第一章 最悪の出会い【KAC20231】

いとうみこと

第1話

 本屋で同じ本を男女が同時に取ろうとする。思いがけず触れ合う手と手。反射的に手を離し暫し見つめ合う。意に反して染まるふたりの頬。「あ、すみません、僕は大丈夫ですからあなたがどうぞ」


 ってなるでしょうよ、普通!


 かおりは自分が引っ込めた手をぐっと握りしめた。相手は香が引き下がったのをいいことに、本を手に取りすぐさまレジへ向かおうとしている。


「ちょっと待ってもらっていいですか」


 香は強めの口調で男の背中に呼び掛けた。


「何ですか? 急いでいるんですけど」


 気だるそうに振り向いた男は香と同年代に見えた。白の少しくたびれたワイシャツにダークグレーのベスト、同じくダークグレーのスラックスの下は黒のクロックス。短めの髪は見るからに洗いっぱなしで、黒縁の眼鏡はかなり度が強そうだ。この男が相手なら漫画みたいにひと目で恋に落ちることはないと思いながら、香は力強く一歩踏み出し男が持つ本を指差した。


「私もその本が欲しいんですけどっ!」


 香は大人として感情を表に出さないよう気をつけながら、語尾を強めることで不愉快さを表現した。


「でも、手を離しましたよね?」


 そう言うと男は再び背を向けて歩き出そうとした。


 は? 何言ってるの、こいつ!


 香の理性はそのひと言でいともたやすく崩れ去り、他の客が振り返るのも厭わず声を荒げた。


「手を離したら要らないって合図なんですか? そんなルールがこの本屋にはあるんですか? 私はその本をずっと前から探してて、今日やっと見つけたんですよ。運命の邂逅なんです! あなたに譲るなんてひと言も言ってませんっ!」


 男は面倒臭そうに頭をボリボリ掻くと、香の目の前までやってきて声を潜めた。


「いい大人が公衆の面前で怒鳴り散らすなんて感心しませんね。あなたの意図を確認しなかったことが不愉快だったのなら謝りますが、この本を譲る気はありません。何故なら、僕は昨日この本の存在を知りましたがあなたは前から知っていた。だったらネットで買うこともできたんじゃないですか? あなたは『運命の邂逅』と言いましたが、今の時代古本でもない限り書店にあってネットで見つからない本はそうそうないでしょう。では、何故そうしなかったか。簡単です。緊急性がなかったということですよね。僕は明日必要なんです。という訳でこの本を買う権利は僕の方にあるということでいいですよね?」


 それだけ言うと、あんぐりと口を開けたままの香に背を向けて男はスタスタと歩き出した。香が我に返った時には、既に男の姿はどこにもなかった。


             つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

第一章 最悪の出会い【KAC20231】 いとうみこと @Ito-Mikoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ