古本屋の猫

惣山沙樹

古本屋の猫

 その古本屋を訪れたのは、バスを待つためだった。ここでは三十分に一本しかバスが来ない。外は大雨だ。喫茶店に寄っても良かったのだが、あいにく何も腹に入れる気が起きず、本でも見て過ごそうと決めてのことだった。

 私は著名な小説家の処女作を手に取った。文庫だ。値段は百円。これなら、バスに乗っている間にでも多少読めるかもしれないと思いレジの方を見ると、誰の姿も無かった。それだけではない。そもそもお客も私一人のようだった。


「すいません……」


 ためらいがちに声をかけた。レジの向こうには扉があって、そこに従業員用のスペースがあるだろうと踏んでのことだった。しかし、返事は無い。


「店主なら留守ですよ」


 ふいに、足元から声がした。その方を見ると、真っ黒な猫が一匹、尻尾を丸めて座っていた。


「ははっ……」


 まさか、この猫が喋ったとでもいうのだろうか。私はどうかしている。しかし、辺りを見回しても、人の気配すら無い。足元からの声は続いた。


「あたしがお会計できればいいんですけどねぇ。この手じゃできませんよ」


 猫はすっと前足を伸ばした。私は思わず飛びのいた。やはりこの猫が話しかけてきているのだろうか。


「喋っているのは君かい?」


 私は猫に問いかけた。


「ええ、そうですよ。古本屋に居る猫ですもの、喋るくらいはできますよ」


 本当に猫だった。猫はぐっと前足を踏ん張り、伸びをした。


「店主はいつお戻りに?」

「さあ、わかりませんねぇ。気まぐれな方なので。お代がぴったりあるようでしたら、置いておいてもらって、その本、持って行ってもらってもいいですよ」


 私は財布を開けた。ぴかぴかと光る新しい百円玉があった。


「じゃあ、これで」


 百円玉をレジのトレイに載せた私は、しゃがんで猫と目線を合わせた。


「ありがとうございました」

「いえいえ」


 猫は大きな欠伸をすると、ぷいっと外に出ていってしまった。外は雨だというのに。

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古本屋の猫 惣山沙樹 @saki-souyama

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