とあるヒーローぬいぐるみマン
酸味
イロモノヒーロー
変身するとぬいぐるみになるヒーロー、「ぬいぐるみマン」。彼、あるいは彼女は綿に包まれたやわらかな体と、つぶらなボタンの瞳、着ぐるみとしか言いようのない160cmほどの体調をして、今日も夜の街をふらついていた。
その無感情な可愛らしい顔は何を考えているのだろうか、すれ違った一人のサラリーマンは全く分からなかった。いや、そのような疑問さえも出てこなかった。なぜならぬいぐるみマンは、その見た目だけならば明らかに不審者であり、関わるべきでない存在であったからだ。深夜の街を歩く着ぐるみなど、見た目は可愛らしくともかなり不気味である。巷にあふれる魔法少女系アニメを見てみれば、むしろ不気味な要素を持っている可愛らしいもののおぞましさを理解できるだろう。かえってそのやわらかな見た目が不気味を強調させているのである。
しかしこれでもぬいぐるみマンは市民を守るヒーローなのである。一般的なヒーローは戦隊モノであったり、魔法少女であったり、勇者であったり、軍人であったりの恰好を身にまとっているが、この奇妙なぬいぐるみもヒーローなのである。ぬいぐるみマンは心の中で叫んだ。
たとえ見た目が異様だとしても、心まで異様なものになるつもりはない。
その容貌に反してぬいぐるみマンの精神は正常だった。むしろ正義感が強い健全な心を持っていた。だからこそぬいぐるみマンは己が姿を見て恐れおののくサラリーマンを助けることはできなかった。ぬいぐるみマンは心の底から労働に疲労したそのサラリーマンを労しく思った。己のやわらかな体で包み、家まで運んでやりたいと思っていた。
しかしそれは不可能だと気づいていた。彼は己の姿に恐怖しているのであって、今彼を抱きしめてしまえばすさまじい恐怖に襲われるだろうとわからないわけがなかった。彼はひどいジレンマに襲われていた。
足を震わせながら遠くへと逃げていくサラリーマンの姿を見て、ぬいぐるみマンはひどい空虚感に襲われた。人々を守るはずだった己が、どうして人の心に不安を植え付けているのだろうか。どうしてまたこんなふざけた格好のヒーローになったのだろうか。正義の力をくれた、ぬいぐるみのような生き物らしき存在は、もう数か月は顔を出さない。ひどく憤怒したあの日から、その生き物は責任を忘れ逃亡したのだ。
それでもぬいぐるみマンは顔を上げた。たとえほとんど能力のないぬいぐるみだとしても、彼にしか持ちえない能力を持っている。たとえ己が全く使えないヒーローだとしても、ただの一般人よりは力がある。だからこそぬいぐるみマンは暗い街を歩く。近頃近郊で多発している奇怪な殺人事件の真相を探るために、そしてまた犯人を取り押さえるために、あるいは犯人の情報をより強いヒーローに伝達するため、ぬいぐるみマンは足を動かし続ける。
しかし所詮はぬいぐるみ。もう二か月近く街を歩いていても犯人らしき人物と遭遇することはなく、一度だけ殺された人間を見ただけで手掛かりはつかめなかった。少しずつぬいぐるみマンの心の中に諦めが浮かびつつあった。そのぬいぐるみは正義感を持っていたが、しかし同時に現代社会にはびこる合理主義を心にはらんでいた。合理主義は、意味がないのだからやめるべきだと何度もささやいていた。そして警邏を続けてちょうど三か月目の今日、これが終わればもうこんなことはやめようと考えていた。
どうせぬいぐるみの己は何十人もの人を殺してきた凶悪な人間を止めることはできない。それに己が周囲の人々の心に不安を覚えさせている。最近殺人犯に加えて奇怪な不審者の報告が増えてきているが、後者はおそらく己だろう。こんなことやっていても意味はない。暗い気持ちと空虚な気持ちで、最後の警邏をしていた。
そろそろ日が明けるかという頃、ぬいぐるみマンは帰路についていた。
結局何の意味もなかった。ため息をついた。
「……なんだ、お前は」
しかし息を吐き終える前に、ぬいぐるみマンの胸から刀が顔を見せた。
「不審者にしたって異常すぎるように思えるけれど」
桜色の髪の毛を地面につくまで垂らし、巫女装束を身にまとった少女はぬいぐるみマンの体から刀を抜き、口角を上げる。その姿はあまりにも不気味だった。その容姿の要素要素はすべて、美しいという形容詞が添えられるべきものであったが、その総体はあまりにおぞましいとしか形容することができないものだった。
ぬいぐるみマンとは比にならないおぞましいもの。
「まあいいや、不審者でも」
辻斬り、それから彼女は動かなくなったぬいぐるみマンの体を放置してどこかへと去っていく。どこから見ても近頃の殺人犯は彼女だった。
「女二人と男三人、不審者一人……ものたりないなぁ、なんでだろ」
ぼそぼそつぶやく彼女は、背後でうごめく存在に気づくことはなかった。
「しかたない、もう一人やろうかな」
着ぐるみのそばに隠れる小さなぬいぐるみ。
その小さなぬいぐるみは、超小型のカメラで異様な少女を捉えていた。
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