陰陽師・丹沢恭介
真野てん
第1話
三月三日といえばひな祭り。
桃の節句とも呼ばれ、古来より女子の健やかなる成長を祈る年中行事である。
女児のいる家庭ともなればひな人形を飾り、ちらし寿司などに舌鼓を打って娘御の健康をお祝いするものだ。
今回、現代の陰陽師である
しゃべるぬいぐるみがいる――ということ以外は。
その日は朝から、春一番を予感させるような強い風が吹いていた。
気温もかなり上昇し、そろそろハイネックに冬用のジャケットでは暑いなと、額に自然と吹き出る汗を押さえながら丹沢恭介は依頼人宅へとやって来た。
すると玄関先ではひとりのお婆さんが箒を手にして、落ち葉をせっせと掃いている。
しかしながらこの強風だ。
掃いても掃いても落ち葉はすぐに舞い戻ってしまう。
「ご精が出ますね」
のれんに腕押し、焼け石に水ではないが、丹沢はその様子が気の毒に思い、しばらくお婆さんとの会話に花を咲かせた。いつものことである。
「では、わたしはこれで」
彼はお婆さんに一礼すると、ようやくのことで依頼人宅のインターフォンを鳴らす。
返事はすぐにあった。「はい」と一言。若々しいがちょっと疲れた印象を持つ声であった。
「――さんのご紹介で陰陽寮から参りました、丹沢と申します」
陰陽寮とは律令制時代における日本の政府機関のひとつである。
天文や暦を司り、うらのつかさとも呼ばれ、祭祀の日取りや
丹沢は現代において、いわゆる霊能力者として仕事をするため陰陽師を名乗り、所属する組織を古式に則って陰陽寮としているのだ。
「あ、この度はどうもお世話に……」
玄関ドアを開け、出てきた女性が丹沢を一目見て言葉を失った。
年の頃なら三十代。
長い黒髪をハーフアップにした清潔感のある女性だった。この方が今回の依頼人であろう。
丹沢はまず名刺を渡し、あらためて自己紹介をする。
「丹沢恭介と申します。本日はお嬢さんについてのご相談ということでしたね」
「え、ええ、そうですけど――あなたが……陰陽師さん? ほんとに?」
「そうです。なにか問題が?」
女性は――依頼人宅の奥さんは丹沢に対して明らかなに
「ご紹介いただいた話では、もっと年上の方だと……」
無理もない。
丹沢の見た目はどうみても二十代半ば。
律儀にネクタイを締めると、悲しいかなリクルート姿に見えてしまうのでラフな恰好にならざるを得なかったという逸話がある。しかしその実年齢は。
「すみません。こう見えてもう五十を越えてますので、どうかご心配なさらず」
「ええっ。ご、ごめんなさいっ。てっきりお弟子さんが代わりにいらっしゃったのかと……」
「あはは。よく言われます」
などとひとしきり先制パンチを放つと、もはや丹沢の独壇場である。「陰陽師さんはみんな、そんなに若いんですか?」と、もはや数千回は聞いたであろう質問を笑って受け流しながら、彼らは依頼人宅の二階にある、娘の部屋へと向かった。
「めぐみ、入るわよ」
奥さんはコンコンと部屋のドアをノックした。
室内からの返事はない。
彼女は怒ったような、困ったような。それでいて少し哀しそうに眉をハの字に歪めると、ガチャリとドアノブを回す。
丹沢にはそれが妙に重苦しい音に聞こえた。
部屋のなかにはひとりの少女が枕を抱えてベッドに座っていた。
奥さんにめぐみと呼ばれた彼女は丹沢のことを一瞬だけねめつけると、プイっと顔を背けてしまう。
「こ、こら、ご挨拶なさい!」
「あはは。奥さん、いいですいいです。大丈夫」
「でも……」
興奮している母親をよそに丹沢は部屋のなかを見渡した。
すると腰ほどの高さをした本棚のうえに、ちょこんと座ってこちらを見ている一匹の猫がいるではないか。おそらく
「ふむ……」
猫のぬいぐるみ、といってもリアルな造形ではなく、なにかのキャラクター商品であるようだった。ふくふくとした丸みを持つ可愛らしいフォルムで、ちょうど招き猫のように片手を上げて手招きをしている。
さすがに小判は持ってはいないが、一見して縁起が悪そうにも見えない。
「――。――――、――――」
丹沢はぬいぐるみを前にして、
半眼、そして下唇に指を軽く当てて。
「あ、あの……」
見慣れぬ光景にたまらず奥さんが声を掛けると、丹沢はくるりと振り向き、およそ五十路とは思えない明るい笑顔で「奥さん、少し外してもらえませんか」と言った。
渋々といった様子で部屋をあとにする奥さん。
部屋に残された少女の顔からは、ちょっとだけ緊張が緩んだのを丹沢は感じた。
「このぬいぐるみは、お祖母ちゃんから貰ったのかな?」
唐突な質問に、少女はきょう始めて丹沢の顔をしっかりと見た。
驚いている。
それと同時に、不安げに眉を歪ませた。ああ、こういうところが
「ど、どうして?」
「ぬいぐるみが教えてくれたよ」
「うそ!」
「うそじゃないよ。だって、きみもぬいぐるみとおしゃべり出来るんでしょ?」
「それは……」
少女はまた枕を抱きしめて黙りこくってしまった。
「隣り、いいかい?」
丹沢が優しく語り掛けると、少女は無言で首肯する。見た目には歳の離れた兄妹のようなふたりだが、実際には親子ほどの年齢差がある。
そんなふたりがベッドに腰掛け、静かな時が流れ始めた。
「ぬいぐるみとおしゃべりできるってのは、お母さんの気を引くためのお芝居だね」
「……おかあさんに言う?」
少女は目に涙を浮かべて、丹沢を見上げた。
たくさんの思いが彼女の内側に溜まっているかのようだ。丹沢は震える彼女の頭を撫でて「安心して、言わないよ」と声を掛けた。
「お母さんは嫌い?」
「ううん。でも、ときどき怖い顔でわたしのこと見てくるの。おとうさんにはそんなこと言えないし、誰にも聞いてもらえなくて……」
「それで猫ちゃんに聞いてもらってたんだね」
丹沢がぬいぐるみに視線をやると、隣りで少女はこくんと頷いた。
「よし。これできみの方は終わった。あとはお母さんだね」
「えっ?」
びっくりしている少女の部屋をあとにして、丹沢はリビングへと降りて行った。
そこにはテーブルに肘をついてぼーっとしている奥さんがいた。
丹沢が近づくと、スリッパの足音に気が付いたようだ。
「あ、ど、どうでした? 娘になにか変なものでも
「ご安心ください。娘さんの方は片付きました。さきほどお清めを」
と言って、ぬいぐるみに向かって呪を唱えたときと同じく、唇に指を当てがって見せた。
無論、これは彼女を安心させるための方便である。
そもそも娘に憑りついている霊障など無かったのだから。
「それよりもきょうはひな祭りですね。おうちにお
「え? あ、ありますけど、それがなにか……」
「飾ってください。それがあなたを苦しめている原因です」
「わたし……が……」
丹沢は懐から紙を切り抜いて作ったヒトガタを取り出して、もう一度呪を唱える。
今度は両手の指を組み合わせて印を結び、お経にも似た心地のよい発声がリビングの窓ガラスも微震させていた。
くどいようだがこれもまたブラフ、彼女の本心を聞くための方便である。
「
「おかあ……さん……」
そう一言つぶやくと、彼女の表情がみるみる変わっていった。
目がつり上がり、鼻のうえには怒りでシワが刻まれていく。
彼女は机のうえの式神に向かって、見た目の容姿からは想像できない叫びをあげた。
「なによ今更! まだなにか言いたいわけ? ひとのやることにいちいち口出ししないでよ! し、死んでもまだわたしに文句があるっていうの?」
一度、噴出した怒りはなかなか鎮まらない。
ヒートアップした彼女の言葉は、どんどん汚さを増していく。よほどのわだかまりがあったのだろう。聞くに堪えないとはこのことだ。
鬼女の如き迫力に、しかし丹沢も負けじと呪を唱える。
「あんたがいけないんじゃない! わたしがやりたいこと全部否定して! ひ、ひな人形だってあんたが……あんたが……」
彼女はとうとう泣き崩れた。
丹沢がふと後ろを見ると、心配して二階から降りてきた少女がいる。胸には例のぬいぐるみを抱いていた。
彼は口元だけで軽く笑みを作り、
「そのお雛様は、生前のお母さまが娘さんのために買ってくださったものですよね」
「ど、どうしてそれを」
「ぬいぐるみが全部教えてくれましたよ。あのお雛様をみるたびに確執のあったお母さまのことを思い出すんだと。そして――和解できずに亡くなってしまったことを後悔していると」
丹沢は式神を手に取ると、掌のうえでもう一度、呪を唱えた。
続けて九字を切り、静かに目を閉じる。
「お母さまはずいぶんと娘さんを可愛がっておられたんですね。若い頃、あなたにしてあげられなかったことをせめて娘さんにはと。それもまたあなたには、疎ましく思えた。わたしのときは違ったじゃない――って。だから……娘さんにもつい辛くあたってしまうことがあったんじゃないですか?」
毒気の抜けた表情。
奥さんの視線の先には、ぬいぐるみを抱いて佇む少女の姿が。
「おかあさん……」
「めぐみ……」
母娘は涙を流してお互いを抱きしめ合った。
部屋の空気が一瞬にして変わる。
ぎこちなかった母娘の表情も、いまではまばゆいくらいに輝いて。
「奥さん。お母さまもまた後悔していらっしゃったんです。あなたには自分のしてきた苦労をさせたくなかったから、どうしても口うるさくなってしまったと」
「そんな……おかあさん、どうして言ってくれなかったの……」
丹沢は式神を耳のそばへと近づけると、大袈裟にうんうんと頷く。
そして満面の笑みを浮かべて。
「意地を張ってしまったんですって。あなたが娘さんに素直になれなかったのと同じだと」
「おかあさん、おばあちゃんにそっくり」
「ふふふ、ほんとね……」
こうして、しゃべるぬいぐるみの家に平穏が訪れた。
丹沢は一通り清めの礼法を家中に施すと、母娘に別れを告げたのだった。
玄関を出ると、箒を持ったお婆さんがまだ落ち葉を掃いていた。
強い風に何度も何度も推し戻されてくる葉っぱを、根気よく集めている。
丹沢はそんな彼女に近づくと、一際いい笑顔を見せて。
「ちゃんと伝えておきましたからね」
そう言うと、お婆さんはやっと顔を上げて目を細めた。
強い風にかき消されて聞こえにくいが、しわくちゃの口元が「ありがとう」と動く。そしてゆっくりと姿が透明になっていった。
明くる日のニュースを見ると、その日の強風はやっぱり春一番だったらしい。
それからというもの丹沢は、毎年この季節になると、あのお婆さんの幸せそうな顔を思い出すという。
(おしまい)
陰陽師・丹沢恭介 真野てん @heberex
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