本のもと

虫十無

1

「おや、いらっしゃい」

 私は毎日この本屋に来る。どうしてかはわからない。本を買うときもあれば買わないときもある。多分今日は買わないんだろうなと思っていてその通りになることの方が多いのにそれでも毎日ここに来る。

 私の他に客を見たことはない。店員さん……店主さんなのだろうか、いつも同じ人がレジのところにいる、それだけだ。私はなぜ毎日ここに来ているのだろう。毎日毎日、この本屋の、この棚の前に来る。この棚の前に、今気づいた。どうしてだろう。棚を見上げる。いつもと同じ。今日は何も買わない日みたいだ。

「ありがとうございました」

 いつもと同じ声を聞きながら店を出る。


「いらっしゃい」

 今日も来た。私はいい客ではないだろうにいつも通りに挨拶してくれる。それに少し申し訳なさを感じながらいつもの棚の前に来る。私はここで何をしているのだろう、何を見に来ているのだろう。棚を見上げる。見た段の右端の本が気になる。今日の出会いはこれみたいだ。買って帰る。

「ありがとうございました」

 いつもと同じ声に見送られる。


「おや、いらっしゃい」

 毎日毎日ここに来る。やはりどうしてなのかはわからない。

 ふと思う、他の棚を見たことがあっただろうか。見たことないなんてそんなことがあるだろうか。それなのにほかの棚を見た記憶がどこにもない。どうしてこの棚を見るのだろう。棚を見上げる。この棚を毎日見ていて、ラインナップも私が買った時以外では変わった記憶がない。書名を一つ一つ目でなぞっていく。なぞっていく。すべるだけで何も頭に入ってこない。今日は違ったみたいだ。

「ありがとうございました」

 いつもと同じ声を後ろに帰る。


「いらっしゃい」

 店に入る。いつもの棚の前に来る。そこまで来て気づく、他の棚も見ようと思ったのに。けれどそこから足が動かない。棚を見上げる。そういえばいつも同じ段しか見ていない。それに気づいたとき、唐突にその段の真ん中の本に目が吸い込まれる。手を伸ばす。

「おかえりなさい」

 いつもと同じ声のいつもと違う音を最後に何も見えなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

本のもと 虫十無 @musitomu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説