〈異〉への扉

隠井 迅

第1話 神保町のとある古本屋

 この春に都内の私立大学に入学する予定の甥が、大学の入学準備のために上京してきた。


 甥は、神楽坂に住む〈私〉の2LDKのアパルトマンから徒歩で大学に通う事になった。そのため、住居探しや家具購入といった、新生活の準備の必要はなく、甥には、これまで私が物置代わりにしていた書斎を使ってもらう事にした。ただ、その部屋は長年放置状態だったので、人が住めるレヴェルにまで、掃除と片付けをする必要があった。ただ、確定申告の準備で多忙を極めていた私には、甥のために部屋の片付けに割く時間が現状全くなかった。そこで、掃除と片付けに関しては、春からの住居人である甥自身にやらせる事にした。そのため、合格が決まるや早くも、甥は私の家に転がり込んで、やがて間もなく自分の根城となる部屋のカスタマイズに腐心していたのである。


 午後一時を過ぎた頃、私は甥を連れて、神楽坂からメトロに入って九段下経由で三駅移動して、〈神保町〉を訪れていた。


 神保町は、沢山のカレー専門店が軒を連ねている、東京の〈カレー街〉の一つなのだが、重度のカレー・ラヴァーである私は、最低、週一回は神保町のカレー店を訪れている。

 そんなカレー中毒者である私が、この日、カレー初心者である甥のために選んだのが、その創業が〈大正十三年〉にまで遡る事ができる、老舗中の老舗カレー専門店である「共栄堂」で、この店は、日本人向けにアレンジしたスマトラ・カレーを提供しているのだ。


 いつも通りに、ビーフカレーを注文する事にした私は甥に言った。

「ナツヒコ、おごりだから何でも好きなのを頼みなよ」

「あんがと、トントン。んじゃ、遠慮せず、この『タンカレー』ってのにするよ」

 甥、夏彦は、私の事を「トントン」と呼んでいるのだが、それよりなにより、ここぞとばかりに、甥は、メニューの中で最も高い品を選びやがったのであった。

「ナツ、この店に来たら、〈焼きりんご〉を頼まなくちゃ、モグリなんだぜ」

 デザートの「焼きりんご」とは、林檎をまるごと焼いたもので、共栄堂では、十月から四月までの半年、しかも、一日三十個だけしか出されていないレア・メニューなのだ。

「なら、僕、そのリンゴもゴチになるよ」


「で、どうだった?」

 カレーを堪能した後に、デザートの林檎を頬張る甥に、私は感想を求めた。

「そだね。僕、屋台の焼き林檎みたいなのを想像していたけれど、柔らかくてビックリした。そして、ものすっごく甘かった。神保町は、大学からも、そんなに遠くないし、大学に入ったら新しい友達を連れて、また、ここに食べに来たいな」

「この焼きリンゴ、四月までの期間限定品だから、なるべく早く、友達作らんとな」

 甥は、新大学生にしては、ちょっと子供っぽい所があるので、私は少し心配もしているのだ。


                   *


 カレー店を後にした私は、甥と一緒に古本屋を覗いてみる事にした。

 神保町は、カレー街であると同時に古本街でもあるので、カレーを食べてからの古本屋巡りというのは、カレー愛好家にして活字中毒者でもある私にとって、神保町に来た時の行動パータンとなっているのだが、進学先が文学部である甥を神保町に連れてきたのは、私の甥もいつの日か古本を求めて神保町・古本街を巡る事になる、と確信していたのが真の理由であった。


 神保町の目抜き通りである靖国通りを歩きながら、私は甥とこんな話を交わしていた。

「なあ、ナツ、最近の小説や漫画、アニメとかだとゲームの世界に入ってしまう、ゲーム世界への転移って物語が一つのジャンルになっているよな」

「たしかに、そうだね」

「つまり、さ。ここではない何処かに行きたいって衝動がゲーム世界への転移という形で描かれているんだけれど、ひと昔前ならば、転移先ってテレビの中だったんだよね。そして、さらに昔は……」

「『昔は』?」

「転移先は本の中の世界だったんだよ」

「へえ」

「だから、今流行りのゲーム世界転移ものってのは、テレビの中や本の中への転移と、想像力の根源は同じだと思うんだよね」

「なる」

「実は、自分も、子供の頃には、本の世界に入れたらって夢を見てきたし、そして大人になってからも、古本街に来ると、もしかしたら、自分を本の世界に導いてくれる、そんな魔導書に出逢えるかもしれないって妄想を、つい抱いてしまうんだよね」


「トントンは、永遠のチューニ病患者だね。ねえ、この道、曲がってみようよ」

 そう言って甥は、靖国通りに接している細道をぐんぐんと進んでいった。

「この店に入ってみようよ、トントン」

 あれ、神保町にこんな店あったっけ?

 私は訝しんだ。

 幾度となく神保町に足を運んでいる私であったが、甥が取った路地も、指さす店にも全く見覚えがなかったのだ。

 もっとも、あまりにも頻繁に神保町に足を運んでいるため、いつも行く店や経路が固定化してしまっており、存外、知らない細道や店も実は数多いのだ。


 そんな事を考えながら、その古本屋の扉を開け、店の敷居を跨いだ瞬間、私は、頭が揺れたように感じられ、軽い眩暈を覚えた。

 それは、異なる世界に入り込んでしまったような感覚と呼んでよいかもしれない。

 だが、私の視界に入ってきたのは、所狭しと並び置かれた本棚と、堆く積み重ねられた本の山という普通の古本屋の店内状況であり、異世界に迷い込んだ感覚は錯覚であったようだ。


 そんな妄想に捕らわれていた私を他所に、甥は、導かれるように店の奥へとどんどんと進んでゆき、気付くと、甥は一冊の本を手に取っていた。 そして本を開いた瞬間、 半透明の甥の分身体の如き何かが、その肉体から抜け出て、本の中に吸い込まれていったように私には見えたのであった。


「ナツっ!」

 私は、本を手に持ったまま佇んでいる甥の両肩を掴んで数度揺すると、数秒ほど意識が飛んでいたらしき甥は、頭を二、三度左右に振って、虚ろな目を私に向けた。

「ナツ、お前、ちょっと様子がおかしいよ。店を出て、神楽坂の家に戻ろう。本当に、お前、どうしたんだよ」

「俺、本の中の世界、ここではない異なる世界に居たんだ」

「えっ!」

「そこで〈四年間〉、世界を旅していたんだ」

「お、お前、い、一体、何を言って……」

「家に戻ろう、オジキ」

 そう言って、その古本屋の敷居を跨いで神保町の街に出た甥の表情は、そう、子供っぽい甥のものではなく、大学卒業を控えた大人の表情に私には思えたのであった。


                             〈了〉


〈参考資料〉

 〈WEB〉

 『共栄堂』、二〇二三年三月一日閲覧。

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〈異〉への扉 隠井 迅 @kraijean

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