朽葉色の街、珈琲と花布の夜

御子柴 流歌

実を言うとこの街のヤツらは義理堅い

 夜の世界がまたこの街角に訪れる頃。冷え込みも徐々にではあるが強くなってきている。

 目抜き通りを車の群れが速度を上げて通り過ぎていくたびに、銀杏並み木の葉は揺れ落ち、過ぎゆく人らは皆、その風と排気ガスとに目を細め肩を竦めた。

 少し目線を上げると、白く陰った空にいくつかの星が見つけられたものだ。

 それが今は叶わない。

 まだよく星が見えていた夜の町が市街となり、さらには不夜城へと移り変わったことで背の高い建物が増え、夜空はいつまでたっても闇を湛えることはなくなった。それどころか、数ヶ月前にはついにこの目の前にまで高層建築物の波が押し寄せ、視野から空がほとんど消えてしまった。

 こうなってしまえば、視線は下へ下へと向くばかり。意識的に前を向くので精一杯だ。

「オヤジさん、元気かい?」

「君の方こそ」

 また一人、常連さんが現れたようだ。半年くらい前まで詰め襟を着ていた少年は、昨今の大学生よろしくプラスチック製のブリーフケースを携えている。

 ここは古書店。

 大通に面したところにある、古びた雑居ビルの1階。立ち退きやら建て替えやらとは無縁なビルディングの足下だ。最下層は石造りであるこの頑丈な見た目は、なかなかどうしてこの街の風景に染み込んでいて、今しがた話にも出した向かいに建設中の建物はこのビルの風体を模倣したモノになるらしい。重鎮の雰囲気すら漂わせているこの書店は、今し方訪れた彼のような学生の姿もある。

「久々だな」

「あ、ありがとうございます。いただきます」

 青年に、静かにコーヒーが差し出される。

 この古書店に常連が比較的多いのには理由あり。ここのオーナーである髭面の男の数少ない趣味はコーヒーだ。若い頃は特に何をするという目的もなく海外漫遊をしていたらしい。その中で南米やらアフリカやらのコーヒーの原産地を訪れた際に、何か琴線に触れたものがあったのか、ある時を境にコーヒーの産地巡りを繰り返すようになり、結果このようなことになっている。自宅には豆の貯蔵庫がある、という話は別の常連との話でチラリとこぼしたこともある。基本的に寡黙を絵に描いたような男だったが、所詮は男。趣味の話となれば、もっとも世間の大多数の男どもとは然程比較もままならないが、いわゆる「当社比」程度の比率では饒舌とも言える。

「レポートの提出期限が集中しちゃって、図書館に籠もりっぱなしですよ」

「精が出るな。好いことだ」

「ん……、まぁ、そうなんですけどね」

 やや青年の声のトーンが落ちたようだ。

「何だ。落第したか?」

 少しからかうような店主の声。彼自身の成績に依るため息ではないことは察しているようだ。

「いや、そうじゃないんです……けどね」

「となると、あれか。……恋という名の青春か」

「……」

 図星か。

 会話は途切れたようだが、何とも初々しい空気が流れている。無論、青年の周りにだけだが。

 大学進学以前からこの青年に思い人が居るということは、この店主は察している。度々、青年自身はうまくごまかしつつ説明できていると思っているようだが、それに気がつかないのはある種定番となったハーレム系物語の主人公くらいだろう。時々しどろもどろになったり、頬と耳と首とを赤くして話す姿は、何とも可愛らしいものだが。

 少し意識を他へと向けてみると、いつの間にやら人の姿が増えていた。

 大通り沿いに在る上に、今は丁度「帰り」の時間帯だろうか。気晴らしに、あるいは何かを求めに。はたまたあるいは、このコーヒーの芳香に吸い寄せられてか。またひとり、通り過ぎる直前で方向転換をしてきた者が居た。

 スーツ姿ではないが、おそらくは会社員か。フリーランスかもしれない。いや、あるいは大学院生だろうか。いずれにしても初めて見る顔だ。1日の疲れは少しばかり目尻に滲みかかってはいるが、くたびれた感じではない。幼顔のせいだろうか、そう見える。

 彼は右手首につけたスマートウォッチを見やると、すぐさま棚へと視線を戻す。左の人差し指でなにやら当たりを付けつつ物色を始めた。

「んー……」

 今度は甘えたような声が右から聞こえてきた。意識をそちらへ向けると、こちらは幾度か見た顔だった。

 小柄な女性だ。名は知らない。たまに店主と話をしている内容からすれば、大学生だ。この建物の最寄りにある大学(丁度今店主と話している常連客が通うところ)ではなく、地下鉄で数駅離れたところにあるところに所属している。家がこの近くだそうだ。

 珍しくこちらの棚に近づいてきた彼女も何かを物色中のようだ。完全に書物らの名に意識が向いている。

 それは、今「正面に来た彼」も同様だったようだ。

 同時に手が伸びて。

「あ……!?」「わ……!?」

 触れ合った。

「す、すみません! 全然見てなくて」

「わ、私の方こそ、すみません……!」

 後ずさりしながら気まずそうに謝る彼。

 わたわたと頭を下げ謝る彼女。

 そうして、顔を見合わせた二人の周りの時間は、――――少し止まったようだ。

 ……色恋沙汰というモノは、こうも雑多に散らばっているモノなのか。

「あの……」彼女が先に口を開いた。「この本ですよね。どうぞ……」

「あ、いえ。あなたの方が多分先に手を伸ばしてたので……」

 そして、譲り合い。

 嗚呼、初々しいったら。

 などと思っていたら、不意に御両人の背後に陰。店主がやってきていた。

「ああ、そいつはあと在庫が無いんだよなぁ」

「え、そうなんですか」

「うん、まぁ。あれだ。もしふたりともが良いって言えばの話なんだが……」

 わざとらしく言葉を区切る店主。

「ふたりで買ってくれないかな? そいつを」

 そう。一見無愛想な割にメルヘンチックなことを言うのが、この店主だった。

 再び顔を見合わせ、同時に微笑む。妙に波長が合っている。古書店に置かれた1冊の本を同時に取ろうとする時点で、何か通じるモノがあるに決まっているか。

 ほら。そこでコーヒーカップをソーサーに置き損ねかけた青年よ。切っ掛けなんてこういうことだ。物の弾みだっていいじゃないか。そこから物語が動き出してしまえば、あとは流れに任せて乗っていくというのも人生じゃないか。

「じゃあ、そうさせてもらいますね」

 そう言ったのは彼女の方だ。幾分か勝手知ったる者として先導した格好か。

 ヴィンテージのような、それでいてヌーヴォのような、不思議な香りがしそうな恋を最後まで見届けられるのだろうか。これはなかなかの僥倖だ。

 久しぶりの浮遊感へと身を委ねる準備は既にできていた。

 ゆっくりと今、はなぎれに手がかかる。

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朽葉色の街、珈琲と花布の夜 御子柴 流歌 @ruka_mikoshiba

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