失われた本屋

黒銘菓(クロメイカ/kuromeika)

『失われた本屋』の噂

 『失われた本屋』という都市伝説じみた噂がある。

 それは後悔や過去に残したものがある人間の前に一回だけ現れる本屋で、過去に失って、もう手に入らない筈の本が再び手に入れられるという不思議な場所だ。

 この話には他に何もなく、だからこそ都市伝説や噂の類の中でも埋もれていく類のものなのだろう。

 だから、私の目の前にそれが現れた時、直ぐに『失われた本屋』という話には結び付かなかった。

 私がそこに入ったのは、『BOOK』と書かれた本屋に吸い寄せられただけの事だった。


 「いらっしゃいませ。」

 入り口の引き戸を開けるとすぐ左側には店主らしい男が居た。これと言って何か印象に残る訳でもない男だった。

 本屋自体も人がすれ違えるかどうかの狭い一本道の左右が背の高い本棚で挟まれているだけのありがちな古い本屋。

 「お客さん、貴女は運が良い。丁度珍しい本が入荷したところでしてね。

 良かったら見てって下さいな。」

 男は営業スマイルを浮かべて店の奥へと続く道を左手で指し示した。

 「そう……」

 本なんてもう何年も手に取っていなかった。

 興味のある本なんて無いし、手に取ろうという気になれなかった。

 「少し、見てみようかしら?」

 本屋に足を踏み入れた。


 「懐かしい……」

 学生の頃に夢中になって読んでいた恋愛小説がそこにはあった。

 主人公の女が恋に落ちた相手は、実は自分の父親を殺した男だった。

 そして、男は初めから女の正体に気付いていて、復讐の為に近付いて来たと思ってその時をずっと待っていて……。

 最後にお互いにお互いの正体に気付き、復讐に燃える女の妹が男を殺そうと画策して……その後……。

 「あれ?」

 ページを捲る手が止まった。記憶が無かった。

 夢中になって読んで、一冊目がボロボロになって、新しく買った二冊目を友達にまで貸して、ストーリーが頭の中に鮮明にあるのに、それなのに最後を憶えていない。

 「そうだ……」

 あと一巻という所でこの作品は急に、未完のまま、幕を下ろしたのだった。

 噂だと、『作者の人が本当に主人公の様な恋に落ちたらしい。』という話で、フィクションの筈がノンフィクションになって、妹さんが本当に復讐に走ったとか?

 「あれ?」

 だから、ある筈の無い最終巻がシリーズの右端に置いてあったのに驚いた。

 有志の読者が『自分達の考える最終巻』を何種類も書いているのを見た。でも、これに書かれている著者は読者のそれではなく作者当人の名前だ。

 「あぁ、それは幻の最終巻ですよ。

 お目が高い。それも一冊だけ・・・・入荷した本の一つですよ。」

 店主の男が言った。

 「買います。」

 「まいどあり。」

 偽物ではなさそうだったので、買った。




 次に見つけた本は、よく知っている本だった。

 ページを捲る度に現れるのは、友人にそっくりな主人公の友達、嫌いだった上司によく似た被害者、変わり者の弟を彷彿とさせる警部、芝居じみた台詞回しで話してよく私を笑わせてくれた大事な人によく似た名探偵、私によく似た主人公………。

 ストーリーやトリック、文章は粗だらけ。だけど、嫌いになれない小説。

 今まで見たどんな小説よりもストーリーを知っている。裏話を知っている。苦悩を知っている。秘密を知っている。それが生まれた訳も知っている。

 そして、それが決して世に出なかった事を知っている。

 「………ごめんなさい。やっぱりこの本は返品します。」

 手に取った本を戻し、買った本を店主に渡す。

 「良いのですか?他では手に入らない、今ここでしか手に入らないかもしれませんよ。」

 驚いた様な目をしてこっちを見ている。

 「良いんです。私にはそれを手にする資格はありませんから。」

 私は逃げる様にして本屋を飛び出した。


 「あーあ。また・・買って貰えなかった。」

 店主のそんな呟きは、本屋と共に消えてなくなっていった。


 私が今まで本を手に取らなかった理由を思い出した。

 自分がしてしまった取り返しのつかない事を思い出した。

 違う。憶えていたし忘れるなんて事は出来なかった。忘れたフリを必死にして、押し殺していただけだった。

 あれは忘れられない本だ。そして、決して手に入らない失われた本だ。

 そして、私にはもう手に取る資格の無い本だ。

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