番外編 出会っていた二人 〜前世のテオとリヴィ〜
「最近、思い出したことがあるんだよね」
麗らかな春の木漏れ日が降りそそぐ庭園で、ヨチヨチと歩き始めた可愛い我が子を見つめながら、隣にピッタリと寄り添っていたテオドールがオリヴィアのお腹を優しくさする。
突然、話し始めたテオドールにオリヴィアは視線を向けた。
目が合うと、少し膨らんできたお腹をさする手がピタリと止まり、深刻な顔になった。
「何か良くないこと?」
その顔からあまり良いことではないと想像できたのだが――まさか、そんな話だったとは。
オリヴィアは、テオドールが思い出した話を聞いて驚愕した。
オリヴィアの二度目の転生時、テオドールも同じ世界に転生していた、というのだ。
(私たちは出会っていたの? 一体、いつ? どこで?)
オリヴィアは、前世を思い返していた。
◇◇◇
「ただいま」
「お帰りなさい――それは?」
「ああ……」
帰宅した夫の手には紫色の花束が握られていた。夫は視線を床に落とすと、それをずいっと押し付けるように差し出した。
「いつも遅くなってすまない」
「えっ? 私に?」
今まで、こんなことはなかった。
共働きだったこともあり、互いに忙しい毎日を送っていた。そのうち、子どもを授かり、夫の希望で仕事を辞めた。
ワンオペ育児が始まった頃だ――私たち夫婦の関係が変わり始めたのは。
「いいよな、好きなときに寝られて」
「えっ?」
「家にいて、好きなときにゴロゴロしていられて。幸せだな、お前は」
(何を……言ってるの?)
3時間おきの授乳、その間にオムツ替え。足りなければミルクを作る。
日中は、夫の朝ご飯を用意し、洗い物。夫が出てからは洗濯物に掃除。散歩、沐浴させて、寝ているうちにサッとお風呂をすませる。
ゆっくり湯船に浸かったことなど、ここ何ヶ月もない。
3時間おきの授乳と細かいオムツ替えは時間を選ばず深夜も続く。
日中、うたた寝してしまうこともある。
それを、ゴロゴロできて、幸せだ、と?
身も心もボロボロだ。洗面台の鏡に映る自分の顔がぼやけて滲んでいた。
そんな日々が続き、ようやくゆっくり眠れるようになった頃、夫の帰宅が少しずつ遅くなってきていた。
あの紫色の花束をプレゼントされた、数日後からだった。
何かおかしいと思いながらも、すれ違いの日々が続いていたある日。
夕方からグズグズと機嫌の悪かった娘が熱を出した。今からでは行きつけの小児科では対応してもらえない。
私は時間外診療している病院を調べ、電車で連れて行くことにした。泣き止まない娘を抱っこして、必死になだめながら病院へと急ぐ。
何とか診察してもらえ、薬をもらって、ホッとする。
駅までの道のりを棒のようになった足を必死に前に出しながらもくもくと歩いた。ようやく腕の中でウトウトし始めた娘の顔を見つめる。
「今日はもう終わりだろ?」
聞こえた声にハッと視線をあげる。その声を久しぶりに聞いた気がするが、聞き間違えるわけがない。
私は声の方へと視線を向けた。
そこには可愛らしい花屋があり、その店先には二人の男女がいた。女性はその花屋の店員のようだ。真っ赤なエプロンをつけている。男性の方は――見慣れた姿。私の、夫だった。
どくりと心臓が音を立てた。
夫はここであの花を買ってきたのか。あの、紫のアスターの花束を。
「うん、今日はもう終わり。着替えてくるから待っててくれる?」
「待てない」
「ちょっと、もう! ここではダメ! 中に入って……」
二人はもつれ込むように花々に囲まれた店内へと入っていく。
私は、その光景を呆然と見つめていた。
どうやって帰ってきたのかも覚えていない。気づいたら娘をベビーベッドへ寝かせていた。
(一体、いつから……あの二人は……)
ポロリと頬に涙が伝う。
綺麗な人だった。それこそ花の似合う、美しい人。鏡に映ったボロボロの私とは、比べものにならないくらい。そう思ったら、涙が止まらなかった。
玄関から解錠する音が聞こえた。私は慌てて涙を拭った。
「お帰りなさい」
「なんだ、まだ起きてたのか」
私の横を素通りした夫から花の香りがふわりと漂う。
私は唇を噛み締め、涙をグッと堪えた。
「エリが熱を出したの。さっきまで病院に行っていたのよ」
「好きだね、病院行くの」
「え……?」
「そんなに頻繁に行く必要あるのか?」
「だって、熱が……」
「たいしたことなかったんだろ? だったら、行くだけ無駄じゃないか」
何を言っているのか理解できず、すぐに反論できなかった。
それは結果論であって、もし大事になっていたら後悔してもしきれない。命を……大切な娘の命を、何だと思っているのか。
「帰りにね、可愛いお花屋さんを見つけたの」
今、言うつもりなんてなかった。でも、許せなかった。娘の病気を軽んじ、持論ばかり押し付ける。そんな夫に腹が立った。
「あのお花屋さんで買ったのね、あの花束」
夫が明らかに動揺している。
「あなたからも、お花のいい香りがするわ」
夫の目が大きく見開かれ、左右に揺れ出す。
「待てなきゃダメよ、誰が見ているのかわからないもの」
「な、何の話だ! 花屋には行ったが、これを買うためだ! せっかくお前のために用意したのに!」
鞄の中から、シワだらけの紙に包まれた花を渡される。それを受け取った私は思わず笑ってしまった。
夫は、私が機嫌を直したと勘違いし、ホッと胸を撫で下ろしている。
それを見て、私は心底呆れた。
「これ、花屋さんから私への挑戦状かしら」
「は?」
意味がわからないと首をひねる夫に私はため息を吐いた。
「この花、売り物ではないもの」
「何言ってるんだよ、そんなわけないだろ」
怒りだした夫に静かにするよう促す。そんな大きな声を出したら、せっかく眠りにつけた娘が起きてしまう。
私は夫が何か言うたびに冷静さを取り戻していくのを感じていた。打ち付けた波が、スーッと海に帰っていくように。
「この前の花束も、売り物ではないと思うわ」
「はぁ? 花屋で買ったのに売り物じゃないはずないだろ」
バカか、お前は。と言わんばかりの顔で私を見る。……それは、こちらの台詞だ。
「この前の紫色の花はアスター。そして、この花はスカビオサ」
「だから、何だ」
「紫のアスターの花言葉は『恋の勝利、私の愛はあなたの愛より深い』」
夫は馬鹿にしたように、ふんと鼻で笑った。
「そして、スカビオサは『私はすべてを失った、不幸な恋、叶わぬ恋』。花言葉がネガティブだから、あまり贈り物にはしないの。彼女が選んでくれたのでしょう?」
夫は目を見開いた。
「彼女は本気みたいね。あなたはどうするつもりなの?」
「彼女とは……別れる」
「そう。付き合いは認めるのね」
大きく見開かれたままの目がギョロリと私へ向かう。そして、肩を落とし、項垂れた。
「そもそも、お前が悪いんだ」
何で、私? と怪訝な顔をすると、項垂れた頭をガバリとあげて責め立てる。
「身綺麗にもせず、子どものことばかり。俺を蔑ろにして、ダラダラ、ゴロゴロとしているじゃないか!」
あまりの身勝手な言い分に、もう反論する気にもなれなかった。
今の私にはそんな余力が残っていなかった。
呆れて物が言えないというのはこういうことかと実感していると、スカビオサの紫色が目に入る。
それを見て、ふと思い出した。
小学生の時、好きになった人がいたことを。たった一人、自分から好きになった人。不思議な瞳の色をした異国出身の男の子。
『オリちゃん』
『必ずまた会えるから』
そう言って、一輪の花をくれた。その花は、彼の瞳と同じ綺麗な紫色をしていた。
――ルピナスの花。私の幸せな初恋の記憶。
母と押花にして、大切にしていた。
夫がお風呂に入ったのを見届けてから、寝室へと戻り、手帳に挟まったそれを見つけて手に取る。
一番好きな人とは結ばれない。彼と再び会うことはなかった。
今の夫と結婚して、すっかり忘れていた。
彼は今、どうしているのだろう。
押花の栞を、枕の下に入れて眠る。今日は夢でもいいから、彼に会いたい。
それから毎日早く帰宅するようになった夫。夫からもう花の香りがしない。あの花屋の彼女とは、どうにか話をつけたのだろう。
しばらくした、ある日。
娘を抱えて買い物に出ていた私は、横断歩道の向こう側に紫色の瞳を見つけた。
彼と目が合う。彼の表情が驚きに変わった。それを見た私は確信した。あれは――
ドンッと突然、背中に衝撃が走る。
躓くように前に大きく二、三歩出る。耳元で大きなクラクションが響き渡り、私の身体は宙に浮いた。
アスファルトに叩きつけられた身体は、もう何も感じない。
見開かれたままの瞳には動かなくなった娘が映る。泣き叫びたくても、涙も声も出せない。
意識を手放す前に聞いたのは――
『彼の隣を歩くのは、私よ』
あの、花屋の声だった。
◇◇◇
「僕の記憶が消えていたわけじゃなくて、たぶん……この子が取り戻してくれたものだと思うんだ」
テオドールがオリヴィアのお腹にそっと手を当てる。
「それって、もしかして……」
「うん、あの時の」
オリヴィアは口元を抑えながら、涙を流す。テオドールはそれを優しく指で拭った。
オリヴィアの足元には、いつの間にか愛しい息子、エリオットがしがみついていた。心配そうな瞳で、あうあうと何かを訴えかけている。
「なぁに? エリー」
「エリオットは、お兄ちゃんになるんだよ」
テオドールはワシワシとエリオットの頭を撫でると、抱き上げて膝に乗せる。
「きっと……可愛い妹ができるわ」
「あいー!!」
エリオットがパチパチと両手を合わせる。
「おお、しっかり返事をしている! さすが我が弟よ」
「違いますよ、大神官様。私の孫です」
後ろから音もなく現れた容姿端麗な大神官様と神官長様に二人は苦笑いを浮かべる。見た目年齢詐欺師の二人がいつものように静かに闘志を燃やしている。
前世とは全く違う時間を生きている。
私はこんなにも幸せでよいのだろうか。
「エゼル」
お腹をさすりながら、何となく呟いた。
「いい名前だね」
隣に座るテオドールが微笑む。
「“神の助け”という意味だね。失くしたくない大切な存在、という意味もある」
その言葉が優しくて、また頬に雫が伝う。
「今度は僕たちの子として生まれてくるんだから、絶対に幸せになるよ。僕が“いつも幸せ”にするから。約束したでしょ? ”オリちゃん”」
私は目を見開いた。
必ずまた会えると約束してくれた。そして、やっと、一番好きな人と結ばれることができたのだ。それを実感する。
「うん!」
テオドールの膝に乗るエリオットの小さな手に、いつの間にか握られていた花を見つめた。
大切な二人の瞳と同じ紫色のルピナス。
私は――“今日も幸せ”だ。
しがない主婦が異世界に転生したら、そこそこ有名な作家になりました。 夕綾るか @yuryo_ruka
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