タクシー

那智 風太郎

T A X I

 居酒屋とカラオケを梯子して、ラーメンで締めて、駅前で同僚と別れてタクシーに乗ると運転手がパンダだった。


「お客さん、どこまで」


「えっと……」


 着ぐるみか。

 でも、なんで。

 タクシー会社のキャンペーンかなにかだろうか。


 酔った頭でひとしきりこの状況を考察してみたが納得できる結論は出てこない。

 そんなに飲んだつもりもなかったが、もしや幻覚だろうかと目を瞬いているとパンダがもう一度目的地を聞いた。


「あ、うん、じゃあ……」


 戸惑いつつも行き先を告げるとタクシーはゆっくりと走り出す。


「お客さん、今夜は送別会?」


「え、あ、まあ、そんなところっす……はい」


「寂しい季節ですねえ、三月ってのは」


 赤信号に速度を緩めながらパンダは意味ありげに鼻を啜った。


 とりあえず運転技術に問題はなさそうなので、俺は肩の力を抜いてなんとなく話を合わせてみる。


「そっすね。今夜は同期の栄転祝いってことだったんすけどね。課長に昇進、でも転勤先は四国ってこれ実質左遷でしょ。そいつは空元気でアニソンとか歌ってたけど、もうなんか気の毒で目も合わせづらくて」


「分かるなあ。実は私もね、若い時分に同じような目に遭いましたから」


「え、パン……、いや運転手さんも。タクシー会社って転勤とかあるんすね」


 パンダは車を発進させながら、その毛深くて寸胴な左手をゆらゆらと振った。


「いやいや、前職の頃の話」


「ああ、転職したんすか」


「リストラです。まだ三十半ばで子供も小さいっていうのに困りましたよ」


「はあ、そりゃまたお気の毒な」


 大通りを進んでいたタクシーはそこで右手にウインカーを出した。

 カッチ、カッチという音に俺は首を傾げる。


「あの、自分はもうちょっと先なんすけど」


「裏道です。こっちの方が信号が少ないんで」


「ふうん」


 タクシーは見慣れない住宅街に入り、細めの道を結構な速度で飛ばしていく。

 深夜とはいえ、脇道からふらりと人が飛び出してこないとも限らない。

 緊張で少しばかり下腹に力が入った。


「でもねえ、本当はんですよね、私」


「え、なんの話」


 そのスピードに気もそぞろのまま、なんとなく聞き返す。


「だからリストラ。不景気で左前になった会社は苦肉の策として早期退職者を募ったんですね。まあ、任意なんですが、やっぱりそこは暗黙の了解ってのがありまして、売上成績最下位の者が辞めるってことで」


 よくある話だとは思ったが、車窓をすっ飛んでいく街路灯に恐怖さえ覚えて相槌を打つこともままならない。


「私は営業マンだったんですが、成績はそこそこだったんですよ。少なくとも最下位なんてことはなかった。だから安心してたんですがね」


 その言葉が終わるや否や、タクシーがそこで急ブレーキをかけた。


「ヒッ」


 タイヤが路面を擦る音が金切り声のように響いて、俺の小さな悲鳴を掻き消す。

 そして後部シートから引き剥がされた俺はつんのめって運転席の防犯用アクリル板に頬を押し付けることになった。


 車は止まった。

 衝突音もなかった。

 瞬間、パンダの体臭が匂った。

 着ぐるみのはずなのにどこか獣臭い。

 ふと料金メーターに視線を流すとそれなりに走ったはずなのにまだ初乗り料金だった。

 なにかおかしい。

 俺はおののきながら訊く。


「ど、どうしたんすか」


「猫ですよ。安心してください。轢いちゃいませんから」


 フロントガラスに目をやるとヘッドライトに照らされた黒猫が毛を逆立ててこっちを睨んでいた。

 大きく息を吐いた俺は座席に腰を戻しながら苦情を口にする。


「き、気をつけてくださいよ」


「ええ、すみません。どうも気がはやってしまって」


「え……」


 不自然な言葉に運転席に目を遣るとまん丸いパンダの肩が小刻みに揺れて見えた。

 そしてタクシーはゆっくりと走り出す。


「まあ、こちらにも全く非がなかったとは言えません。私は根っからの家庭人でして、残業もアフターファイブの付き合いもせず、定時に帰るのが常でしたからね。今ではそういうのも当たり前なのかもしれませんが、その当時は私みたいなのはいわゆる希少種でして、同僚や上司から付き合いの悪い奴とうとんじられていたんですよ」


 言葉遣いは丁寧なのにその声はどこか胡乱うろんげでそれが徐々に高まっていくエンジン音と重なりそこはかとなく不穏な空気を醸し出す。


「ある朝、会社に行くとね、部長が苦虫を噛み潰したような顔をして専務室に行けって言うんですよ。まあ、なにか良くないことだってのは想像が付きましたけど心当たりはない。で、言われた通りに行ってみるとそこに課長と同僚の一人が先に来ていました」


 タクシーは再びかなりのスピードを出し、車幅とたいして変わらない路地を進んでいく。また時折、直角のコーナーを勢いよく曲がり、その度に俺の体は左右に大きく揺さぶられた。そして次第にかさを増していく恐怖と相まって俺は気分が悪くなってきた。


「あ、あの、もう少しゆっくり……」


「でね、開口一番、専務が私を指差して叫ぶんです。キミ、なんて事してくれたんだってね」


 サイドミラーに何かが擦ったような音がした。

 パンダの口調に少し熱が帯びて早口になる。


「それはひと月ほど前に私が取ってきた大口の契約に関する事でした。

 聞くとその見積もり金額に大きな虚偽があったというのです。

 首を傾げると専務は私の前に二枚の契約書を並べました。

 その一枚は相手企業に出した物。

 もうひとつは自社に保管していた写しでした。

 両社の実印も割り印も合っている。

 けれど記載された金額には私のサラリー三年分に相当するほどの開きがありました。どうしてそんなことになっているのか私にはさっぱり分からない。

 身に覚えのないことです。

 私は真面目が信条でしてね。

 ひたすら何度も相手企業に赴いて、いわばその熱意と真摯さだけで取った契約でした。虚偽なんて絶対にない。ましてや詐欺だなんてそんな器用なことが私にできるはずもない。

 そう反論しました。

 でもね、彼らはそんな弁明なんか聞いてもくれなかった。

 そして声高に何度も叫ぶのです。

『貴様はこれをくすねようとしたのだろう。正直に言え。さもないと警察沙汰にするぞ』

 そう恫喝したのです」


「ちょ、ちょっと止めて……」


 青ざめた俺は今にも吐瀉物が迫り上がってくる口もとを押さえて懇願した。

 けれどタクシーは止まらない。それどころかさらにスピードを上げていく。

 そしてパンダはひとつ細く長い息を吐き、なにか諦めたような口調で話を継いだ。


「結局ね、辞めることになりましたよ。

 嵌められたことは明白でしたが証拠がなかった。

 彼らは用意周到にその準備をしていたんです。

 味方のいない私に勝ち目はありませんでした」


 頭の中が痺れたようになって、俺はとうとう座席ポケットのエチケット袋を摘み出し吐き戻した。

 饐えた匂いが車内に広がった。

 けれどパンダは一向に気にする様子もなく淡々と身に起こった悲劇を語っていく。


「早期退職ではなく依願退職という形になりました。

 だから退職金だって雀の涙ほどしかもらえなかった。

 家のローンはまだ何十年も残っているし、当時はいわゆる就職氷河期で資格もなにも持っていない私に勤め口なんてあるはずもない。

 とりあえず家を売りました。

 家財道具も金になるものは全部手放しました。

 実家を頼ろうとしましたが無理でした。

 路頭に迷うというのはこういうことかと実感しました。

 妻と五歳の娘と三人で安アパートに移り住み、妻はパートに出て、私はひたすら職探しに奔走しました」


 いつのまにかタクシーは住宅街を抜け、街灯もない山道に入り込んでいた。

 弱々しい声でせめて窓を開けて欲しいと頼んだが、聞き入れられなかった。

 だから俺は仕方なく後部座席に横たわり、車窓に見える暗闇の流れを見上げていた。


「ある日ね、ハローワークからの帰り道、立ち寄ったスーパーで娘にせがまれたんですよ。

 ほら店頭によくあるでしょう、クレーンゲーム。

 その景品のパンダのぬいぐるみが欲しいっていうんです。

 もちろんそんなものにお金を使う余裕なんてない。

 だからポケットをまさぐってお金がない素振りを娘に見せようとしたら、なぜか百円玉が一枚入っていたんです。

 迷いました。

 百円あれば三パック入りの納豆が買える。

 安売りの野菜だって買える。

 ペットボトルの水も買える。

 でも普段はわがままなんてほとんど言わない娘がその時に限ってクレーンゲームにしがみついてせがむんですよ。

 私は仕方なく、百円を投入しました。

 そしてそばで娘が食い入るように見つめる中、レバーを動かしてあの頼りないアームでパンダをつかみました。

 一瞬、持ち上がったように見えたんですけどね。

 やはりダメでした。

 ああいうのはそう簡単に取れないようになっているのでしょう。

 娘はもう一回と何度もせがみましたが、さすがにそれには応えてやれませんでした。

 でも手を引いて帰ろうとするとね、泣きじゃくるんですよ。

 人目を憚らずにわんわん泣いて帰ろうとしないんです。

 ほとほと困り果てた私はついに怒鳴ってしまいました。

 いい加減にしろってね。

 うちにはお金がない。

 だからぬいぐるみなんていらないんだって。

 そう言ってしまったんですよ、私」


 そこでパンダは口を噤んだ。

 その沈黙には濃度の高い悔恨の気配が漂っていた。

 流れていく闇にチラチラと白いものが覗く。

 それは樹々の梢枝の隙間に垣間見える月だった。

 俺にはもうわめくどころかしゃべる気力さえ残っていなかった。

 片手に吐物が入ったエチケット袋をつかみ、後部座席に横たわってただ一定のリズムで呼吸を繰り返しているしかなかった。


「その晩、夢を見ました」


 ふたたび切り出したパンダの声色にどこか吹っ切れたような印象が混じった。


「失敗したクレーンゲームの夢でした。

 私のポケットには数え切れないほどの百円玉が詰め込まれていて、私は惜しげもなくそのお金をゲームに注ぎ込んでいくんです。

 そして何度も何度も挑戦して、何度も何度も失敗します。

 扁平で呑気な顔をしたパンダをなんとか摘み上げたと思ってもアームが移動していくうちにするりと滑り落ちるんです。

 私はその度に絶望し、うめき、汚い雑言を放ち、そして怒りに任せてクレーンゲームのアクリル板に拳を打ち付けました。

 それを繰り返しているうちにとうとうポケットの百円玉が残り一枚になりました。

 私は震える指先でそれを機械に投入しました。そして慎重に慎重を重ねてレバーを操作し、意を決してアーム降下のボタンを押しました。

 するとどうでしょう。

 アームはこれ以上ないほど的確な位置でパンダをつかんだんです。

 成功したという感触がありました。

 アームの先端はパンダの首に巻かれたスカーフのようなものにしっかりと食い込んでいました。

 もう間違いない。

 これでパンダを娘に与えてやれる。

 ぬいぐるみをたずさえたアームが左隅の穴に向かう時間がものすごく長く感じられました。

 そしてついにその時がやってきたのです。

 アームが大袈裟に揺れて止まり、続いてパンダのぬいぐるみが離れました。

 穴に消えていくパンダの残像が目に映りました。

 私は安堵のため息を大きく吐き出し、それから屈んで景品取り出し口に手を差し入れました」


 タクシーは徐々に速度を落とし始めたようだった。

 それと同調するようにパンダの声も沈んでいく。


「でもね、なかったんです」


 低く、乾いた声だった。


「確実に取れたはずのぬいぐるみがそこになかったんです。

 それどころか取り出し口さえなくなっていて、私が手を押し込もうとしていた場所はいつのまにかタイヤのホイールに変わっていました。

 そして顔を上げるとクレーンゲームだと思っていたものはなんと一台のタクシーになっていました」


 車が止まった。

 そして音がして運転席のドアが開くのが視界の隅に見えた。

 同時にヒヤリとした外の空気が流れ込んできて俺の頬をかすめた。

 室内灯が点いて車内をオレンジ色に染める。

 パンダは運転席に座ったまま、そっとため息をついた。


「いったいどうなってしまったというのでしょうかね。

 それ以来、私、ずっとこうやってタクシーの運転手をしているんですよ。

 そして乗せるお客さんはみんな私のことをパンダだっていうんです。

 ねえ、あなたにもそう見えてるんでしょう」


 パンダが振り返って横たわる俺を見つめた。

 ゆるく垂れた模様の真ん中にある無生物的な黒い瞳に俺は力なくうなずいた。

 すると彼は小刻みに肩を揺らして笑った。


「まったくおかしな夢です。いつまで経っても覚めないんですから。

 現実の私はどうなってしまったのでしょうか。

 今頃、娘は、妻はどうしているのでしょうか。

 それとも永遠のように長いこの夢も目が覚めれば、いつもと変わらない安アパートの朝を迎えているだけなんでしょうか」


 分かるわけがない。

 俺は首を横にゆるゆると振る。

 今はまだ体に力が入らないから、極力おとなしくして話を聞いておくほかはないだろう。

 けれどもう少し具合が良くなったら一刻も早くこのタクシーから逃げ出そう。

 このヤバい奴になにかとんでもないことをされる前に。


 次第にはっきりし始めた頭で俺は冷静に思考する。


「でもね、お客さん。こんなくだらない夢の中とはいえ、どうやら私にはあるひとつの使命が与えられているようなんですよ。なんだか分かります?」


 俺はまた寝転がったまま首を振る。


「いや、分かるはずなんですよ。だってあなた、同僚の人を嵌めたじゃないですか」


「え……」


 動揺で背筋がこわばった。


 な、なにをこいつは。


「知ってますよ。お客さん、あなた左遷されるその同期の社員さんのシステムにバグを仕込んだでしょう。それで膨大な個人情報が流出して彼はその責任を取らされることになったんですよね」


 俺は思わず目をみはった。


 なぜ。

 どうして。

 誰にもバレていなかったはずなのに、どうしてこいつが。


 するとパンダは声にならないその驚愕を汲み取ったように肩をすくめた。


「さあ、私にも分かりません。おかしなものです。けれどそういう人にしかこのタクシーには乗せられないみたいなんです。そしてその人が車内に乗り込んだ瞬間、悪事の詳細が目に浮かぶんですよ」


 パンダはその大きな体を運転席から外に捻り出した。

 そして後部座席のドアを開け、俺の両足首をつかんだ。


「や、やめろ」


「たぶん私、恨んでいるんでしょうね。

 現実世界で自分を罠に嵌めた彼らを。

 だからそういうやからに罰を与えたいんだと思います。

 そしてこの夢の中ではどうやらそれが私に課せられた使命のようなんですよ。

 その証拠にね、罰を与えた後は少しだけ娘を思い出せるんです。

 パンダのぬいぐるみを胸に抱きしめる娘の姿をね。

 これってちょっとしたご褒美だと思いませんか」


 俺は凄まじい力でタクシーから引き摺り出され、無造作に地面に放り出された。

 同時に後頭部に激痛が走った。

 顔をしかめて手を遣ると生温かい液体がねっとりと触れた。


「た、助けてくれ。なんでもする。だから……」


 うめきながら起きあがろうとするとパンダの太い足が無情にも俺の胸を踏みつける。


「そう言われても夢ですからね。別にして欲しいことなんてないんです。ただ私は娘の喜ぶ姿が見たいだけですので」


 パンダが振り上げた右手に包丁が、そしてその後ろに大きな満月が見えた。


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