おばかさん
清瀬 六朗
第1話
もともと
ふうっ、ふうっ、はあっ、ふっ、んっ、はっ、はあっ、ふっ。
恒子さんの息が瑠音のおでこに当たり、頬を吹き過ぎる。瑠音のちりちりの前髪をなびかせる。
その息があたるたびに瑠音の感覚は
意識が遠のくのをつなぎ止める。恒子さんの体を感じるためだけに。
ああっ、はっ。
その声とともに恒子さんの手は瑠音の背中の下に行く。ぱらぱらっとパジャマの前のホックがはずれる。いや。自然にはずれたのではない。恒子さんの左手がもいではずしたのだ。
ずずずっとパジャマが
「ああっ」
瑠音の中途半端な悲鳴だ。恒子さんが瑠音の体を上へと投げた。投げたと言ってもマットレスの上でなので位置が枕のほうに動いただけだ。その動きで、両手の手首にひっかかっていたパジャマが取れた。こんどは瑠音の胸の前に恒子さんの顔が来る。
ふっ、ふっ、はっ、はっ、はっ。
短く歯切れよくなった息がこんどは瑠音の胸の谷間を走り抜ける。瑠音がそれを感じたとき、恒子さんの手が暴れた。
背中の上のほうと、胸と。
「あっ」
恒子さんの手が瑠音のブラをもぎ取っていた。ブラを握った右手を自分の後ろにやってから、自分の頭の上に出し、勝ち誇ったように空中で揺すってみせる。
瑠音の体が動いた。右手がすばやく空気を切り、自分のものだったブラへと突進する。
「あっ」
恒子さんの右手は無言で瑠音をバカにした。瑠音の右手が届く寸前に、瑠音からもぎ取ったブラをふらふらと振って見せると、弾くように枕の向こうに飛ばしてしまった。
もう戻って来ない。
「あっ」
「お、ば、か、さ、ん」
恒子さんのその声だけで瑠音の心も体も判断力もとろける。
でもそれは合図だった。パジャマとブラを剥がれ、右手も上に上げて守るものがなくなった瑠音の上半身に、恒子さんが抱きついてきた。胸の下につけていた左手もいっしょに両手で抱かれる。恒子さんの体にくっつけ、放し、腕で両脇を締め、そしてあらわになった胸を恒子さんが頬を使ってなで回す。指の先を揃えて強く押し、指を大きく拡げてつかみかかる。
うはっ、はっ、うぉっ、うぉっ、うーん、あっ、はっ、はっ。
ときどき胸にぶつかってくる恒子さんの鼻、そこから嵐となって吹き出す息……。
瑠音は暴れる気はない。体を動かすつもりもない。むしろ、恒子さんの動きに瑠音の体が反応するのだ。
もともと自由な右手が
瑠音自身の力が加わって恒子さんの胸がいっそう強く瑠音の胸を圧迫する。
「うはー」
息とも声とも悲鳴ともつかないものが瑠音の口から漏れ、それがきらめく恒子さんの髪を吹き動かす。
ああ!
恒子さんの髪!
色が淡く、黄金のきらめきを宿す髪。
もし恒子さんの像を造るならば、この髪を再現するためだけでも、黄金の像として造らなければいけないだろう。
いや。金属なんかでは再現不可能!
恒子さんの体は、ここにしかない。
そう思うと、瑠音の体にいっそう力が入った。右手を背の後ろから首の後ろへ、指をいっぱい広げて押さえつける。左手を背中のくぼみに沿って下へ。
恒子さんの体が、瑠音の体に、ぺちゃーっ。
柔らかい。
もう少しで
うぎゅっ。うごっ。うごっ。はあーっ。
恒子さんが息をすることで抵抗しようとする。いま、恒子さんの鼻も口も瑠音の胸に押しつけられて、やっと息をしている。その息が、瑠音のおなかの上、胸の線に沿って外へと拡がって行く。
「ぶぶぶぶぶぶぶ」
恒子さんの唇!
そこから出た息が、瑠音のおなかの表面にぶつかって、そんなぶざまな音を立てる。
ぶざまな振動が伝わってくる!
もう恒子さんは抵抗できない。
瑠音は恒子さんを征服にかかった。
右足をマットレスから上げて勢いをつけると、柔道で技をかけるようにその右足で恒子さんの両脚をとらえた。パジャマの布を通してその脚のするーっとした感覚が伝わってくる。
恒子さんの抵抗は弱かった。脚をとらえられても、瑠音の動きに合わせて膝を弱々しく折っただけ。
恒子さんを取り込むまでもう少し……。
瑠音は右手と左手を入れ替えた。左手で恒子さんの胸の後ろをつかみ、その体をずり上げる。
右手は背中のくぼみに沿って下りていく。恒子さんが膝を折ったので、パジャマの後ろが下がり、下着が露出していた。
瑠音の右手、その薬指と中指がその下着のゴムの下に滑り込む。
恒子さんはどんな下着を
さっきの自分のブラの仕返しに、この下着を取り上げて、どこかに投げてやれば、恒子さんはどんな顔をするだろう……。
恒子さんの体の硬さが変わった。
ぴきっ、と、すべすべプラスチックでできたようななめらかさと冷たさになる。
恒子さんの左手が大きくしなって瑠音の右肩の後ろをパンチ!
それで瑠音がひるんだ
恒子さんが瑠音の顔を見上げた。
ピンク色の唇、ばら色に
満足の微笑をたたえたその顔で、その唇を動かし、恒子さんは言った。
「さあ。起きようか」
瑠音は
ひどいことをされたわけではない。
もとの服に着替えてから、高級な紅茶と上品なお菓子を出してもらい、二人で食べた。
話もした。生徒会のこと、クラスのこと、そして瑠音の家族のこと。
親切にアドバイスももらったし、励ましてももらえた。お土産に高級なハンカチももらえた。
でも、もぎ取られたブラは当然のように恒子さんのものになり、部屋に張ってあったロープにさらしもののように
それだけではなかった。
マットレスの上で並んで寝て、最初はしりとりなんかのことば遊びをし、そこから近づいていって抱きつき合う。
その一部始終が録画されていた!
その最初の部分を見せられて
「こんなの、どうやって」
とやっと声を出した瑠音に、恒子さんはさわやかな笑顔で言った。
「ああ。あのベッドの上にレトロな
顔から血が引いていく瑠音に、恒子さんは
「もちろん、瑠音にも、この動画、あげるから」
そう言って、にっこりと瑠音に笑いかける。
「そんなの困ります、すぐに消去してください」
と言わなければ、と思った。
でも、その笑顔につられて、瑠音の顔も自然と笑顔になり、唇がぽわんと開いた。
声を出すのだけは抑えた。
でも、瑠音は、笑顔で控えめに、うん、とうなずいてしまった。
「瑠音、そういう笑顔、いいね」
恒子さんの優しい声……。
でも、それが、自分に征服された者へのお
次の日、瑠音は
成美は学年一の色白美人だ。
一年生のころ、瑠音は同じクラスだったこの成美が苦手だった。美人で、背が高くてつんつんしている、というのが、瑠音にとっての成美の第一印象だった。ベリーショートで、髪が頭の後ろで「ぴん」とはね返っているのがその怖さの印象を強めていた。
だから、二人で協力して数学の難しい問題を解く、という授業でペアにされたとき、瑠音は体ががくがく震えるくらいに緊張した。
ところが、なぜか知らないけれど、そのとき成美は瑠音を認めてくれたらしい。一学期の期末試験のときにはいっしょに勉強しようと誘ってくれた。高校の勉強が難しくてついて行けなくなりそうだった瑠音は、成美といっしょに勉強したことで、進学コースでも中くらいの成績で乗り切ることができた。
ところで、瑠音の高校には、クラス代表以外の生徒が生徒会に入って仕事をするという「生徒会委員」という役職がある。クラス代表の生徒会委員だった成美は、一年生の後半、その生徒会委員に瑠音を誘ってくれた。
瑠音の世界が広がった。
瑠音と同じように地味な子もいたけれど、キラキラと輝きを放っているような生徒がたくさん集まっているのが生徒会だ。地味な瑠音がその一員になれたのだ。
そして、
成美は瑠音を高校北棟の屋上に連れて行った。
成美は、上がり口からいちばん遠い、まわりに生徒がいないところに瑠音を連れて行き、柵に寄りかかった。
言う。
「瑠音、昨日、
「えっ……」
汗ばむ季節に、瑠音の肌が一瞬で氷に覆われた。そんな感覚が走る。
「梅大沢の、向坂家の別荘」
追い打ちだ。
成美は、左を向いて瑠音を見る。
隠せない!
「行……った」
ぶるぶる震える口で、瑠音はやっとそう答えた。
成美が平板な声で続ける。
「何を取られた?」
「取られた」なのか、「撮られた」なのか。
ぶるぶる震える口が、エンジンのように
「ぶっぶっぶっぶっぶっ」
と音を立てる。それにつづけて、
「ぶらっ、じゃあっ」
と瑠音は言ってしまった。
成美は、大きく喉を鳴らして息をつく。
「それだけじゃなくて、映像も撮られたでしょ?」
知られている……。
「う……ん」
「だいじょうぶだよ」
成美は言う。その言いかたが、ぜんぜん「だいじょうぶ」そうではない。
「わたしなんか下着一式取られた。絡み合ってるところの映像とかも、五回分ぐらい」
何か黒い大きな球が斜め後ろから飛んで来て、頭を打って通り過ぎる。
もちろんそれはほんとうではないが、そうなったときと同じように目の前が暗くなる。
瑠音一人じゃなかった!
そんな瑠音の様子には取り合わずに、成美は言う。
残酷に。
「わたしだけじゃない。生徒会の委員や役員で、わたしの知ってるだけで十人くらい」
だから、その震える喉から声が出てしまう。
「そ……んなに?」
「うん」
成美は肯定した。
「わたしはそれでいいんだ。瑠音も、瑠音がいいならそれでいい。でも、瑠音は向坂恒子が選んだたった一人じゃない。それはわかっておくこと」
そう言って、成美は斜めに瑠音の顔に目をやった。
「できる?」と言いたげだった。
瑠音は、いま、その「梅大沢の別荘」の前に立っている。
あのあと、恒子さんから誘いが来たとき、断った。
また誘いが来た。家で用事があるから、と、断った。
でも、断るたびに、背中に柔らかい感覚が走る。
手が、指が、手のひらの感覚がひとりでに背中を走り回る。
それが強くなっていく。
それに、ブラを奪われた胸の表面を走り回る柔らかい頬、ぶつかる鼻。
「ぶぶぶぶぶ」と音を立てた、あのピンクのつややかな唇!
たまらない。
耐えられない!
そう思ったとき、恒子さんからメッセージが届いた。
「明日放課後はどうですか」
すぐに
「行きます。よろしくお願いします」
と返事を送った。
「そんなにかしこまらなくていいよ。同級生なのに」
と絵文字つきの返事が来た。
そして、学校の帰り、瑠音はいまここにいる。
瑠音は、いちどためらってから、ドアベルのボタンに手を置く。
置いて、もういちどためらう。
でも、指はひとりでにボタンを押していた。
「ごん、ごぉん」とゴージャスな音が響いているのがわかる。
恒子さんはまだ出て来ない。
いっそ、いま逃げ出してしまおうか?
そうでないと、瑠音は……。
恒子さんがささやいたとおり、おばかさんになってしまう!
成美だけじゃない。生徒会にいる、派手な感じの美人のうち十人……そのなかの一人……。
そのなかでいちばんさえない一人。
それが瑠音。
そんな惨めな一人が瑠音だ。
でも、足は逃げるほうに動いてはくれなかった。
ドアがかちっと音を立て
「あ、いらっしゃい」
という柔らかい声……。
その声に惹かれて、瑠音の体は引き込まれていった。
恒子さんのもとへ。
おばかさん。
(終)
おばかさん 清瀬 六朗 @r_kiyose
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