『それ』と『彼女』と彼女の話

稲荷竜

第1話

 三歳のころの彼女はまだ世の中に不幸があることを知らなかった。


 ずっとずっと連れ回されてボロボロになったそれは彼女の一番の宝物だ。


『大好きなお父さんとお母さんにもらったから』だなんて来歴を思うまでもなく、その愛らしい造形とふわふわした感触は、彼女の大のお気に入りだった。



 五歳のころの彼女は少しだけ世の中の不幸を知っていた。


 いとこのお兄さんが亡くなった。まだ『死』をうまく理解していなかったが、鎮痛な顔をしている親戚の様子がなんだか悲しくて彼女はたくさん泣いた。


 それが彼女の様子を知っていたのは、子供には退屈すぎる時間があまりにも多すぎたから、彼女を大人しくさせておくための遊び相手として親が持たせてくれたのだ。


 これを機に洗濯の憂き目にあったことが、それにとっては不幸だったのかもしれない。

 ぐるぐる回る水の中から見える外の景色に、もみくちゃにされたそれは何を思ったのか。



 彼女が六歳のころ、それはすっかり連れ回されることがなくなっていた。


 部屋にある衣装棚の上に置かれたそれは、彼女が大きなランドセルを背負って戻って来た時に、「おかえり」と思った。

 けれどそれはしゃべることも動くこともできない。

 最初のころ、彼女はそれに「ただいま」と告げていた。

 しかし時が経って彼女の歯が生え変わり始めるころ、それは見向きもされなくなった。

 悲しみはなかった。それは悲しみも喜びもよくわからない。



 見向きもされなくなった。

 それの上には、ホコリが積もっていって、もう、触れられることもない。



 ずいぶん時間が経っていたけれど、それに時間感覚はなかった。


 ただ、久々にそれに触れた彼女の手はずいぶん大きくなっていて、ホコリを払う力はとっても強くなっていた。


 彼女はもはや子供とは呼べなかった。けれど大人と呼ぶのも少し違うように思われた。


 彼女はそれに悩みを吐き出した。すがるように抱きしめた。

 それは答える言葉を持たなかった。ただ、悲しまないでほしいとだけ願った。


 願いが通じたわけではないかもしれないが、彼女は泣き止んだ。

 それは喜びという気持ちを知った。



 また、時間が経った。


 彼女はもう大人と呼べるほど大きくなっていて、部屋は幾度かの模様替えを経て様変わりを続けていた。


 彼女は今、段ボールに荷物を詰め込んでいる。


 ふと彼女の視線がそれを捉えて、しばらく思案するように左上を向いたあと、手が伸びてきた。


 ホコリを払われたそれは、段ボールの一番上に詰め込まれた。


 暗闇。

 振動。


 次にそれが明るい場所に出された時、見慣れた彼女の部屋ではなかった。

 けれど、彼女はそこにいた。

 だからそれは、寂しくない。



 次にそれに触れた手は、ずいぶんと小さいものだった。


 それは無遠慮に自分を触ってくる小さな手に不思議な感覚を覚える。なんだか古い記憶を呼び起こされるような、そういう心地があったのだ。


 持ち上げられたそれは、昔の彼女とよく似た、小さい女の子と対面することになった。


 それは、新しい役割を得たのだと理解した。


 ……そうしてまた、洗濯される。

 それはぐるぐる回る水の中から、透明なフタの向こうの景色を見ている。


 幼い女の子が、べったりとフタに手と顔をついて、それを見て笑っていた。

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『それ』と『彼女』と彼女の話 稲荷竜 @Ryu_Inari

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