無名夜行 夢に見るような

青波零也

夢に見るような

 Xが瞼を開くことで、我々は初めて『異界』を観測することができる。

 彼の視界そのものであるディスプレイが明転する。そこに映し出されたのは、それこそ、夢のような光景だった。

 一面に広がるのは、幼い少女が夢見るような、全体的に丸みを帯びた家々と、少女らしい装飾がいたるところに施された町並み――現在の私から見れば、チープにすら感じられるそれだ。色は一様に淡い青や愛らしいピンク、つまりパステルカラーというやつだ。

 そして、玩具めいた町を行き交うのは、形も大きさもさまざまなぬいぐるみだった。どれもがかわいらしい姿をしているが、それが人間と変わらぬ滑らかな動きを見せているあたり、どこか不気味ですらある。

 何を隠そう、私は着ぐるみというものが苦手だ。アミューズメントパークというものは好きだし、ぬいぐるみも別に嫌いではないが、中に人間が入っているものはダメだ。どうして苦手なのかはよくわからない。人間と物体の境界が曖昧になるような感覚が、生理的に受け付けないのだろうか。数多の『異界』やこの世ならざるものを観測し続けてなおこんなものが苦手なのか、と言われたら苦笑いを浮かべることしかできないが。

 ぬいぐるみたちは、その場に立ち尽くすXの存在に気づいたのか、ぞろぞろとこちらに近寄ってくる。Xの膝くらいの背丈のものもいれば、Xとほとんど変わらない大きさのぬいぐるみもいる。

 彼らは言葉を発することはなかったが、めいめいに顔を見合わせ、それからXに視線を投げかけてくる。お前は誰だ、どうしてこんな場所にいるのだ。つるりとしたボタンの目がそう言いたげに思えてくるのは、私だけだろうか。

 そう、この幼い夢や憧れを煮詰めたような世界に、Xはあまりにも異様であるに違いない。このディスプレイに映るのはあくまで「Xの視界」であるためX自身の姿は見えないが、言ってしまえばいがぐり頭の冴えない中年男性であり、存在そのものがファンシーさとは無縁であって、つまり。

「……居心地悪い、ですね」

 そう考えているだろうことは、想像に難くなかった。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言えない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚は私の前にあるディスプレイに、聴覚は横に設置されたスピーカーに繋がっている。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 しかし、ぬいぐるみに囲まれるXを見ることになろうとは。俯瞰で見られないことをやや残念に思う。それはそれは興味深い光景であったに違いないから。

「すみません、ここは、どのような場所、なのでしょうか」

 Xはそれがどのような場所であっても、相手がどのような姿をしていようとも、ひとまず『異界』の住民とはコミュニケーションを試みる。私がそう命じているのは事実だが、律儀なものである。

 しかし、ぬいぐるみたちにはXの言葉は通じていないようで、こくんと首を傾げるばかりだ。これにはXも困ってしまったに違いない、「どうしようかな」という低い呟きがスピーカーから聞こえてくる。相手が意思を持っているように見える以上、コミュニケーションを試み続けるべきか、それとも彼らを放って『異界』の観測を開始すべきか、迷っているように見えた。

 すると、中でも巨大なぬいぐるみ――ミルクティ色の巻き毛がかわいいテディベアだ――がXに手を差し出す。手、と言っても指があるわけでもなく、丸く縫い合わされた腕の先端というのが正しいが。

 Xが躊躇いながらもその手を掴むと、テディベアは歩きだす。それにつられるように、様々な姿形のぬいぐるみたちもついてきて、街中に流れる陽気なバックグラウンドミュージックも相まって、さながら行進と言った風情だ。メルヘンチックな光景ではあるが、その中心にいるのがXというのがやはり奇妙ではある。

 ぬいぐるみたちはXを玩具の町の奥へ奥へと導いていく。色とりどりのタイルに、どこかプラスチックじみた宝石が散りばめられた道を踏みしめ、リボンやフリルのデザインがふんだんにあしらわれた町並みを通り抜けてゆけば、突如としてやけに開けた場所に出る。

 広場、だろうか。街中にぽっかり存在する空間の中央には、やはりかわいらしいが妙にチープな質感に見える巨大な噴水があり、鮮やかな虹色の水が噴き出している。ぬいぐるみたちは、噴水の周囲を囲むように立ち、各々が両手を挙げて水を浴びていく。きらきらと輝くそれを全身に浴びて、弾むような動きを見せていることから、喜んでいるようにも見える。

 この噴水は、一体何なのだろう。ぬいぐるみは何も語らないため、正確なことは何もわからない。ただ、今までそれぞれの動きをしていたぬいぐるみたちが、この噴水の前では突如として共通の儀式を思わせる動きに変わったのが、奇妙であり、愛らしさの中に不気味さも感じさせる。

 Xが、不意に、口を開く。

「……エタノールの匂いに似てます。その他、詳細はわかりませんが、薬のような」

『こちら側』で観測する我々が、Xの視覚と聴覚のみで『異界』を把握している以上、他の感覚――例えば嗅覚に依存する情報は、X自身しか知りえない。故に、Xは我々にもわかるように、自分の感覚に依存した情報を言葉にして告げるのだ。これは別に私が命じたことではなくXの判断、いわば我々への「親切」というやつだ。

 もちろん、Xが嘘をつかないとも限らない、が、今のところ私はXの言を信用することにしている。経験上、Xは咄嗟の嘘や誤魔化しというのが下手な方だとわかっているし、X自身がそういうものを嫌っているように見えているから。

「それと、これは……」

 Xはゆっくりと噴水に向かって歩んでいく。明るい音楽と絶えず噴き上がる虹色の水の音だけが聞こえる空間に、ぽつぽつと落とされるXの声だけが、いやに響いて。

「知っている、匂い。――死骸の、」

 その言葉を放った瞬間、ディスプレイの視界が激しく揺れた。

 Xに何が起こった? そう思う間に、ディスプレイ一面に映し出されたのは噴水の水が溜まっている場所。虹色の水面が眼前に迫っている。頭を押さえつけられて、水の中に落とされそうになっているのか? 視覚だけで判断することは難しいが、これがXの意志でないことは、わかる。

 それと同時に、もうひとつだけ、はっきりわかったことは。

 水の中に、何かが、沈んでいる。いや、言葉を濁しても仕方がない。そこに沈んでいるのは、人間の死体だ。白骨死体に、わずかに肉を残した死体、水を含んでぶくぶくと膨れ上がった死体、生きているのとほぼ変わらない姿の死体もある。だが、それらが全てXよりも遥かに小さな「子供」であり、なおかつ「死んでいる」のはXの視界だけでも明らかだった。

 無数の死体を沈めた噴水、そこから吹き上がる水を浴びて喜んでいるように見えるぬいぐるみたち。幼い夢を体現していると思われたそれが、奇怪な悪夢へとすり替わる瞬間。

 この噴水は何だ。この死体は何だ。このぬいぐるみたちは何なのだ。

『異界』に『こちら側』の論理は通用しない。世界の成り立ちがまるで違う以上、『こちら側』の「当たり前」は何一つ意味をなさない。だから、筋道立てた説明などできようもない。頭では理解しているつもりだが、どうしても、考えずにはいられない。これは何だ?

 だが、その前に考えるべきなのは――Xの無事だ。

 このままではXもまた水底の子供たちと同じ運命をたどるに違いない。いくら使い捨てを想定した『生きた探査機』といえ、Xほど従順で使い勝手のよい異界潜航サンプルはそうそういない、というのが我々の総意だ。できることならば、これから先もXを運用していきたい。

「引き上げを、」

 強制的にXを『異界』から引き上げるべくスタッフに指示を投げかけたところで、再びディスプレイの画面が激しく揺れた。思わず言葉を飲み込んでディスプレイを凝視する。

 ディスプレイに映し出されたのはXをここまで連れてきたテディベア。Xの体を押さえつけ、噴水の中に落とそうとしていた巻き毛に覆われた腕を、無骨な手で掴み返す。どれだけの力を込めているのか、太い腕がXのさほど大きいとは言えない手のひらの内で圧縮される。

「綿の感触。骨はなさそうです」

 我々に向けて握りしめた感触を伝えながら、不思議だな、と言うXの声は落ち着き払ったもので、理不尽に殺されかかっていたとは思えない。彼らしいといえばそうなのだが。Xはほとんどの場合、命の危険に対してまるで動じる様子を見せない。

 ただ、死の気配に動じないのと、己から死を望むのとは、Xの中では決定的に異なる。それも、これまでの『潜航』ではっきりしている。いつ来るとも知らぬ死刑の日までは死ぬわけにはいかない、というのがXの主義主張であるらしく、どのような状況でも生存を諦めずに行動し続ける。

 例えば、自分を沈めようとした相手を逆に地面に組み伏せるなど、して。

 相手はぬいぐるみだが、何せ『異界』のぬいぐるみだ。『こちら側』のイメージで語ることはできない。ただ、Xにとってそれはさしたる脅威ではないようで、組み伏せたそれの腹に膝をつく。

 テディベアはじたばたと抵抗を続ける。地面に叩きつけられ、腹を突かれても苦痛を感じている様子はない。このままXが体を退かせば、再び襲い掛かってくるのだろう。

 だが――。

 Xは握りしめていたテディベアの腕を引き、千切る。

 太い腕は肩から離れ、布を縫い合わせていた糸と、しらじらとした綿が千切られた腕の端で揺れる。それは、まるで似ても似つかないというのに、どこか人間の血管ないし筋肉を思わせてぞっとする。

 腕は胴体から無理やり切り離されたことで、一瞬激しく跳ねたが、それきりぴくりとも動かなくなった。Xはそんな腕を無造作に投げ捨てると、なおも暴れ続けるテディベアを見下ろす。

「なるほど」

 ぽつり、落とされた声はいつも以上に低く、聞いているこちらの背筋がぞくりとする。

「どこまでバラせば、動かなくなるのでしょうか」

 それは、ただただ無邪気な好奇心で、昆虫の脚や触角をもぐ子供のよう。皮肉にも、子供の夢じみた『異界』「らしい」言葉といえた。

 何とかXから逃れようとするテディベア、そして硬直していた周囲のぬいぐるみたちは、ほとんどはXの凶行に恐れをなしたのかその場から逃げ出していくが、残った一部はじりじりと距離を詰めてくる。

 このテディベア一体を相手取るならおそらく問題はないだろう。けれど、他のぬいぐるみたちに一斉に襲い掛かられればどうなるだろう。多勢に無勢という言葉もある。布と綿でできたぬいぐるみに見えていても、実態がどういうものなのかは、その場にいるXにしかわからないのだから。

 だから、私は改めて決断する。

「観測を中止。引き上げて」

 目には見えない命綱を引き上げて、Xを強制的に『こちら側』に引き戻す、一連のシーケンスを開始する。

 最後にディスプレイに映っていたのは、こちらに向けて一斉に飛び掛かってくるぬいぐるみ。その顔はどれもが愛らしく、故にこそ――、ひどく悪趣味な光景であったといえよう。

 ああ、夢に出そうだ。

 そう、思う。

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