モブヒーローが表舞台に上がる日

 ぬいぐるみマンは着ぐるみの体を捨て、一生懸命走り続けた。

 彼の能力は今の彼と同じようなぬいぐるみを生成し操ること、そしてそのぬいぐるみへと己の意識を移すことの二つだけ。彼には一般的なヒーローが持つ超人的な筋力や魔法や超能力や、隔絶した知能を持っているわけでもなかった。彼は空を飛ぶこともできず、地を潜ることも海を泳ぐこともできない。彼は動くぬいぐるみでしかないのだ。彼はただ瞬間早着替えができるだけのマスコットに過ぎない。しかもその見た目はありきたりなクマのぬいぐるみである。

 だからこそあの化け物女に見つからないように、静かに、そして迅速に逃げていた。

 路地裏の一角に彼がたどり着いたとき、小さなぬいぐるみは一人の男性に拾い上げられた。暖かさが空気に混じる夜明けだからか、ナイスミドルというべき顔つきの男性は幾分フラットな格好をしている。彼はそのぬいぐるみに向けて微笑んでいた。


「よくやったね、ありがとう」

 彼こそがぬいぐるみマンの中の人、新島だった。


 □


 彼の朝は早い。

 小さなブックカフェの店主である彼は、いつも朝早くから店で提供するコーヒーやパンの準備をしている。駅から離れた住宅地のど真ん中にあるそのカフェには少数ながら熱心な常連客がおり、その期待を裏切らないようにと、朝早くから真剣に労働に励んでいる、はずだった。

 しかし今彼は近くの高校の校門の前でたたずんでいた。彼は知人を待っていたのである。

「やあ、赤井君、少しだけ時間をもらっていいかな。少しでいいんだ」

 背の高い燃えるような髪色をした男子高校生が通りかかった瞬間、彼はようやく動いた。

 あまり話す機会のない年上の新島の行動を不思議がる高校生と、目的の人間がようやく見つかり不審な目を向けられずに済んだという安堵に包まれたナイスミドルは目を合わせた。ぴりついた雰囲気というものはなかったが、どこかから熱心などす黒い視線を浴びていた。

「俺はヒーローとしては全く能無しだけれども、偶然発見したことがあるんだ」

「……なんです、早く行ってくださいよ。俺これから学校なんですけど」

 赤井という美形の男子高校生はこの街では知らぬ者のいない有力なヒーローの一人だった。彼の燃えるような髪色と同じく、炎を操るヒーローであり、その映える容貌から熱狂的なファンがつくほどの人物だった。そのような新進気鋭の人物に新島は助けを求めたのである。

「近頃このあたりで殺人事件が起きてるだろ、今日はその情報を持ってきたんだ」

「……またなんかしでかしたんですか? いい加減にしてくださいよ、新島さん弱いんだから」

 新島という男とぬいぐるみマンという存在はこの街にほとんど知る人のいない、一般市民である。しかし反対にこの街のヒーローで彼のことを知らないものはいない。彼の能力の全くの無能ぶりはあまりに常軌を逸しており、悪い意味で名をとどろかせていた。なおかつまた下手な一般人よりも脆弱なヒーローであるのに、無謀なほどの勇気と正義感を持ち合わせ、絶えず暴走を続けるイカれイケオジとして名をとどろかせていたのである。

「見てみろよこの、不気味な女を。今日の夜明け前に、この日本刀でグサッと胸元をさされてな、死ぬかと思ったぜ」

 しかしその悪名をものともせず、暴走機関車である新島は独立独歩を延々続ける。彼のデリカシー欠如と言えうる性質は、目前に存在する有名なヒーローが動揺していることにさえ気づかなかった。ただ彼は脳裏に妖怪のごとき女を浮かべていた。

「口ぶりからしてもう五、六人は殺してたみたいだ」

 ある程度話したいことを話すと、新島は店から持ってきた手製のサンドイッチを少年へと押し付け、未だ締め切ったままの店を開けるために走り出す。

「ま、待ってください!」

 しかし新島は一歩足を踏み出そうとしたところを呼び止められる。

「ほんとに、この写真と同じ人がいたんですか?」

 疑わしげに見つめる少年の姿に新島は首をかしげる。

「あぁ、そうだが……知り合いなのか?」

 新島は腕を引かれて高校の中へと連行されていく。


「こいつは、俺の知り合い、だったやつだ。でも、一か月の前に、死んだはず……」

 空き教室に押し込められた新島は、真剣そうな顔をした少年の言葉に耳を傾けていた。うつろで独り言のように聞こえる彼を見つめていた。


「姿は違う、こんな表情をするような奴でもない……でも」

「なあ、おい、まず聞かせてくれよ。この化け物女はいったい何者なんだ?」

 明瞭な反応は帰ってこない。しかし唯一、理解できたことがあった。

「こいつは、魅了の魔女。先月、俺が殺した、幼馴染だ」

 新島には黙ることしかできなかった。

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とあるヒーローぬいぐるみマン 酸味 @nattou

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