一粒万倍日
真野てん
第1話
こんなところに書店などあったかな――。
仕事帰り。
ふと郷愁に駆られて立ち寄った裏通りには、懐かしい匂いのする店舗が所せましと軒を連ねていた。
安っぽい油の香りがすきっ腹を刺激する肉屋。
そのはす向かいでは藍染の前掛けにゴム長という、いかにもオールドスクールないで立ちの魚屋さんが、威勢のいい声を出している。
ひだりを見やれば、鉄板の置かれた駄菓子屋にたむろする子供たちが。
そして右を向けば
ああ――。
こんな感じだったわ――。
遠い記憶のなかにある原風景をさまよっているかのような。
男がそんな甘い感覚に軽い酩酊感を覚えていると、急に目の前から『本屋』の二文字が飛び込んできた。
唐突だった。
ついさっきまで自分は夕方の喧噪に包まれた、古き良き商店街にいたはず。
なのに、いまはもうその『本屋』以外は意識に入ってこない。
「あれ? こんなところに書店などあったかな?」
急に呼吸が重苦しくなって、営業でくたびれたネクタイをほどよくゆるめると、男はもう一度よく『本屋』の店構えを確認した。
どれだけ目を凝らしても、どういうわけだかその店の両隣りにあるはずの、商店街のほかの店舗が認識できない。
ばかりか辺りはまるで真夜中の湖畔のように静まり返っている。
これはどういうことだ。
男は奇妙に思いながらも、不思議と怖さは感じなかった。
すると『本屋』のアルミ戸が、ガラガラと軋りをあげて横滑りに開いてゆく。
招かれている――。
瞬時にそう受け取った男は、なんの躊躇もなく店内へと足を踏み入れていった。
なかは切れかかった蛍光灯の放つ、淡いがなんとも落ち着く薄暗さが待っていた。照明に照らされいるのは幅、二間半ほどの間を挟んだ両側にある本棚――ではなく、何やら雑多な物が無造作に置かれている陳列棚だった。
正確には書籍も置かれているのだから、本棚といって差支えないのだろう。
しかし世間一般でいうところの『本屋』の店構えとはちょっと違う。
さながら農村に一軒だけある便利な雑貨屋といった雰囲気だ。日用品なら一通り揃う感じのアレである。ジャパニーズ・トラディショナル・コンビニエンスストアだ。
男がフワフワとした足取りで店内を冷やかしていると、店の奥から「いらっしゃい」と声が掛かる。しゃがれた老婆の声だった。
これにはさすがに肝を冷やした男がそちらへ視線を送ると、そこには声に似つかわしい小柄な老婆が立っていた。
腰の曲がったモンペ姿のお婆さん。真っ白い髪を頭頂部でお団子にして、朱色のかんざしを差している。
「きょうはなにをお探しかな」
ケッケッケ。
不気味な笑みを浮かべた老婆が、男に語り掛ける。
「や、あの……こちらはえと……『本屋』さん……でいいんですよね?」
男が怪訝な表情でそう問いただす。
老婆は再び「ケッケッケ」と妖怪みたいな笑い方をすると「ウチは『本屋』だ」と頓珍漢なことを言った。
「もと、や?」
「そう。大本の本。根本の本。基本の本。ここにはお客の求める『はじまりの何か』が置いてある。それはあたしにゃ分からない。あんたが探すんだ」
「おれが探す……」
男が気の抜けた表情で陳列棚を見回していると、老婆は男の姿を足先から頭のテッペンまでよくねめつけた。「ふん」と一息ついて。
「あんた勤め人だね。なにをやってなさるね?」
「え? ああ――自動車のセールスです。最初は整備士でこの業界入ったんですけど……メカは人手が足りてるからってすぐにフロントマン……顧客管理に回されて、最終的に営業に」
「ほう」
「ははは。これでも夢持って入った業種だったんですけど、メカニックじゃ食えないっていうか、そもそも新人の採用枠が毎年あるから、会社が整備士をそんなに抱えたくないらしくて」
なにかすごい言い訳めいたセリフを繰り返していたように男は感じていた。
愚痴のようなことも口走った気がする。
それでも老婆は静かに彼の言葉が終わるのを待ってくれていた。
「もう車が好きだったのかどうかさえも分からなくなってて――って、こんなこと今更言っても仕方ないですよね……」
「ふむ。じゃあ探してごらん。すぐ見つかるよ」
男は老婆の言葉にパッと顔を上げて、うろんな瞳で陳列棚を眺める。
「見つかるったって、なにを――あ!」
男は走り出した。
ずっと握りしめていたアタッシュケースを床へと放り出して。
「こ。これは、み、ミゼットレーサー! しかもおれが始めて買ってもらったトミヤ製のフェニックスjrじゃないかっ」
彼が手にしていたのは、少年時代にハマった電池で動く組み立て式のレーシングカーのおもちゃであった。彼だけではない。当時の少年たちは、皆、レーサーだった。夢中になって改造したミゼットレーサーは宝物であり、時間も忘れて友人たちと走らせたものだ。
「それがあんたの『はじまりの何か』だったようだね」
「えっ?」
「きょうは一粒万倍日だ。なにかを始めるには持ってこいの日さ。お代は結構だよ。それ持って早く帰んな」
「いやいや、懐かしいって言っても、もうそんな
と、男が老婆へと振り返ったときだった。
彼はもと居た商店街の入り口付近に、ただひとりたたずんでいた。
目の前にはシャッターの降りた廃屋だらけの裏通りが広がり、そこには魚屋も精肉店も駄菓子屋も、もちろんあの『本屋』も存在しなかった。
きつねにつままれたような気持ちで放心していると、男は自分がアタッシュケースとは反対側の手に「なにか」を掴んでいるのに気づく。
それはかつての自分の愛車であるミゼットレーサー。
自動車業界に足を踏み入れることの、きっかけとなったレーシングマシンである。
男は手にしたマシンをキュッと握りしめると、不思議と笑みがこみ上げてきた。
「もう一度、走らせてみるか。なにかを始めるにはいい日だってさ、相棒」
少年の瞳に戻ったひとりの男は、夕陽の沈みゆく地平線へと駆け出していった。
忘れていた「なにか」を取り戻すために。
一粒万倍とは、一粒の種もみから一本の稲が出来、やがて万倍の米が獲れることを意味している。転じて、わずかなものが飛躍的な結果をもたらすことのたとえとされ、干支の組み合わせで吉凶を占う選日のひとつとされている。
あの『本屋』は、きょうもどこかで『はじまりの何か』を探している誰かを待っているのかもしれない。
一粒万倍日に店を開けて――。
(おしまい)
一粒万倍日 真野てん @heberex
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