少年と、とある本屋の話

月代零

本が居場所をくれたから。

 家にいたくない。


 そう思った時、足が向くのは図書館だった。お金のない小学校低学年の子どもが、一人で行って時間を潰していても咎められない場所など、それくらいしか思いつかなかった。一緒に遊ぶ友達はそれなりにいたが、相手の家に長時間居座るわけにもいかないし、自分の家にいたくなくて来ているということを悟られたくはなかった。

 だから、自然と足は図書館に向くのだった。静かな場所で、文字に囲まれていると、荒れた心が凪いでいった。暗くなるまで図書館に籠って、目についた本を片っ端から読んでいた。


 気に入った本は何度も借りて、ほとんど暗唱できるくらい読み込んだ。そのうち、どうしても手元に置いておきたい本ができて、本屋で買うということを覚えた。

 少ない小遣いを握りしめて、近所の本屋に向かう。その本屋は、都会の駅ビルに入っているような大型書店ではなく、老夫婦が経営している、街の本屋さん、という感じのこぢんまりした店だった。商店街と言っていいのだろうか、店と住宅が混在している通りの一角に、その店はあった。

 店内は少し薄暗くて、古めかしい木の床が、歩く度にぎしぎし音を立てた。売り場もさして広くはなく、子供向けの本のコーナーも、在庫は限られたものだった。絵本と、ロングセラー的な国内外の児童文学と、児童文庫のレーベルが少し。


 棚の端から端まで目を凝らして見ても、そこに彼の求めるものはなかった。本屋の棚に必ずしもほしい本が並んでいるわけではないこと、絶版になって手に入らない本もあることなど、その頃の彼は知らなかった。

 困った顔で売り場の前に佇んでいると、棚の整理をしていた店主のおじいさんが声をかけてきた。


「探し物かい?」


 少しどぎまぎしつつ、求めていた本のタイトルを伝えると、棚と、その下の在庫を保管している大きな引き出しの中も確かめて、

「うちには置いてないなあ。注文するかい?」

 よくわからないけれど、その本が手に入るならと、首を縦に振る。お金なら足りるはずだ。

 おじいさんはレジカウンターの中に戻って、電話を取った。

 何やら話して受話器を置くと、彼のところに戻って来る。


「一週間くらいしたら入荷するから、その頃また来てくれるかい?」


 彼は頷いて、店を後にした。

 一週間後、再び店を訪れた彼を認めると、おじいさんは、


「待っていたよ」


 と、真新しい本を差し出した。

 図書館で借りていたのとは違う、表紙がぴかぴかで、中の紙も真っ白な本が自分のものになった時の喜びは、今でも忘れられない。


 それから彼は時々、その本屋で本を買い、在庫がなければ取り寄せを頼むようになった。家に帰りたくなくて、買った本を店の軒下で読んでいると、おばあさんが手招きして、椅子を出してカウンターの横に座らせてくれた。何も詮索されないし、さっさと帰れとも言われず、場所を提供してくれたことが、ただただありがたかった。

 そのうち、彼が欲しいと思う本が、注文しなくても売り場に並ぶようになった。学年が上がるにつれて行動範囲が広くなり、読む本の好みが変わっても、本を買うのはその店だった。辞書や参考書も、ずっとそこで買っていた。親しげに会話をするようなことはなかったけれど、「今日はK文庫の新刊が入ってるぞ」とか、「今度あの作家の新作が出るぞ」とか、二言三言話すようになった。


 幼い頃の彼は、本がどうやって作られているか知らなかった。子どもなら無理からぬことだが、本は本として最初からそこにあるように思っていて、「作者」や「出版社」というものも理解できていなかった。

 だから、文章や絵を書く人、それを本の形にする人、印刷する人、それを流通させる人――たくさんの人が関わって、一冊の本が作られているということを理解するのは、もう少し先のことだった。

 自分も物語を書いていいのだと知り、書き始めるのも、もう少し未来の話だ。




 一年と数ヶ月振りに訪れた馴染みの本屋は、シャッターが閉まっていた。

 

〝長らくのご愛顧ありがとうございました〞


 そんな閉店の挨拶が、きれいな筆文字で書かれて貼ってある。どうやら、先月の末に閉店したようだった。久々に実家に帰省して、ふと思い立って寄ってみたら、この有様だった。


(そっかぁ……)


 悲しいような、寂しいような気持ちになる。

 すばるが子どもの頃から店をやっていたのだから、もう結構な歳だったのだろう。後を継ぐ人間がいなかったのかもしれないし、そうでなくても活字離れや出版不況が叫ばれ、大きな書店でも閉店のニュースが相次いでいる昨今だ。経営が苦しかったのかもしれないが、昴に知る術はない。


 自分が小説を書いて本を出したのだと、あの夫婦には気恥ずかしくて言えないままだった。

 伝えていたら自分のことのように喜んで、POPを書いて大々的に売り場を展開してくれていたかもしれない。「地元出身の作家!」とコピーを付けて。そんなことも想像するけれど、叶わぬ夢となってしまった。それどころか、大学受験の前から忙しくて、しばらく店に顔を出さないまま、この街を去ってしまったのだった。

 急に姿を見せなくなった常連の少年のことを、あの夫婦は少しくらい気にしてくれたりしただろうか。せめて、最後にきちんと挨拶をして行けばよかった。後悔ばかりが募る。

 生まれ育った家は息苦しくて、大学入学と共に逃げるようにこの街を出た。けれど、嫌な思い出ばかりだったわけではない。こうして受け入れてくれる場所が、多少なりともあったから。

 あの夫婦が今どうしているのかはわからないが、どこかで元気でいてくれますように。

 昴はそう祈りながら、無人となった建物に頭を下げる。

 少しの間そうして、顔を上げると、自分のことを気にかけてくれる人たちがいる場所へと帰るべく、駅へと向かった。



                                   了 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少年と、とある本屋の話 月代零 @ReiTsukishiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ