怪談「赤黒い本」

汐海有真(白木犀)

怪談「赤黒い本」

 それは六月のことでした。外ではしとしとと冷たい雨が降っていて、どこか物憂げな空気が町の中を満たしていました。


 わたしは濡れた傘を左腕に掛けながら、いつものように古本屋で小説を眺めていました。気になるタイトルのものがあったら手に取り、裏表紙に印字されているあらすじに目を通して、そっと棚に戻す。その日は余りお金を持っていなかったのですが、本の虫であるわたしは、こういう一期一会のような遊びをするだけで幾らか幸福になれてしまうのでした。


「あの……」


 左の方から声を掛けられて、わたしはどきりとしました。声のした方を向いて、思わず息を呑みました。

 腰の辺りまで伸びた真っ黒の髪。前髪までもが長くて、どういった顔立ちをしているかはわかりませんでした。身に付けているワンピースと帽子も、夜空を塗ったような黒さでした。


「ほんを、さがしているんです」


 彼女はそう言いました。わたしは頷きながら、一つの違和感に気付きます。その人は傘を持っていなかったんです。鞄もないから、折り畳み傘もないはずです。それなのに少しも濡れていなくて、それが何だか不気味でした。


「……本、ですか?」

「そうです、阿久津あくつアマエの、『吐血の快楽』というしょうせつなんですが」

「あくつ……?」


 聞いたことのない作家でした。でも今わたしたちがいる本棚は、「は行」の作家の作品を集めているところでした。わたしは取り敢えず、微笑みました。


「多分、こっちだと思います。ついてきてください」

「ありがとう、ございます」


 わたしたちは目的の本棚に移動しました。彼女は「ああっ、あったあ……」と嬉しそうな声を漏らします。病的なまでに白く痩せ細った腕が、一冊の本に伸びました。


 気味の悪いほどに赤黒い背表紙でした。でもそこには、タイトルも作者の名前も出版社も、何も記載されていませんでした。彼女はその本を引き出します。表紙にも裏表紙にも何も書かれていなくて、赤と黒が混ざり合ったような色だけが、そこに存在していました。


 その人はゆっくりとページをめくりました。わたしはどうしていいかわからず、読書を見守っていました。


「う……うう、ふ、」


 少しして彼女は、声を漏らし始めました。


「うふううふふふっ、ひへへ、ふへへへえ、へへっ、うふふへえええっ、えへへえ」


 わたしは呆然としながら、その人の奇妙な笑い声を聞いていました。彼女はわたしの方を見ると、前髪の隙間から覗く真っ赤な口元を、三日月のようにつり上げました。


「おもしろいです、あなたも、よんでみてくださいよ」


 彼女はそう言って、わたしに読んでいたページを見せました。


 ……そこには黄ばんだ紙だけがあって、文字など一つも書かれていませんでした。


「うふふふっ、ああ、おもしろいっ、うへへひへっ」


 再び本を読み出した彼女に、わたしは堪らなくなって逃げ出しました。古本屋を出て、傘をさすことすら忘れながら、走りました。じっとりと濡れた衣服が肌に纏わり付く感覚を、よく覚えています。




 一週間ほど経って、わたしは再びその古本屋を訪れました。


「あ行」の作者の作品が並んでいる箇所に、恐る恐る近付きました。でももうそこには、赤黒い本など存在していませんでした。


 あのひとの、そしてあの本の正体は、未だにわかっていません。


 ……わからない方が、幸せなのかもしれません。

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怪談「赤黒い本」 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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