【番外編】 猫な思い出
リーリンスからお茶に招かれ、公爵邸を訪れて、息を飲んだ。
出迎えてくれたリーリンスが可憐で目を奪われたことはもちろんだが、それ以上に。
彼女の着ているデイドレスに、とても見覚えがあったからである。
(あのドレス。レースは……!)
他愛ない会話を笑顔で繋げながらも、内心冷や汗が止まらない。
つい、目がレースを探ってしまう。
(目立っておかしな箇所はないよな?)
リーリンス自らお茶の用意をしたいらしく、少しだけ待っていて欲しいと通された部屋には、猫がいた。
公爵家の飼い猫、ニィーニだ。
「ニィーニったら、ここに居たの? あの、すみません。すぐに猫を別の部屋に移しますので」
慌てたように彼女が俺を振り返るので、猫との同席を快く承諾すると、ほっと嬉しそうな顔をされた。可愛い。
そんな彼女は部屋を出る際、ソファの猫に話しかけた。
「ヴィクター殿下がお見えだから、良い子でね? あ、それと、レースはすっかり直ったから、安心してね」
(ぎくっ)
猫より俺が反応してしまった。
ぴくんっ、と猫の耳が軽く立ち、目だけでリーリンスを見送って。
そのまま。
彼女が部屋を出ると、ニィー二は俺に意味深な視線を送ってきた。
(何があった、と問われている気がする──)
溜息を落としつつ、俺は、馴染みの猫の隣に腰をおろした。
◇
ニィーニは、公爵令嬢リーリンス・ベルシアの飼い猫であり、かつ彼女が幼い頃から傍にいる、自称"兄"猫だったりする。
『自称』というのは、事実、猫が喋ってそう名乗ったから。
ニィーニの正体は、妖精王から
リーリンス自身は気づいてないが、彼女は妖精の《
俺がリーリンスとの婚約を破棄しようとした日、
おかげで俺は公爵家の猫ニィーニとして、二週間をこの屋敷で過ごしたわけだが。
さっきのレースは、そんな猫生活の中で出会った品だったり……す、る。
……ジトっとした視線が絡みついて痛い。
「わかった! 話すから。そんなに
猫からの視線に
「あれは風の気持ち良い午後で────
◇
「お嬢様、ついにご注文のお品が届きましたよ!」
「まあ、ついに?」
「はい。待たされましたねぇ。公爵家だというのに」
「それは仕方ないわ。いま流行りのお店で、他国からも注文が殺到していると聞くもの。中には王族の方からも」
運ばれてきた大きな箱の蓋を開き、リーリンスが喜びの声をあげた。
「素敵ね!!」
輝くような笑顔がこぼれ、箱の中身が取り出される。
ひらり広がったのは、流れるようなラインの爽やかなドレス。草花をモチーフとした刺繍装飾やレースがふんだんに施され、ひとめ見ただけでも手の込んだ一品とわかる。
華やかながら上品で、とても優雅だ。
(へえ……)
常日頃、王太子として様々な席に出席し、着飾った貴婦人たちを多く目にしているヴィクターにも、質の高い美しいドレスだと映った。
思わず眺める。しかし。
(なんだかよく見えん)
猫になるまで、その視力のことは知らなかったが、動いていないものはよく
(動体視力は良いんだが)
人間だったヴィクターにとって、見え方の差異は不便だった。
「お嬢様、公爵様がお呼びです」
別の声がかかり、リーリンスが振り返る。
「お父様が? 何かしら」
「では、こちらのドレスは掛けておきますね」
「ええ、よろしく。後でゆっくり見るわ」
リーリンスと使用人が去った後。
部屋には布張りの
(もっと近づいて見てみるか。なんて名の店だっけ?)
贈答品に使えるかどうか、品定めに近づくと。
ふわり、とドレスの裾が揺れた。
窓からの風が、ふわりふわりと軽やかにレースを揺らす。
(! しまった!!)
そう思った時にはすでに、猫爪がしっかりとレースに引っかかっていた。
(くっ、身体が勝手に)
揺れ動くレースに誘われ、猫の身体が爪まで出して、それを捕らえに動いてしまったらしい。
繊細なレースに猫の手がくっついて、ヴィクターは初めて我に返った。
(だが焦るな。俺は人間だ。そこらの猫とは
……。
…………。
(なんでだ──っっ!!)
あろうことか、
かといって乱暴に引き抜くなど、もってのほか。
猫みたいな失敗をするなんて、人間としての
(ううっ、どうすれば……)
かくしてヴィクターは、心地良い風がそよぐ中、レースに絡んだ片手を挙げたままで、身じろぎせずに待つしかなかった。
自分がどんなに間抜けな姿をしているか、想像出来てしまうだけに、とても悲しくなってくる。片手も疲れて来た。
小一時間もした頃。
戻ってきたリーリンスが「ニィーニ?」と声かけた時には、心底弱り切った眼差しで彼女を見上げ、「なぁぁ~ん……」と力なく鳴いてしまったことは、仕方がなかったと思う。
結果的にリーリンスは丁寧にニィーニの爪を外し、けれどその際レースには跡が残り、そうして。
落ち込んだ猫よろしく、ヴィクターはその日、壁に向かってしょんぼりし続けたのだった。
◇
「ヴィクター、お前……。"賢い猫"として俺が築き上げた十七年間を、よくも二週間で台無しにしたな」
話を聞き終えた猫が、言葉を発した。
その秘密を知るのは、ヴィクターだけだが。
「うっ。だが、リーリンスからは褒められたぞ。"動かずにじっとしていたなんて、偉いね"って」
「それはリーリンスの優しさだ。猫さえ
「そうだな」
わかっている。
それが過失を犯した
同意しながら、自責の念が蘇る。
そんなリーリンスを、危うく断罪しかけた。
ニィーニの活躍で事なきを得たが、その失態をどう償えば良いのか。
"媚薬"を使われていたからといって、情けないにもほどがある。
「…………」
「落ち込むなよ。お前は"猫初心者"だったからな、仕方ない。俺もそんなには責めてない。気にするな」
(ん?)
「そもそもお前に"猫の身体"を預けたのは俺だし、こうなることくらい予測して然るべきだった」
(んん?)
「お前の身体を使った俺は、"王太子"の評価を高めてやったけど、お前は俺ほど優秀じゃないから……、逆に悪かったな」
「俺はいま慰められているのか? それとも
おそらく後者だろうが、猫はふるふると首を振りながら、問いをスルーし言葉を続ける。
「まあ、この先お前がリーリンスを大事にしてくれたら、俺だって"
よくわからない方向で、猫に度量を示されてしまった。
(やれやれ……)
憤慨しても良いところだが、不思議とそういう気持ちが起こらない。相手が猫だからだろうか。
かわりに抱いた疑問は。
「そういえば、
「お待たせいたしました、ヴィクター殿下」
うん。猫との会話はここまでだ。
猫は喋らない。この世界において。
ここからは、リーリンスとの時間。
そんなヴィクターの前に、お茶とクッキーが並べられた。
(……クッキー? これはまさかリーリンスの手作り?!)
思わず動揺する。
公爵家に居た時、リーリンスのクッキー練習で倒れるベルシア公爵を見た。
(だ、大丈夫だ、落ち着け。俺はクッキーを勧められたことがなかったじゃないか)
「どうぞ召し上がってくださいませ、殿下。あ、ニィーニはダメよ、猫用じゃないから」
「にゃあーん」
(!! 以前勧められなかったのは、俺が猫だったからかぁぁぁ──!!)
盲点だった!
突然のピンチで呼吸困難に陥りそうな中、皿に目を落として「あれ?」と気づく。
綺麗な色をしたクッキーが載っている。見た目は普通だ。
だがその枚数、わずか三枚。
ヴィクターは得心した。
おそらく大半は失敗し、ほぼ炭と化したのだろう。
(成功し、生き残った精鋭が、この三枚だったのか)
まさかリーリンスが席を外したのは、厳選したクッキーの最終確認のため?
苦く黒いクッキーは、またベルシア公爵行きなのだろうか。
(……不憫だな、父親って)
婚約者との扱いの差が酷い。
公爵が明日の会議に欠席しても、咎めまい。
心の中で同情し、リーリンスに礼を述べながら、クッキーを頬張る。
窓が運ぶ優しい風が、緑の
自分の目で。自分の心で。
今度こそ、
ヴィクターは平和な時間を噛み締め、リーリンスの微笑みを、ゆっくりと味わったのだった。
「婚約破棄なんて、絶対にしない!!」~王太子です。夜会の途中で、猫にされてしまいました。 みこと。 @miraca
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