駅舎

葛西 秋

駅舎

「しまった」


 思わず口に出した自分の声が思いのほか大きく聞こえ、私は辺りを見回した。

 無人駅の駅舎は私以外の人影はなく、ただ夏の暑さだけがその場に留まっている。

 誰もいないことを確認して安堵した私は、改めて目の前の時刻表を見た。


 間違いない。次の電車は一時間後だ。


 土地勘のない旅先で、上下線を見誤ったのだ。五分後に来る電車は下り線。五分前に出ていった電車が乗りたい上り線だった。

 旅とはいえ、見るべきところ、訪れるべき場所はメモ帳に羅列を作り、スケジュールは分単位でぎっしりと組まれている。

 そのスケジュールの要である電車の時刻を見誤ったのだ。

 緻密で過密なスケジュールは音をたてて崩れ去り、残されたのは真夏の無人駅の中、所在なく佇む私ただ一人である。


「どうしよう」


 今度は堂々と口に出しての独り言だった。見に行く予定だった石仏を一つ諦めなければならない。それで予定は帳尻が合う。


 ひとり旅の予定はともかく、あと一時間、真夏の無人の駅舎で電車を待つのか。


 開け放たれた駅舎の窓越しに、タチオアイの花が見えた。赤紫の濃い色が暑気に揺らめいている。

 外に出て夕方間近な真夏の西日に晒されるより、多少蒸し暑くても風は通り抜ける駅舎の中に留まることを私は選んだ。

 自販機でスポーツドリンクを買って体を中から冷やすためにゆっくりと飲みながら、視線が待合室の片隅で止まった。そこには小さな本棚があった。


――待合室でご自由にお読みください。


 白い画用紙にそんな文言が書かれている。普段なら見かけてもけして近づかないのに、その時は並んだ本の背表紙でも見てみるかという気になった。


 ミステリー、エッセイ、自己啓発本。

 一時売れて話題になった本がそこには並んでいた。ここで誰か読むのだろうか。

 大いに宣伝されていたためか、私でも題名に見覚えがある一冊の本を手に取ると、本来の重量より持ち重りがする。湿気を大分吸っているようだ。


 パラパラとめくったが、折り目書き込みどころか開きグセすらついていない。

 誰も読んでいない、もしくは私のようにパラパラとめくられるだけだったのだろう。本の奥付けには平成十二年〇〇駅寄贈という丸い判子が押されていた。


 読む気にはなれず、私はその本を本棚に戻した。他の本も同じような状態なのだろう。荷物を置いていた椅子にもどって私は改札口越しに駅のホームをぼんやり眺めた。


 外の景色は白熱している。


 ゆらゆらと立ち上がる陽炎に眠気を誘われ、つい、うとうととし始めた私の耳に、ざ、ざ、と土を蹴る音が聞こえてきた。

 駅舎の外は舗装された道である。その舗装もだいぶ傷んでおり、辺りから吹き寄せた土がところどころに吹きだまっている。

 その土を蹴散らしながら、なにか重量のあるものが駅舎に近づいてきているらしい。


 半分寝ぼけていた私は牛の幻像をそこに見た。真っ白な牡牛が立派な角を振りながら歩いてくる。


 だがまもなく駅舎の中に姿を現した足音の主は牡牛のような巨漢の、というより、ただの太った男性だった。なるほど、白いポロシャツ、ベージュのズボンの風体は牛に見えないこともない。


 牛のような男性は、ふうふうと息を吐きながら駅舎の中を横切り、

「ああー! しまった! 電車にのりそびれた!」

 私と同じ独り言を、私より十倍の声量で叫んだ。


 なんだって上下線が同じ時刻表の中に書き込まれているんだ、ともっともなことを呟きながら、白牛の男性は待合室の中を私ごとぐるっと眺め、やおら対角線にどたどたと小走りに移動してあの小さな本棚の前に立った。


「ふむふむ」


 そんなことを云いながら、男性は本を手に取りパラパラとページをくっていく。

 仕草が先ほどまでの私とそっくりだった。本の文章を読むのではなく、文字の羅列から情報を汲み取っている。

 私と同好か、近い趣味を持つ人物のようだ。だが共通の話題になるような本はその本棚にはない。話しかける必要性は感じられず、私は男性から目を離した。

 

 が、あっちはそうではなかったようだ。


「失礼します、本をお持ちじゃあないですか」


 まるで瞬間移動したかのように牛の重量を持った男性が私の目の前に立ち、話しかけてきた。


「本は、いやあ、こんなものは持ち歩いていますが」


 勢いに飲まれ、私はリュックの外ポケットから顔を出している古びた本を男性に示した。


「その本はよく見かけます。石仏の趣味の方には必携の書ですな」


 男性はその本の全容を見ることなく、本の性質を言い当てた。

 一般的な本ではない。だが私と同じ趣味を持つ者の間ではそれがバイブルのように扱われている。

 白牛の男性はやはり同好の氏か、と、私のアタマは情報交換というミッションに切り替わった。


「あなたは私と同じ趣味をお持ちのようですね。私はここで馬頭観音の石碑を訪ね歩いたのですが、あなたは何をご覧になったのですか」


 男性は、馬頭観音かあ、と間延びした声で答えた。彼の趣味ではなかったようだ。石碑のジャンルはそれなりに細かい。


「自分はですね、本を探しているのです」

「本、ですか」

「本ですねえ」


 今一つ男の云っていることが飲み込めず、今度は私の返事が間延びしたが男性は気にしない。


「本をね、探しているんです」

「どんな」


 時間潰しの徒然に、私は男性と会話を続けた。相手も電車を待つ同じ身の上、そしてジャンルは違えどもやはりどこか同好の者の気配がある。


「それがですね、分からんのです。ただその本はとても面白く、興味深く、一読すれば生涯の友となること請け合いなのです」


 説明の長さの割に内容は曖昧だ。


「一度はその本をお読みになったことがあるのですよね」


 ふん、と白牛の男性は鼻から息を勢いよく吹き出した。まさしく牛である。


「ないのです」

「ない、とは」

「自分の理想の本なのです。むかしに夢に見た夢の本です。夢の中で自分は感涙を流しながらその本をむさぼるように読んだ。読んでも読んでもつきることのない興味が、感情が、わき出てくるのです」

「でも、夢なのですよね」

「あれほどリアルな夢ならば、もはや現実と変わりません。きっとあの本はどこかにあるに違いないのです」


 男性の云っていることは常軌を逸しているようにも聞こえるが、古びた石碑を探し求める私には男性の云わんとすることが漠然と理解できた。


 どこかに、今まで誰も見たことのない石碑があって、それは私の理想の造形をしているのだ。目の前にしたならば私は感涙に咽ぶだろう。


 白牛の男性は、やはり私と同好の氏なのだ。


「自分は本屋をしております。本を探すには都合のよい職業です」


 男性は駅のホームへ視線を向けてそう云った。


「あなたの店なら行ってみたい。場所を教えてくれませんか」


 私は慌ただしくメモを取る準備をした。


「あいにくですが、自分は店を持たないのです。自分は移動する本屋です」

「というと」

「自分が本屋をしているのはあの本を探すためなのです。多くの本を手に入れてもそこにあの本がなければその他の本は必要ありません。手に入れても自分に無用な本は他の人に売っているのです」


 それは古書業者の言い分に聞こえたが、男性は本屋だと云いきった。そこにはなにか彼の哲学があるのだろう。


 そこを聞こうとして、不意に駅舎の外から車のクラクションが聞こえた。


「おおい、本屋の兄さん、まだいるか」

「はいはい」


 男性は巨体に関わらず身軽に外に転がりでた。


「さっきはありがとうな。見てもらった本はまとめて送るよ」

「いえ、こちらこそ」


 窓の外に白い軽トラックが止まっているのが見え、その半ば開けられた窓から高齢の男性が身を乗り出していた。


「それで、うちのとなりの高橋さんとさっきその話をしたら高橋さんの蔵にも本があると言い出してな、帰る前にちょっと見ていってくれないか」

「それはもう、よろこんで!」

「よし、じゃあ乗りな」


 バン、と車のドアの音がして、白牛の男性は軽トラに乗り込んだらしい。

 駅舎の入り口を軽トラが過ぎるとき、ちら、とこちらに一瞬頭を下げる仕草が見えて、白い軽トラは真夏の空の下、埃っぽい道をいきおいよく走り出した。


 再び駅舎には無人の静かさがもどった。電車が来るまで、あと二十分程度ある。


 私は待合室のすみにある小さな本棚から題名を見ずに本を一冊取り、椅子に座ってページを開いた。
























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