旅立つ駅には本屋がない
いいの すけこ
遠くへ
「駅に本屋さんが無いなんて」
座席の一番端で、仕切りにもたれながら彼女は言った。
平日午前の電車内は、通勤通学のピークを越えてもまだ混み合っていた。乗客たちはスマホを眺めるか、俯くか、眠るかして一様に押し黙っている。だから声を発したのは彼女だけで、衆目を集めてしまうかと思ったが。それは走行音にのまれて、俺にしか届かなかったようだ。
「欲しい本でもあったの?」
俺の問いかけも、電車が走る音にかき消されそうだった。
特急列車はひた走る。
いくつも駅を飛び越して、止まらないで。スピードを緩めずに遠くへ、もっと遠くへと。
「だって、旅のおともには本が欲しいでしょう?」
彼女は膝の上の鞄を抱え直しながら言った。
読書習慣のない俺は、重たそうだななんてつまらないことを思うばかりだったけど。彼女はいつも、鞄に本を入れていたっけ。
「旅に出る時は、新しい本を買ってから出発するの」
「道中の暇つぶし?」
「暇つぶしと言えばそうだけど……」
過ぎ去っていく景色。窓の外に流れていく建物が途切れて、車内に陽光が差した。
「本と一緒に旅をするの」
陽の光が、淡く笑った彼女を照らした。
彼女は本だけを共連れに、ひとりで遠くに行こうとしている。
「思いっきり分厚い本を買ってね。電車のなかでずっと読み続けようと思ったんだ。読み終わるまで電車を降りないで。読み終わる頃には、全然知らない場所に、いて」
彼女はいつもと同じ時間に、いつもと同じ身支度で駅にいて。いつもと同じ電車に乗ろうとしていて。けれど振り切るようにして、反対方向へ向かう電車に飛び乗っていった。
本屋で旅の共を見つけられなかった彼女を、俺は思わず追いかけてきたけれど。
俺は本にはなれないし、電車はなかなか止まらない。
「……帰らないの?」
小さな鞄ひとつに、足元はパンプスで。それだけで、本も見つからなくて、彼女はどこまで行くというのだろう。
俺の問いと視線に心地悪くなったのか、彼女は顔を背ける。
「……次で」
背いた顔が、車内モニターの方を向いた。同時にアナウンスが流れる。
「次で、降りる」
終着ではないけれど、電車が速度を落としていく。
「降りた駅に本屋さんがなかったら、遠くに行くのはやめにする」
「本屋があったら?」
電車は駅に滑り込んで、正確な位置で停止した。
開放された空気が音を立てて、扉が開く。
「本屋さんがあったら、まずは本を探すよ」
それで遠くまで連れて行ってくるような、本が見つかったら。
本当に遠くへ行ってしまうの?
本をあまり読まない俺は、強く引き止める言葉なんて何一つ分からなかったから。雑踏に紛れてしまいそうな彼女の背中を、ただ追いかけた。
旅立つ駅には本屋がない いいの すけこ @sukeko
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