やがて男はペンを執る

藤咲 沙久

過去、或いは未来

 ふ、と顔を上げた。それは珍しいことだった。

「こんな時間に……本屋……?」

 シャッターというシャッターが降りた、どこも営業時間を終え寝静まった商店街。出社は早く退社は遅く、休日は死んだように眠るので、賑わう様を見たことはほとんど無い。いつもひっそりとした中、古びた床タイルだけを眺めながら歩くだけだった。

 疲労感と眠気は視野を狭くする。会社のPCと足元のみに焦点が当たる。上司の顔や食事はどこかボヤけていて、信号機や踏切りも輪郭が曖昧で、気がついたら本当に死んでたなんてことさえあるかもしれなかった。

 本屋の存在を認識したのも、実は足元からだった。最低限の照明しかないアーケード下、ペンキでも溢したかというほどの煌々としたオレンジ色が地面に伸びている。こんな光は今までなかった。そして不思議と引かれるように顔を上げた。

(なんだ、なに、書店だ……? 目が霞んで読めない)

 恐らく眼精疲労のせいだけではない、所々文字が欠けた年代物の看板だ。平積み用の棚に挟まれた小さな引戸は開け放されており、そこから明かりが漏れだしていた。疲れ目に眩しい店内はよく見えない。ただ外観はいわゆる古書店といった構えで、とても新しい店舗などと思えなかった。

 本は好きだった。紙をめくる動作すら愛おしかった。子供の頃、近所にあった本屋にどれほど通ったことか。今では業務マニュアルとプレゼン資料ばかり読み込み、あれほど大事にしていた多くの文庫も生活費の足しへと古本屋に売り渡した。思い出の書籍たちは、たいした金額にもならなかった。

「……もう、本なんて買う余裕もない。今晩の飯代すら怪しいんだ」

 わざわざ呟いたのは自分に言い聞かせるためだ。それほど自分の心がこの書店に惹かれているのがわかったから。本屋なんて駅前にも、通勤経路にもあるというのに、なぜだか妙に吸い寄せられる気がしたのだ。

 吸い寄せられる、ということ自体は以前にも経験がある。右側から大型車両が走ってきた時だった。道路に向かって鼻先から頬、額、唇、そういうパーツひとつひとつがにゅうっと引っ張られ、置いていかれないようにと頭や身体がついていく。そのままふらりと足が一歩前に出てから、急に冷静になると慌てて身を引いた。もしあの時我に返っていなければ、運転手と通行人たちに多大なる迷惑を掛けながら死んでいたかもしれない。

 引き寄せられ方としは前回とも似ていた。しかし悪い気がまったくしない。むしろ心地よく、このまま身を委ねても大丈夫という不思議な安心感すらあった。──これはこれで、死ぬ予兆の可能性もあるが。

 恐る恐る、踏み出す。オレンジ色が強さを増す。その光に溶け込む感覚を覚えながら、くたびれたスーツの脚を店内に差し込んだ。


 ◆


 徐々に視界が馴染み安定してくる。外から想像するよりも狭い印象があり、書棚はどれも子供向けのように背が低かった。入り口から最も離れた位置にあるレジカウンター内で、爺さんとも婆さんともわからない小さな老人が船を漕いでいるのが見える。随分無防備なものだ。

(セキュリティは大丈夫なのか、この店)

 来店を知らせる音も鳴らず、万引き防止のセンサーも見当たらない。田舎にあるような昔ながらの店だ。盗まれても気づかんのではと要らぬ心配にそわつきながら、改めて目の前の書棚へ意識を遣った。

 左から文庫本、コミックス、新書、新書、絵本、コミックス、三冊雑誌が続いたかと思えばまた文庫本。出版社も、種類も、サイズも、バラバラとまとまりがない。あまりの乱雑な並べ方に困惑するうち、一際分厚い背表紙が目に留まった。

「……親父の本だ」

 もちろんそのものというわけではない。だがつい、そんな言葉が口をついた。赤と金の豪華な装飾を施された外国の童話集だ。親父が大事そうに本棚から持ってきては、文字を追うことも出来ない時分から何度も読み聞かせてくれたのを覚えている。膝の上はいつだって温かかった。

 殊更気に入っていたのは、溶かしたスプーンで作られた兵隊の話だ。決して楽しい内容ではないが、彼の想いが遂げられる場面では暖炉の火のように胸が熱くなったものだ。

 そう、そうだ。自分はこの一冊から“本”というものに出会ったのだ。己を形成する原点。今でも親父の部屋に仕舞われているのだろうか。すっかりしわくちゃになった太い指が触れることは、あるのだろうか。

(そういやもう、ずっと連絡もしてないな)

 結婚の催促をされなくなって久しい。声も長いこと聞けていなかった。迫る郷愁で瞳がわずかに潤む。ただ、最近はずっと乾きっぱなしだったものだから、通常に戻ったとも言えた。

 それから瞬きを繰り返すたび、様々なタイトルが飛び込んできた。綺麗な写真集のようで大好きだった植物図鑑。図書委員特権で読み耽った児童書シリーズ。そして、ああ、ああ。心が震える。本に関わって生きることを決めた、思い出深い小説までが置いてあるではないか。

 勿忘草をめぐる、切なくも優しい物語が脳内を駆け巡る。魔法に満ちた恋と友情は涙なくして読めなかった。どんな人がどんな風に、ここまで情感溢れるストーリーを書くのかと思ったほどだ。

 残念ながら自分には文才がない。ゆえに書き手でなく作り手という職に就くのが限界だったが、作家になれればいいのにと本気で考えただけの衝撃を得た作品だった。人生に感動を与えた小説。泣く泣く手放し、いつしか存在も忘れてしまっていた、大切な小説。

 ごくり、唾を飲み込んだ。何かを欲しいと感じるのは、歩きながら顔を上げることよりも珍しかった。それが一度売却したものだというのがなんとも滑稽である。

「今晩の飯代すら、怪しいんだぞ」

 二度目の呟きだった。昼休み頃の記憶が正しければ、財布の中に紙幣など入っていない。馬鹿なことをするな、我慢は得意だ、耐えろ────

「それが気に入ったのかい」

 肩が派手に跳ねた。誰かと思えば、先ほどまで居眠りをしていた店主だ。声を聞いても、やはり性別はわかりかねた。

「や、はあ、まあ……」

「良ければね、その隣が俺のおすすめだよ」

 爺さんだったか、などと考えながら言われた通り隣の本を見遣る。著者名の上を視線が滑り、慌ててもう一度確認した。吉川信雄。自分と同姓同名だった。そんな小説家いただろうか。

「それね、俺が書いた本でね。数冊しか出せなかったが、これでもそこそこ売れたんだよ。知ってるかい」

「はあ、いや、……存じ上げず申し訳ない。これをご主人が? 作家さんなんですか」

「若い頃の夢を諦めきれんでね。年を取ってから筆を取ったのよ。まあ趣味に毛が生えたようなもんさ。俺としては自信作だがね。あんたには読んでもらいたいなぁ」

「はあ……でも、ちょっと所持金が」

 まごつきながら答えると、なぜか店主は顔一杯に笑った。馬鹿にしているのでなく、慈しむような表情だと感じられた。

「今のあんたには無理でも、いつか読んでやってくれ。なに、大丈夫さ。そんなに遠い先じゃないのだから」

 店主が何を言っているのか、段々とわからなくなってきたように思う。そもそもが可笑しな店なのだ。書店なのに真夜中まで開いているなんて。それに加えて自分の過去に添うような品揃えときた。もしかしてここはあの世の入り口か何かか、とぼんやり考えた。

「……今時の走馬灯は店舗形式なんですか」

「走馬灯? はっは、そりゃまた面白いことを言う。あんた、まだしっかり生きてるだろ」

「生きてるんですか。てっきり、知らないうちに自分から死んだものかと」

 店主がまた笑う。優しさを孕んだ低音は、すべてを見透かしているかのようだった。彼はどんな話を書くのだろう。じわりと興味が沸いた。

「まあ、なんだ。俺に言わせればな、欲しい本がある奴はまだ、生きる気があるってもんよ」

「欲しい本……」

 手元を見下ろした。右手には思い出の小説。左手には店主の小説。自分には欲しい本が、ある。ついさっきまで忘れていた感情だ。それはいつの間にかどこかへ追いやられていた情熱だった。

「ご主人。今は……今は、無理ですが。今度必ず買いに来ます。ちょっと食費を削れば、なんとか」

「はっは、削らなくても良くなったら買ってくれ。あんたが倒れちゃ本も読めない。そうだろ? まずはそこからさ」

 今夜はよく休みな。店主はそう言ってもう帰るよう促してきた。確かに時計の針は天辺を越そうとしており、これ以上長居するわけにもいかなかった。名残惜しい気持ちで「また来ます」と深く礼をして、そっとオレンジ色を後にした。

(よく休みな、か……)

 踵のすり減った靴を鳴らして歩く。疲労感は相変わらずなものの、心なしか音が軽い。久々に有休でもとってみようか。さすがに明日というのは無理があるので、その次なんてどうだろう。上司がいい顔をしないのはわかっている。だけど今なら言い出せる気がした。

 身体を休めよう。心地好く眠ろう。そうして頭が冴えれば、また何か新しい発見が出来るのかもしれないと思えた。

 いつもより視線がやや高い。足元以外が見える。なんだかそれが嬉しくて本屋を振り返ってみたが、そこにはもうオレンジ色の光は伸びていなかった。まるで深夜の書店など最初からなかったかのように寝静まる商店街が、いつも通りにひっそりと続いているだけだった。

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やがて男はペンを執る 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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