魔導古書店店主の偏愛と憂鬱

ヨシコ

魔導古書店 只今営業中

 大通りから外れた狭く暗い路地裏。やや歪んで傾いた二階建ての建物と、崩れかけた廃屋との間にある地下へと続く細く不安定な螺旋階段。

 その先にある何の印も飾りも、ドアノッカーさえない、分厚く頑丈なだけが取り柄の扉を開けた先に、その店はある。

 扉が開けば営業中。開かなければ休業中。そんな知る人ぞ知る店だ。


 明かりを採るための窓のない店内は、夜間も昼間も常に同じだけ薄暗い。

 天井から揺れる錆びついたオイルランプ。曇ったガラス越しの琥珀色の灯りだけが唯一の光源として狭苦しい店内を照らしている。


 小さなベッド三つ分程度の狭苦しい部屋でまず目を引くのは、左右の壁を埋め天井高くそびえる本棚である。その棚の上から下までをびっしりと、様々な魔導書が整然と埋めている。

 正面には接客用と思しきカウンター。その奥は明かりの届かない暗い影の中に在り、鍵付きの棚だけがぼんやりと見えていた。


 両脇にうず高く積まれた本の間で、カウンターに肘を付き退屈そうに一冊の本を眺めているその人物こそ、この魔導古書店の店主である。

 名は誰も知らず、その素性も性別すらも確かではない。


 青白く節くれだった長い指が、乾いてぼろぼろになった一頁を慎重とも粗雑とも取れる手付きで捲った。その長い爪は光沢のない黒一色。

 指と同じく青白いのその顔は、本来絶世の美貌を誇るほどのものではあるものの目の下の濃い隈と下がった口角、こけた頬が全てを台無しにしていた。一言でまとめればその相貌は「陰鬱」或いは「不吉」。

 癖一つなく真っ直ぐに伸びた白金の長い髪と、暗さのせいでその色さえ判別の付かない双眸を縁取る睫毛だけが、唯一不釣り合いに華やかと言える。


 店主が何の前触れもなく、その「陰鬱」或いは「不吉」な顔を開いていた本から上げた。

 そしてその視線の先の扉がみし……ぎぎぎ……、と音を立てた。


 扉を開き入って来たのは、中肉中背の一見した限りでは魔導士風の壮年の男。


 ところどころ擦り切れ着古したぼろぼろのローブ。手入れされ何度も修理跡のある長靴。最低限の体面を保つ、そんな出で立ち。

 落ち窪み血走った目で狭く暗い店内をぐるりと見渡した男は、背後の陰と同化しそうな店主に目を止めた。


「魔導書を、売って欲しい……ここでは特別なものも扱っていると、聞いた」


 男の目から見て、得体の知れないものと映ったのだろう。

 店主への警戒も露に、男は慎重に言葉を選んでカウンターへ、あと一歩の距離まで近付いた。


 言われた方の店主は実にゆったりと、その男をカウンター越しに見える腹の辺りから頭のてっぺんまでをゆるりとした視線で撫で嬲る。


「――特別な本を、ご所望で?」


 店主の声は、深いアルトの音色。女性にしてはやや低く、男性にしてはやや高く。囀るように囁いているのに、不思議と耳が聞き逃さないような、不思議な声をしていた。

 男は一瞬その声に聞き惚れたかのように呆けたが、一瞬で己が望みを思い出したらしい。


「そう、そうだ。特別な本が欲しい……金なら用意できる。普通には売っていない、特別な魔導書が欲しい」


「ええ、ございますとも」


「いくらだ。金ならいくらでも払う」


「ものによる、としか」


 店主はその口元を笑みの形へと変えた。


 うっそりと微笑むその相貌が、「陰鬱」或いは「不吉」からもっと危険なものへと変わった──とはいえそれは一瞬のこと。

 男が気付く間もなく、普段通り口角を下げた店主は白金の髪を揺らし音もなく立ち上がった。

 カウンター脇に設えられている跳ね上げ扉から出てきた店主が、男の前に立つ。

 中肉中背の男から見て、その顔は首を反らし見上げるぐらい高い位置にあった。 高い位置から見下ろされ、男が一歩、後退する。


「とはいえ、お客さま」


 首周りから手の甲、足元までを分厚く覆う真っ黒なローブによってその身体つきは伺えない。

 性別を窺い知れるような情報の一切を重いローブの下に隠した店主は、底の知れない威圧感を湛え、静かにそこに立っていた。


 怯えた様子を露に一歩後退した男の様子に、ほんの僅か店主は愉しげに目を眇める。


「どのような本であったとしても、インクの付着した紙の束に過ぎません。魔導書、読本、艶本、あるいはそれが禁書の類であったとしても同じこと。貨幣を対価とする原料代については当店よりのサービス、ということにさせていただいております」


 店主が発した「禁書」という言葉に、男が目を見開いた。


 落ち窪んだ目が、その瞬間確かに生気を宿した。


「禁書! そう、禁書だ! 禁書が欲しい! それさえあれば、それさえ、それさえあればそれさえ……」


 うわ言のように繰り返すその言葉を、男が気付くことのないまま店主の双眸がひやりとするような冷徹さで見下ろした。


「ただし、それはもちろんあくまで本の表側のお話」


 店主の声だけが、不気味なほど優しい甘さを伴って、狭苦しいはずの店内で、埃にまみれた空気を振るわせた。


「ときにお客さま。本の価値とは、何かをご存じでしょうか」


「本の、価値……?」


 男がようやく首を反らし店主を見上げた。

 濃い隈と白金の睫毛に縁取られたその双眸は陰になって見えない。


「如何にも。その価値こそが、インクの付着した紙の束をそれ以上のものへと押し上げるのです。知恵であり知識。そしてわたくしの店で扱う魔導書に至っては、本そのものが魔導の真髄。本一冊でその魔法を発動するための術式の、陣と呪文とを担う媒体と成りうる。魔力さえあればどんな馬鹿でも術を発動できるお手軽アイテム」


 故に、その扱いは極めて慎重さを求められる。

 特に、その強力な魔導書については国が制限をかけ厳しく管理している。


「例えばこの本」


 店主は先程まで自分が退屈そうに読んでいた本を掲げ持った。

 赤い表紙の一見して分かる古い本。赤い表紙の中央には黒いインクで魔法陣が描かれている。

 禍々しいまでの魔力を零すその本を、店主はまるで恋文でも愛でるかのようその胸に抱き込むと、長い指先で表紙の紙を愛撫した。


「これはさる魔導士が己の半生をかけて書き記した本でございます。炎を自在に操ったとされるその魔導士が半生、三十六年をかけて書き上げた魔導の極意でありその人生の集大成。あまりにも込められたその想いが重すぎて禁書などという馬鹿げた括りで縛られたことは業腹ではありますが、まあそれはそれ。当然これを読み解き理解し、己が内に取り込むまでに同じだけの熱意と愛情とを求めたいと考えております。であればひとまず三十六年をかけるのが道理でございましょう。著者のその想いの最後の一欠けらまで余すことなく汲み取ってこそ、でございますれば。よって三十六年の生を対価として差し替えた上で更なる三十六年を持ち得る方にのみ、お売り致したく」


 男が、そこまで語るのを聞かされてようやっと、店主の身の内に巣食う狂気に気が付いた。


「ちなみにわたくし、こちらの本については既に余すところなく読み切って些か飽いておりますれば、そろそろ誰か他者の手に委ねたいと思っておりましたところでして。ときにお客さま。ご希望の本の格、お支払いは如何ほどをご希望されますか? 十年? 二十年? あるいはさんじゅ………………………………………………おや」


 店主が腰を曲げて、男の顔を覗き込んだ。

 まるで蛇に睨まれた蛙のように、男の脚が震えながらも半歩を後退る。


「これは、とんだ失礼を」


 店主は身を起こすと、ふむと何か考えるような素振りを見せ、カウンターにうず高く積まれた本の山から一冊の本、という体の石板を取り上げた。


「古の魔導士が三日かけて彫り上げた魔導書でございます。こちらであれば三日対価の残り三日、併せてたった六日をお持ちであればお売り致しましょう。お買い得商品でございます。どんな魔力貧困魔導士でも洗濯物が瞬時に乾かせる風の術が使えるようになります。さらには石板なので、これそのものが武器にもなります。振り回すもよし、叩き付けるもよし。石板にしては軽量にできておりますので、持ち運びにも大変便利かと」


 男は、最後まで言葉を聞かずにこの店に現れて一番の俊敏さで逃げるように店を去って行った。


 一人残された店主は、まるで何事もなかったかのように再びカウンターの奥へと戻り、再度売り損なった魔導書を開いた。

 再びお客さまが訪れるその時を待ち侘びながら。

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