その女子高生は痴漢されたい

冲田

その女子高生は痴漢されたい

 都心の満員電車に揺られて、いや、揺れていることもできない程にすし詰めで、清佳さやかは毎朝登校している。どれくらいすし詰めかというと、一度車両に入って立ち位置が確定すると、もう身じろぎも困難なほど。もし片足を床につく間がないままに周囲の動きが止まれば、その足は宙に浮いたままだ。ほんの少しでもラッシュの疲れを減らすためには、乗車する時の位置取り、姿勢はとても重要だった。


 前に立つサラリーマンの背中に顔を埋めてしまえば窒息してしまうので、顔は少し下か横に向ける。清佳と背中合わせで後ろにいるのは、おそらく大学生か。背広のサラリーマンとは対照的に、涼しげな私服を着ていた。


 そんな状態なのに、次の駅ではさらに人が乗ってくる。駅のホームにはこの朝の通勤通学ラッシュの時間帯にだけ、“人を車両に押し込む係”の人が待機していて、もうこれ以上どこに人が入る隙間があるのかという密度の中に、さらに人を押し込む。


 乗り換えの駅で流されるように電車を降りて、清佳は、はぁと息をついた。その大きい溜め息は、ようやく身を自由にできる開放感と、少しの落胆からくるものだった。


 ーー今日も、痴漢に


 清佳は高校の最寄駅に繋がる路線に乗り換えた。この電車は、ベッドタウンから都内の主要駅に向かう先程の路線に比べれば、空いている。満員ではあるけれど、身体を動かしたり、携帯を見たり、本を読んだりする余裕はあった。けれど、身体をぴったり密着させて痴漢をするには、ちょっと目立つかもしれない。

 清佳は別に、痴漢にまさぐられて喜ぶ痴女という訳ではない。彼女にとっては相応の理由があるのだ。




 学校に着いて教室に入ると、教卓の近くで清佳の友人達がキャッキャと談笑していた。


「おはよう」


 と清佳が声をかけると、複数の「おはよぉー!」が返ってくる。清佳はカバンを自分の席に置くと、とりとめのない雑談に加わった。楽しい時間である反面、もはや、女子高生の義務だ。


「ねぇ、聞いてよ清佳! 今度は祐奈が痴漢に遭ったんだってー!」


 理沙が遠慮のない声量で言うので、教室にいる男子たちはギョッとして教卓から目を逸らした。当然のように聞き耳は立てているのだが。

 話題にされた祐奈は少しうつむきがちに、「そうなの」とぽつりと話し始める。


「今日の電車でね。一駅の間だったんだけど、お尻をスカートの上から何度も撫でられて……怖かったぁ」


 祐奈の話に女子たちはうわぁ、とか、サイテーとか、 口々に嫌悪の声を出す。清佳も同調してその合唱に加わりながら、ーー全然、怖かったって顔してないじゃない、と内心では首を傾げる。そしてこの後は、もう聞き飽きたいつものこの応酬が始まるのだ。


「私が遭った時は胸をわし掴みにされたよ」


「えー、それも嫌! 私はパンツに手ぇ入れられたよ! 本当、気持ち悪かった!」


「私、挟まれた前後の男がどっちも痴漢だったことあるよ。二人で触ってくんの!」


「私は固くなったモノ押し付けられたー!」


「駅員に突き出せばいいって言っても、実際は怖くてそんなこと出来ないよねぇ! もし間違えて冤罪作ったら可哀相だしさ!」


「清佳はまだ無事⁉︎」


 急に話を振られて、清佳はびくっとした。


「あ、……うん、私は幸運にもまだ遭ったことないよ」


 正直な性格が災いして、うっかり本当の事を言ってしまう。


「いいなぁ清佳! 本当に気をつけてね! あんなキモチワルイ犯罪行為、早くこの世から無くなればいいのに!」


 うんうん、と皆で同調の合唱をしていると、始業のチャイムが鳴った。




 ーーついに、祐奈まで……。と、ホームルーム中、担任の話を右から左に流しながら、清佳は考えていた。祐奈は正直に言ってしまえば、愛嬌はあるけど、可愛いかったり美人だったりする方ではない。体型も、デブではないけどぽっちゃりだ。

 内心では自分の外見は理沙には敵わなくても、祐奈よりは上かな、なんて思っていた清佳にとって、この知らせはショックだった。私の魅力は彼女以下なのか、と。


 女の魅力が痴漢に遭ったか否かで決まる訳はない。しかし、彼女たちのこの狭い世界では明らかに魅力のバロメータになっていた。

 口では嫌だ嫌だと言いながら、“私は痴漢に狙われるくらいには魅力的”ということを、周囲にアピールするのだ。そして、痴漢に遭った回数や、やられた内容で“女の魅力階級”のピラミッドが作られる。

 実際のところ、彼女たちの主張する痴漢被害のどこまでが本当の話でどこまでが嘘かなんてわからない。本当に嫌で、誰にも相談できず悩んで、抱え込んでいる子もいるだろう。

 しかし、清佳の住む世界では、痴漢に遭ったことがあるか否かは、女子高生として死活問題なのだ。電車通学組で、痴漢に遭っていないのはもう清佳だけになった。

 ーーこのまま、最底辺にいてたまるか! かといって、嘘をつくなんて惨めなこともしたくない!




 清佳は痴漢に遭わない方法を調べた。その逆をすれば、狙ってくれるかもしれないからだ。そして、色々と試した。

 車両や時間はもう既に研究済みで、これは毎日固定している。ラッシュ時間の快速電車。一度乗るとしばらく片方の扉は開かなくて、その扉が開く駅に着くと、改札に続く階段のすぐそばの車両。つまりその扉の近くに陣取れば、彼らにとっては長く楽しめて、すぐに逃げられるというわけだ。

 それから外見。可愛く見せるために制服のスカートを短くして化粧をしてみたり、逆に大人しい子を装って、すっぴんに髪型はおさげ、スカートを長くしてみたり。首のリボンを緩めてブラウスのボタンをいくつか開けてみたり、逆に上までキッチリとボタンをとめてリボンもしっかりつけてみたり、他にも色々。

 しかし、どれもダメだった。清佳は毎朝の友人達の報告に焦るばかりだったし、私は彼氏ができるどころか、痴漢にすら触れてもらえないほど魅力がないのかと、落ち込む日々が続いた。けれど、こんなこと誰かに相談できるわけもない。

 ーー痴漢にだなんて。




 ある日の帰りの電車で、清佳は耐えきれなくなって、ついに親友の夏実に一連の事を話すことにした。彼女は中学時代からの友達で、今はクラスが違うがこうやって部活の無い日にはよく一緒に帰っていた。この時間はまだ帰宅ラッシュも始まっていなくて、座席に空きがあるくらいに電車はすいている。

 とはいえ、この悩みを打ち明けることは、気心の知れた夏実相手でもかなり勇気のいる事だった。清佳は思い切るあまりに、声量を間違えた。


「私、どうしても痴漢に遭いたいんだけど、どうしたらいいだろう?」


 電車の走る音以外は静かな車内で、女子高生の口から発せられた驚くべき言葉に、周囲は驚いて思わず彼女たちの方を見る。注目を集めている事に気づいて慌てたのは夏実の方で、彼女はしぃっと唇の前で人差し指を立てた。


「ちょっと、声の音量は下げて!」


「あ、ごめん!」


 清佳は顔を真っ赤にしてうつむいた。夏実は隣に座る清佳にギリギリ聞こえる声量で、聞き返した。


「一体どういう事か、よくわからないんだけど? 遭いたくない、の間違いじゃないの?」


「夏実は、……ある?」


「痴漢? んー。一回だけ、遭ったことあるよ」


「うそぉ、夏実もあるの? この裏切り者ー!」


「なんでそうなるのよ。私は二度と嫌だよ。ちょっとお尻撫でられただけで、物凄い嫌悪感だったもん」


「今いるグループさ、何回痴漢に遭ったか、何をされたかでマウント取り合ってるの。ついに私が最後の一人、最底辺なの!」


「実際に遭わなくても、嘘つきゃいいじゃない。犯人捕まえたとかじゃない限り、誰がその自己申告を本当だと証明するの?」


「それは……。でも、私にも女のプライドがあるっていうか……」


「そんなプライドいらないって。遭わないで済むならそれでいいじゃない」


 清佳は反論できずにうぅ、と言い淀み、口をつぐんだ。誰にも言えなかったモヤモヤはすっきりしたものの、何も解決はしていない。夏実の言っていることは確かに正しいけれど、正しい事などとっくに自問自答済みだ。その上で、清佳は痴漢に遭いたいと思っているのだ。





 彼女たちの最寄駅に到着したので、女子高生二人は電車から降りていった。その様子を、先程まで隣に座っていた男性が、何となく横目で見送る。


「まさか、痴漢に遭おうとしていたなんて、考えもつかなかった」


 この男性、尚也はボソッと独り言ちた。彼は大学生で、朝のラッシュ時に、時に帰りの電車で一緒になる清佳に好意を抱いていた。一目惚れだったが、なかなか話しかける機会には恵まれなかった。

 朝は清佳の乗り換え駅よりも先まで電車に乗っていなければいけなかったし、帰りは一緒になったとしても大体彼女は友達と一緒にいる。いつか話しかけたい、まずは知り合いになりたいと、好意を自覚してからは朝の電車は一限がなくとも毎日同じにしたし、帰りは彼女の乗り換え駅で待ち伏せて姿を確認してから乗った。今日、隣に座ったのは出来心だったけれど、彼にとっては思わぬ話を聞くことができた。


 清佳は多くの“痴漢対策”をしているのだ。本当のところは彼女が痴漢に狙われていない訳ではなかった。尚也が、正義感から彼女が痴漢に遭わないようにとこっそり守っていたのだ。それがまさか、痴漢に遭おうとしていたなんて彼には想像もつかないことだった。

 彼は自分の降りる駅までの間、電車に揺られながら考えを巡らせた。

 ーー痴漢から守ろうとしていたのは、彼女に嫌な思いをしてほしくないという俺の勝手で、それで恩を売ろうとか、彼女のヒーローになろうとか、そういうつもりではなかったんだ。でも、それが余計なお世話だったとは……。いや、だからといって痴漢にいいようにされるのを黙って見ているのか? 例え、そのあとソイツを締め上げたとしたって、彼女を穢らわしい手で触ったっていう事実は到底許すことなんてできない……。


 尚也はうぅんと、腕組みをした。今までずっと話しかけられなかったというのに、いきなり“痴漢に遭いたいなんて考えはやめろ”なんて言えるわけがない。気持ち悪い奴だと思われるだけだ。ーー自分にできる事は何かないのだろうか。まだ知り合ってすらいないのに出来る事などあるわけがないとはわかりつつも、考えのまとまらないまま、電車は尚也の最寄駅に到着した。




 痴漢のターゲット探しは、実は駅のホームで乗車待ちの列が整う前に終わっていることが多い。ターゲットをロックオンする目、荒くなる鼻息。あ、この人、痴漢する気だ、と察するのは案外簡単だったりもする。そして、痴漢はターゲットの真後ろをさりげなく陣取り、あとは乗車の流れにあわせて女の子に身体を密着させるのだ。

 そうはさせないぞと、尚也は今日も痴漢をしそうな男と清佳の間に割り込み、彼女の真後ろに陣取る。その行動に、まるで自分こそが痴漢のようだと、彼は自嘲した。その代わり彼はいつも、最終的にはさやかと背中合わせになるように、乗りながら身体をひねる。もちろん、鞄を両手で前に抱えるのも忘れない。

 しかし今日は少し違った。清佳と背中合わせになりながら、尚也の心臓は緊張と羞恥と背徳感とその他の色々な感情で今にも破裂してしまうのではないかという程、早鐘を打っていた。心臓を隠すように鞄を片手で抱えると、彼はその時を待った。


 “その時”を想像しただけで、尚也の下半身に血が集まる。ーーヤバイ。これじゃあ俺は、まるで本物の痴漢じゃないか。少し前屈みになりながら彼は軽く深呼吸をし、心を落ち着けるために今日提出の小難しい課題レポートの事を考えた。

 ーーいや、まるで、じゃない。俺は今から彼女のために痴漢をするのだ。


 鼻にかけるような車掌の声が、清佳の降りる乗り換え駅に到着することを告げる。車両のドアが開く瞬間、尚也は鞄を持っていない方の手を捻って、なるべくいやらしく、清佳の臀部を触った。

 清佳はハッとして、電車から降りる大勢の人に流されながらキョロキョロと辺りを見回した。そして、喜びを押し隠すように唇を噛む。ーーやった! 私もついに痴漢に遭ったんだわ!

 ついに朝の雑談で報告できる、と、彼女は痴漢のいやらしい手つきを思い出しながら、晴れやかな気分で乗り換えのホームへと向かった。


 尚也は、大部分の人が降りてかなり空間に余裕のできた電車の中で、動悸の収まらない心臓を、抱える荷物で隠していた。物凄い後悔と、誰かが見ていたんじゃないかという不安が襲ってくる。しかし、そんな中にふつふつと何ともいえない高揚感があることに気がついて、尚也は心の内でかぶりを振った。

 ーーこんな大それたことができたんだ。今度こそ、あの子に声をかけよう。尚也はそんな事を考えながら、動悸が収まるのを待った。




 その日の夕方、清佳は珍しく一人で帰った。自身が部活で遅くなり、夏実には先に帰ってもらったのだ。帰宅ラッシュで混雑する乗り換えの駅のホームで電車を待っていると、


「こんばんは」


 と声をかけられた。清佳が声のした方を向くと、大学生くらいの男性がいた。まったく知らない人なので、彼女は警戒して、返事はせずに一歩後ずさった。


「突然で、びっくりしたよね。実はよく電車が一緒になってて、君のこと気になってたんだ」


 そう言われると清佳も悪い気はしない。顔を上げてよくよく見ると、ちょっと好みの顔かも、と思い直した。

 尚也と清佳がぎこちなく軽い自己紹介をしていると、ホームに電車が入ってくる。待ち列の全員がこの車両に乗れば、朝のラッシュほどではないとはいえ、かなり窮屈だろう。


「清佳さん可愛いから、電車で変な奴が寄ってこないように俺が守るよ」


 二人で一緒に電車に乗りながら、尚也が言った。清佳はいきなりかけられた甘い言葉に、赤面しながらも、少し嬉しそうに笑った。


 ーー今までもずっと見守ってたし、君の願いも叶えてあげるからね。




end

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