也加たちは、幽霊を中心に、みんなで話をした。

 明日が来ることが嬉しい。そんな日々が、柔らかく続いた。


 異変は梅雨の終わりの頃に表れた。

 庭が荒らされることがあった。紫陽花の鉢が倒れていた。ぬかるんだ土にスニーカーの足跡がついていた。

「泥棒?」

 菊川さんが眉を顰めた。

「スマホ持った男の子が逃げていくのを見たよ。呼び止めたけど走っていってしまった」

 浅田さんがため息をつく。

 今日の家はひっそりとしていた。

 幽霊たちは、今日は何の物音も立たない。

 ダイニングの椅子に腰掛けていた鯨井くんが、控えめに「あの」と声を上げた。

 手に持ったスマホをテーブルに置いて、画面をタップする。

 沙也加たちはテーブルに近寄って、小さな画面を覗き込んだ。

「絶対に幽霊が見れる家」

 開いたページには赤い文字が並んでいた。

 背景は——。

「この家じゃない!」

 伏見さんが裏返った声を上げた。

 画面が動いた。誰かがスマホを手に持って撮影していたのだ。夜になると点灯する丸い門灯が映し出され、そこをスタートに家の周りをぐるりと周る。辺りの表札にはぼかしがかけられていたが、見る人が見ればきっとわかる。

 合成音声の女の声が流れ出す。

『この家ではかつて殺人事件がありました。父親が幼い子どもを殺した事件です。新聞にも載りました。それ以来、ずっと空き家のままなのです……』

 鯨井くんが顔を顰めた。怒っているようにも、戸惑っているようにも見えた。

「今日気がついたんです。誰かがこの家をSNSに上げてる」

 鯨井くんはまた動画を再生した。

 沙也加は動画の上の投稿者アイコンを見た。

 アイコンは初期設定の人型のシルエットでアカウント名は「52」とあった。

「なんで?」

 沙也加は思わずそこにいる全員の顔を見てしまった。すぐに、そんなはずはないと言い聞かせる。胸の中に、じわりと嫌な色の懸念が広がっていく。

「オレは、この中の誰かが犯人だとは思ってないです」

 鯨井くんがはっきり言った。

「親父が事件を起こした後も、ちょっとこういうことはあったんです。オレは免許ないから、車も売って、あんまり目立たないように生活してたから、空き家だ幽霊屋敷だって見物に来る奴がいたんです。その時は警察呼んで追い払ってもらいました。幽霊は、本当にいたんですけどね」

 誰も笑わなかった。

 鯨井くんはひとつ咳払いをして続けた。

「この家を見に来た誰かが、偶然見たんだと思います。それで広めた」

「冗談じゃない!」

 今まで聞いたことのない大きな声を、浅田さんは出した。皆が顔をこわばらせたのを見て取って、浅田さんはすぐに頭を下げる。

「……失礼しました。でも、家内は見せ物じゃありません。奈美恵は、やっと平穏を手に入れたんです。こんなのはあんまりです」

「そうよ。克彦が死んだ時も、テレビや雑誌の記者が群がった。誰も克彦を悼んでくれなかった。あいつらは、ただ、自分が楽しみたいだけなの。ニュースを見て可哀想になんて言ってた人たちだって同じ。もうあんなことはたくさんよ」

 伏見さんが鼻を啜った。

「——追い出しましょう」

 こんな時、いつもなら真っ先に怒りを素直に表明しそうな菊川さんが短く言った。

 平坦な声だった。最近髪色を変えてダークカラーのボブカットにした頭を軽く振って、菊川さんは窓の外を指差した。

「やっつけてやりましょう。あたしたちの平穏を壊されてたまるもんですか」

 菊川さんの黒目の奥で、煮詰まりすぎてどろりとした怒りが揺らめいた。

 沙也加は気圧されて、傍にぴったりと立つ裕人を見上げた。

 裕人。何かおかしいよ。わたしはどうしたらいい?

 裕人は喋らない。あの、穏やかな目で沙也加を見つめている。

 裕人、沙也加は心の中でまた呼びかけた。

「オレは、この生活を誰にも踏み躙られたくない」

 鯨井くんが、スマホをしまいながら言った。

 声はかすかに震えていた。

「二度と会えないと思ってた人に会えたんだ。それを邪魔されるのは、嫌です」

 二度と会えないと思っていた。

 そうだ。沙也加は裕人を見る。

 毎日会える。いつもここにいる。薄れる記憶に怯えなくていい。安っぽい他者の慰めに曖昧に笑わなくていい。この幸せを。


 カチリと何かが鳴った。


 沙也加の中で何かの歯車が噛み合う音がしたのだ。

 また、じわりと不穏な色が胸の底に広がったが、すぐにそれも曖昧になる。


 この幸せを、壊されてなるものか。


「前に言ったわよね。アタシの家は板金屋やってるの」

 伏見さんの唐突な一言を、あっという間に全員が理解した。思えば、この時にはもう、始まっていた。

 鯨井くんが笑う。

「台所の床下収納の下、人が立って歩けるくらいの空間があるんですよ」

 浅井さんが穏やかに言う。

「いやあ、多めにスコップを買っていてよかった」

「悠里とピクニックに行こうと思ってこれを買っておいたの。使えるよね?」

 菊川さんがふわりと広げたのは、ビニール製のレジャーシートだった。

「ちょっと小さいかもしれませんね。それに、悠里ちゃんもお気に入りの柄のやつが汚れるのは嫌だよねえ。ねえ、みんなで買い出しに行きませんか?」

 沙也加は提案する。なんでいい考えなんだろう。

「いいわね。新しくできたカインズ行かない?」

「行きましょう」

「先に必要なものを書き出して行った方がいいでしょうねえ」

「あら、みんなで何かするの初めてじゃない?」

「何だかワクワクしてきました」

 みんなで顔を見合わせて、沙也加たちは笑った。




 後ろから菊川さんの軽自動車ではねると、片手にスマホを持った男の子はギャっと叫んで道路に転がった。

 足が折れたようだ。そのまま呻いている。

 伏見さんの旦那さんが、男の子の頭にビニール袋を被せた。声がくぐもる。ゔーという呻き声は、ビニール袋がベコベコ鳴る音に変わる。

 間一髪で車をかわして逃げようとしていた、似たような黒ずくめの男の子を、浅田さんがスコップで殴打する。


「人の家に勝手に入るのは犯罪だよ。君たちは大学生か?そのくらいわかるだろう」


 2回、3回、スコップが振り下ろされる。

 大人しくなった2人の足を掴んで家の中に引きずっていく。

 菊川さんは車を家の裏にとめる。

 すぐに伏見さんが車体をカバーで手際よく覆った。これで車体のへこみは見えない。車はすぐに伏見さんの家の工場できれいになるだろう。

 沙也加はそれを見届けて、周りに誰もいないことを確認すると、玄関のドアを閉めた。

 使い捨てのレインコートの内側で、体が汗ばんでいる。


「何でこんなことするんだよお……助けて……助けてください……痛いよ……痛い……」


 手足を粘着テープで縛られブルーシートの上に寝かされた2人の若者は、同じようなことを口にした。臭気が立ち上る。漏らしたのだろう。


「聞いてねえ……聞いてねえよこんなの……おい!おい!おいっ!ゴジューニヘルツ!ゴジューニヘルツ!!お前騙したのかよ!?」


 車で撥ねられた方はまだ元気だ。

 沙也加は、若者の鼻血まみれの顔にぐいと顔を近づけた。


「裕人はもっと痛かったの。タイヤに体が巻き込まれて、指が取れたの。お腹の中身も引き摺り出されたの。すごく辛い思いをしたのよ。でも、今は幸せなの。やっと幸せになれたの。わたしたち、やっと幸せになれたのよ」


 若者の顔が、恐怖と戸惑いで歪む。

 沙也加は続けた。


「だから、邪魔をしないで」


 それが合図だった。

 レインコートを身に纏った5人、沙也加と、菊川さんと、伏見さん夫婦、浅田さんは動いた。

 切るものを、潰すものを、突き刺すものを、砕くものを手にした。

 段取りは決めてある。

 わたしたちはきっとうまくやれる。沙也加は微笑んだ。

「どんなに叫んでも外には聞こえないんです。から、大丈夫です」

 鯨井くんは、明るい茶色の髪を揺らして、沙也加たちに語りかけた。


 若者だったいくつかの塊を、床下へとばら撒く。

 そこには、多分ずっと昔に同じようなことになったのだろう赤黒く汚れた骨が転がっていた。


「あ」

 さらに最初に気がついたのは、菊川さんだった。

「裕人さんって、もうちょっと髪の毛を切ったら垢抜けるわよ」

 真っ赤に汚れたレインコートを床下に捨てると、菊川さんは頷いた。

「素材はすごくいい」

 そして、沙也加も気がついた。

 菊川さんの足元にじゃれついている、髪をふたつ縛りにした可愛い女の子。すみっコぐらしの絵のついたTシャツを着ている。

「悠里ちゃん、菊川さん似なんですね」

「二重なところは別れた旦那の遺伝。あたしに似なくてよかった」

「克彦くん、背が高いんですね。スポーツでもやってたんですか?」

「ええ、中高はバレー部だったのよね。奈美恵さん、いつもお花をありがとう」

「やっぱり、顔が見えるっていいですねえ」

 浅田さんがしみじみと言った。

「どうして急に見えるようになったんでしょう?」

 伏見さんの旦那さんが首を傾げた。

 床下を見下ろしていた鯨井くんが顔を上げる。

 鯨井くんだけ、レインコートを着ていなかった。

 鯨井くんの横には、タクトくんがいる。

 丸顔で、おとなしそうな子。

 今も不安そうに沙也加たちを見ている。

「オレたち、家族になったんですよ。この家を守る家族になったんだ。幽霊は家族にだけ見えるんです」

 家族。

 誰からともなく、輪になって沙也加たちは見つめあった。わたしたちは、家族。

 家族は家を守るのだ。大事な家族が、安穏に暮らす家を守るのだ。

 家を守ろう。ここに暮らすみんなを守ろう。嬉しくて、嬉しくて、笑う。裕人も笑っている。克彦くんも、悠里ちゃんも、奈美恵さんも笑ってる。

 大きく開けた口の中に詰まった、真っ暗闇を見せて笑っている。

 あは、あはは。ははは。

 菊川さんも、浅田さんも、伏見さん夫婦も笑っている。沙也加も笑う。



 鯨井くんは微笑んでいた。

 鯨井くんの隣に立つ、小さな男の子だけが怯えた目で周りを見回していた。

 沙也加はそれを見ないことにした。



 玄関のチャイムが鳴って、沙也加は玄関に急いだ。

 今日は通販で買った園芸用の土が届くのだ。

 扉を開けた先に立っていたのは、艶やかな長い黒髪の女性だった。沙也加より若い。二十代半ばといったところか。綺麗な人だ。

 どこか挑むような目つきをしていた。

 白いシャツの上に、社名の入ったグレーのブルゾンを羽織っている。

 西園土地建物管理、そう社名が刺繍されていた。

「私は西園といいます。今すぐにこの家を出てください」

 凛とした声だった。

 思わず従いたくなってしまうような、清浄という単語を表す音があるとしたらこの声だろうと思えるような声だ。

 沙也加が玄関を出て行かなかったのは。背中越しに濃密な裕人の気配を感じたからだ。

「大丈夫よ。裕人。ずっとそばにいるから」

 沙也加は背後の裕人に呼びかけた。

「いけない。この家は【食らう家】です。家自体が血を好みます。あなたたちは家に見そめられたんです。家が人の命を吸うための手足として集められた。あなたの後ろにいるのは、あなたの配偶者なんかじゃない。家があなたの思い出を抜き取って勝手に再生しているだけです」

 西園は、裕人を睨みながら早口に、しかしはっきりと告げた。

 沙也加は、視線を真っ向から受け止める。

「あなたはこの家を壊しにきたの?」

「壊せません」

 また、短くはっきりした返答があった。

「もう手遅れ。家は血を吸いすぎた。私でも壊せない。それに、この家を壊しても家の意思がまた他の家をに変えてしまう」

 西園は取り出した紙を、沙也加の目の前に翳した。

 それは新聞の切り抜きをコピーしたのものだった。

「5年前のことです。平成××年7月13日、S県S区の住宅にて、鯨井拓人くん7歳が死亡しているのが見つかった。傍には首を吊った男の死体があり、拓人くんの父親の鯨井俊次と判明。無理心中と見られる。記事の内容です。間違いなくこの家です。でも、拓人くんに兄はいません。あなた方が鯨井くんと呼ぶ青年は存在していないんです。この家は5年間空き家だった」

 沙也加のこめかみを刺し貫くような痛みが走った。

「電気もガスも通っているわ」

 沙也加は頭を押さえながら反論する。論点がずれている。でも深く考えられない。

 吐き気がする。

「ええ。電気やガスを止めようとすると、さわるんです。足が動かなくなり、メーターの前で固まってしまう。影響を受けやすい者は、その場で舌を噛み切ろうとする。だから、私のような特別な者がこの家の管理を任されて意思を封じていた。でも、前任者は負けました。多分床下にでも捨てられているでしょう。血肉は家のいい養分になって、家の意思は動き回る力を得た」

 視界が歪む。沙也加は口元を押さえて蹲りかけた。

 西園はそれを見下ろして、冷淡な声で続けた。

「もうひとつお話しします。鯨は特定の周波数で鳴き交わし、コミュニケーションを図りますが、どの種の鯨ともちがう周波数の鳴き声を出す個体がいるそうです。どの個体ともコミュニケーションを取れないその鯨は【52ヘルツの鯨】と呼ばれています」


 ゴジューニヘルツ


 解体される間際に、若者が叫んだ意味不明の言葉が輪郭を持って立ち上がる。


「面白くもないジョークも言える。ネットを使って贄を集める賢さもある。本当にクソ厄介な怪異ですよ。この家の意思はね。さて、どうしますか?この家を出ます?」


 白い手が差し出された。

 頭が痛い。


 沙也加は緩慢に西園を見た。

 玄関を超えたらこの家を出られる。



 でも、ここを出たらわたしは


「裕人と、家族と、一緒に、いる」 


 沙也加は喉の奥から言葉を振り絞った。



 沙也加が搾り出した呟きを聞いた西園は、ふーっと細くため息をもらした。


「そうですか。では、せめて拓人くんは返してくれませんか。そこで家に縛られるのはよくない。おいで、鯨井拓人くん」


 西園は一度引っ込めた手を、再び差し出した。

 低い位置だ。

 沙也加の隣を、タクト、いや、拓人がすり抜ける。

 西園は拓人の小さな手を掴み、素早く抱き寄せた。この家にいた、本当の幽霊の子どもは、早く来いと沙也加に手を伸ばす。

 扉が閉まっていく。拓人がじっと沙也加を見ている。お前も逃げろ。瞳が言っている。


 そして、扉が閉じた。



「心配しないで。わたし、どこにも行かない」


 沙也加は裕人の腕にもたれかかる。

 頭痛は止んでいた。

 最近は裕人に触れるようになった。

 きっと、もっと時間が経てば、この家の中でなら触れ合えるようになる。


「鯨井くん。きっとみんなも同じだよ。誰も出て行かないよ」


 沙也加は暗い影が伸びる家の奥に歩を進める。

 みんな笑っている。悠里ちゃんも、克彦くんも、奈美恵さんも、裕人も笑ってる。

 だから、沙也加も笑う。

 笑うとなんだかどうでもよくなった。


 床下からは血の匂いがする。

 それにも、もう慣れてきていた。





 幽霊の出る家 完




































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幽霊の出る家 いぬきつねこ @tunekoinuki

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