本棚の角を曲がれば
月見 夕
神は赤本を与えてはくれない
高校時代の話だ。
私は人の話に聞き耳を立てるのが好きだった。決して会話には参加せず、あたかも手元の英単語帳に集中しているかのような澄まし顔で、青春の真っ只中にいる彼・彼女らの話に耳をそばだてるのが日課と言っても良いくらいだった。
その日の昼休みも隣の席でクラスの男子が話をしているのを、黙って聞いていた。
「でさ、駅の本屋……神が出るらしいよ」
「何やそれ」
何それ。思わず話を吹っ掛けられた彼もそばの私も聞き返してしまう。小説の書き出しだとしたら割と高得点ではなかろうか。
それにしても妙だ。神が「いる」のではなく「出る」とな。まるで幽霊かモンスターに遭遇したかのような物言いだ。
集中して聞こうと、思わず耳がダンボになる。
「ザビエルいんじゃん」
「あーキリスト教広めた奴な」
「あいつに髭が激似らしいよ」
そりゃ神じゃなくて宣教師やろ。
私は机に肘をつく格好だったのだが、自然に見えるように掌で口元を覆った。危ない。ちょっとニヤニヤしてしまった。こういう可愛い勘違いが聞けてしまうのが盗み聞きの楽しいところだ。
「神、制服着た奴に話しかけてくるらしい」
「日本語?」
「めっちゃ日本語。で、何か問題出してくるんだって」
それはただの巻き込まれ事案じゃなかろうか。ザビエル髭の男が中高生に声掛けするという、全国探せばまあそういう事もあるだろう瑣末な出来事だ。
そこまで考えた所でチャイムが鳴った。
帰り道、私の足は最寄り駅の本屋に向かっていた。
神とやらに会いに行った訳ではない。ただ志望校の赤本が欲しかったのだ。
高校最後の夏が迫り、授業も終盤に差し掛かりつつある。来年の今頃に大学生だと名乗るためにも、私にはあの本が必要だ。
自動ドアを潜り、真っ直ぐに学参書コーナーへ。背の高い本棚の角を曲がれば、目当ての赤い背表紙はすぐそこにあるはずだ。
「すみまセン」
突如横から声を掛けられた。それは少し高い男性の声だった。反射的に振り向くと、そこには浅黒い肌の男が立っていた。
「すみまセン。オネサン、
彫りの深い目元に、うらぶれていない澄んだ瞳。そして――鼻下から顎にかけて繋がる、特徴的なザビエル髭。
間違いなく、私の目の前に神が出た。
「学生……ですね」
正直者の私は偽りなく答えた。はぐらかそうにも、今はブレザーにローファー姿。気合いの入ったコスプレだと伝える方が勇気が要る。
「そでスカ。良かっタ良かっタ」
何が良かったのかは分からないが、神はそう言って頷いた。
「私、ネパールから来タ。
神はネパール人だった。
それよりも私は、ネパールって言うよりネイティブはネポァールって言うんだ、とか目めっちゃ綺麗だな、とかどうでもいい事を考えていた。唐突な神の自己紹介に、出方を伺っていたのもあると思う。
神は人差し指を立て、自分を指す。
「私、貴方にネパール語教えマス。貴方、私に日本語教えマス。これでwin-win」
何やら厄介な提案がなされた。本屋の中心で突如として始まるネパール語教室。フリースタイルラップバトルに巻き込まれたかのような緊張が走る。
誰か助けてくれと神の背後の通路を見るも、他の客は見向きもしていなかった。残念ながら、神は私にしか見えていないようだ。
「ネパールではおはヨウ、こにちワ、こばンワ、全部ひとつ。ノムスカー……はイ」
何の了承もしていないのに最初の一単語が投げ掛けられる。
「リピートアフターミー。ノムスカー」
私が何も答えないでいると、神は急かすように反復を求めた。神はせっかちだった。
「ノ、ノムスカー……」
「もチョット大きな声」
「ノムスカー……!」
なぜ私は今本棚に囲まれ、ネパールの皆さんに向け挨拶の練習をしているのか全く分からなかった。カオス。
しかし神は混沌の空気をものともしない。
「はイ、貴方も言ってくだサイ。日本語」
「拒否権ない感じですか!?」
「ンン、早イ。も一回」
神は私の発する言葉は全て吸収する気でいるようだ。恐ろしいまでの知識欲。
こんなの覚えたところで、ブラック企業で上司から理不尽な要求を食らった時くらいでしか役に立ちそうにない。
どうしよう。物凄く帰りたい。
「バスの時間あるので……ソーリー!」
そう言って踵を返し、逃げるようにその場を後にした。私は神に背いてしまった。私には勇気がなかった。民草の代表として神に相対する勇気が。
英語ですら赤点スレスレの私に、第二言語は荷が重い。
結局赤本は買えなかった。
しばらくその本屋には顔を出していないが、あの本棚の角を曲がれば今も学参書コーナーの前で神が待っている気がしてならない。
本棚の角を曲がれば 月見 夕 @tsukimi0518
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