業火

――優しい家族だった。兄も姉も優しくて、父と母は立派に親としての使命を果たして、それを見て祖父と祖母が穏やかに笑う。嬉しい事があったらお祝いをして、悲しい事があったらみんなで痛みを分け合う。たまに間違ったことをして怒られることだってあったけど、ちゃんと反省したら頭をワシワシと撫でてくれた。……その温かくて大きな手のひらを、零は今でも鮮明に思い出せる。


 自慢の家族だった。創作の世界にも中々いないと思えるくらい、非の打ちどころのない家族だった。少なくとも幼い零の目からは、家族のダメなところなんて少しも見当たらなかった。……だからこの先も日常は守られると思っていた。これから先も笑ったり泣いたり、たまに怒ったりしながら、だけど毎年家族全員の誕生日をそれぞれサプライズとか計画してまで派手に祝うような日々が、大人になるまで続いていくのだと思っていた。


――十年前、煌々と燃え盛る炎の眩しさで目を覚ますまでは。


 あの日は珍しくテレビを見る気になれなくて、零は皆よりも一足早く二階にある寝室に向かっていった。十二歳になった零はもうお姉さんだったから、一人部屋を貰ってもいいと両親から許可が出たばかりだったのだ。……それが嬉しかったのも、早く寝室に向かった理由だったのかもしれない。


 一人の静けさは少しだけ怖かったけど、だけどなぜか心地よく感じることもあった。起きている間は全力ではしゃぐ快活な少女だったこともあってか、布団にもぐってからは夢も見ることなく明日の朝まで熟睡する。そうして窓から差し込んでくるあさのひかりに目を覚ますのが、普段の零の生活リズムだったのだが――


「……これ、なに?」


 ――その日の零を目覚めへと導いたのは、ドアを燃やし尽くし、今にも零の私室へと及ばんとする業火だった。


 なんだろう、悪い夢でも見ているのだろうか。早く寝すぎてしまったせいで、もしかしたら普段は起きないことが起きてしまったのかもしれない。少し大人び始めた頭でそんなことを考えながら、零は小さく首をかしげる。……夢の世界にしては、肌に感じる熱に現実感がありすぎた。


 こういう時、夢か現実かを確かめる方法があったはずだ。それがあれば、今目の前で起きている事にも区別が付けられるだろう。


「……いっ、たた……」


 そう思って頬をつねってみると、確かな痛みが零を襲う。……それがあって、始めて零は気が付いた。やっと手に入れた一人の部屋を壊そうとしてくるこの炎が、夢でも何でもない現実の出来事であるということを。


「やっ、やだ‼」


 ベッドから転がり落ちるように降りて、零はじりじりと後ずさる。震える足が情けなくて、怖がりな自分が恨めしくなった。


 だけど、さして広くない部屋では逃げるのにもすぐ限界が来る。零の背に壁の硬い感触が伝わって、その瞬間に鼓動がひときわ大きく跳ねた。……その壁すらも少し熱いのが、恐怖をさらに煽って来る。


 誰かが死ぬということに対して、幼い零はまだ疎かった。周りの皆は健康そのもので、祖父や祖母もあと十年二十年は生きるだろうと言っていたのを思い出す。……だから、急に死が零の下ににじり寄って来ることは恐怖体験以外の何物でもなかった。


 逃げたいのに、下半身が別人のものになってしまったかのように力が入らない。助けを呼びたいのに、叫び声を上げようと吸い込んだ熱気が喉を焼いてしまう。……そもそも、扉が焼けてしまっているというのに誰が助けに来れると言うのだろうか。


「お父さん……お母さん……」


 家族の無事にまで考えが回った瞬間、零の中で何かがちぎれる音がする。聡明な彼女だったから、利口な彼女だったから、気が付いてしまったのだ。――二階にあるこの部屋が燃えているというのに、階下のリビングが燃えていないことなどあるはずがない、と。


 もし仮に何か奇跡が起きてこの部屋を抜けられたのだとして、その先にはもう誰もいない。大好きだった家族との時間は、これからもあったはずの温かな未来は、〇の部屋を襲った炎にすべて焼き尽くされたのだ。……悪い事なんて、何にもしてないはずなのに。ただ、幸せに生きていただけのはずなのに。


「どうして……どうして、なの……?」


――まさかこの世界では、幸せに生きることすらも悪い事だとでもいうのだろうか。


 懊悩する間にも零の部屋は炎に浸食され、成長の証だった空間は全て真っ黒な炭へと変わっていく。……だけど、もう何をする気にもなれなかった。だって両親も兄も姉も抗えなかったのだ、零が何とかできるはずがない。……大好きな家族が皆いなくなってなお生きる意味なんて、この世に残っているのだろうか。


「……もう、いいよ……」


 床にへたり込んで、零は諦念を口にする。扉をあっさりと燃やし尽くすほどの大火を前に子供が出来ることなんて何もないし、何をする気にも起きない。きっとすぐにでも、零の体は今まで焼けて来た床や扉とおんなじくらいに真っ黒になって――


『おーおー、やっと見つけた。こんなことなら居場所ももう少し詳しく聞いとくんだったな』


「……え……?」


――そう思った、直後の事だった。


『……おいお前、願い事を言え。お前の魂を代償に、オレがそれを叶えてやる』


 声変わりの真っただ中にある少年のような、鋭くもどこか甲高い声が、どこからともなく聞こえてきたのは。

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黒宮 零の今日の願望 紅葉 紅羽 @kurehamomijiba

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