本屋であった些細な会話

@aqualord

第1話

駅前に昔からある小さな本屋の片隅に、一際年季の入った棚がある。

その棚には、店主お勧めの本が並べられる。

お勧めの本は多岐にわたっていて、純文学の横に漫画があったりもする。

もっとも、目立つ場所ではないので初見の客が面食らうようなことはない。


「あの本、もう売れちゃったの?」


お勧めの棚を眺めながら声をかけたのは、勤め帰りらしい端正なスーツを着た男だった。


「どの本でしょうか?」


戸惑いながら答えたのは、一人前の体つきが未熟さを押し包んだ店番の若者だった。


「ほら、この前一緒にご主人と話してたあの本。」


若者の記憶が呼び起こされた。

しかし、その表情は曇ったままだった。


「ああ、あの本。あれは売れたんじゃないのですが、もうありません。」

「万引きでもされたの?」


不思議そうに尋ねる男に、若者は一瞬答えを躊躇ったが、結局常連への気安さからか行方を明かした。


「いえ、店長がある方にプレゼントしまして。」

「え?そんなことがあるんだ。」

「はい。常連だった方に。」


「常連だった」という言葉に男は引っかかった。

常連にプレゼントするなら解るが、常連をやめた人にプレゼントするとは。


「ああ、常連をやめた人に戻ってきてもらうためか。」

「いえ。お越しになりたくても、もうお越しになれなくなる方に。」


男の中で、すとんと落ちた。

そうか。

この本屋と共に人生を送ってきたのは本屋のご主人だけではないのだ。

ここにこうしている自分も、「しっくりくる場所」であるこの本棚の前で、人生の幾ばくかを心穏やかに過ごしている。


本を買うだけならネットでも買える。だが、それは単なる買うという行為でしかない。

だが、選び抜かれた本をみて、想像を働かせる。それは愉悦の一部であり、人生の一部とするに相応しい。


主人は本を送ったのではない。人生の証しを送ったのだ。


男は、「そうか。」とだけ口にして、また、本棚に視線を戻した。




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