垢嘗(あかなめ)
その日は、朝から土砂降りだった。
台風が迫っているらしく、午後から休校になった。速足で帰宅を急ぐクラスメイト達。早く帰らないと、嵐に巻きこまれるかもしれない。
だが、私。
「水木、嫌でも帰れ。決まりなんだ」
私の家庭事情を多少なりとも知っている、担任の男性教諭が声をかけた。なんともいえない複雑そうな顔ををしているところ見ると、担任も迷っているようだ。この取り扱いが難しい生徒をそのまま帰していいものかと。
「なら、センセが送って行ってよ」
透けて見える。
なので、私は少し意地悪をすることにした。
「心配なんだったらさ、そのままどこかに連れて行ってくれてもいいよ」
例えば、先生の安アパートとか。
「ば、馬鹿なことを――」
――言ってるんじゃない。そう、慌てて。逃げるように、先生は行ってしまう。
情けない。臆病者。すぐ逃げる。
だが、私は知っている。いつもちらちらこちらの姿を目で追っている。
気になるなら、もっと踏み込んでくれたらいいものを。
「シラけ……。先生と生徒モノの同人誌みたいにはいかない……」
主に自業自得で、最悪な気分はより最悪になった。
◆◆◆
「と、言うことがあったの。だから今日はイラついてる」
「ふむ。それは、なんとも意気地なし――、と言いたいところだが」
ガタガタ、ガタガタと、
風に揺さぶられた古いガラス戸が騒音を立てる。倫さんが、「静かにせよ」と声をかけると、ピタリと止まる。薄暗い
しめっぽい話をするときに、雑音は邪魔だ。
「その状況でせめられては先生殿も気の毒であろうに。しげこはその先生を好いておるのかい」
「……は、まさか」
過去一でダウナーな気分の私は、
「調子悪いから、ふざけただけ」
「なれば、彼に罪はあるまい」
その通り。先生は悪くない。むっつりスケベでモテなくて、6月に入って衣替えが済んだ女生徒の制服姿にどぎまぎしている様が、傍から見ていても丸わかりであっても、確かに先生は悪くない。
「そうね。一人でイライラしてるだけ」
「さもありなん。まぁ、気持ちは分かるが」
倫さんは、かび臭い本が並ぶ一服堂の奥の座敷で、今日ものんべんだらりとしていた。家に帰りたくない。されど行き場がない。そんな私の逃亡先は個人書店であり、倫理観ゆるゆるの
「今日はお前さんの他にも、行き場のない子がいるからね。お前さんだけを帰すのは
倫さんの隣には猫がいた。三毛猫。手を折り曲げての
「迷い猫のようでな。腹を空かせているようだが、あいにく
「であるから、しげこ。その子をしばらく見ていておくれでないかい。
「……おっけ」
くさくさしていた私は、降ってわいた可愛い生き物に目を奪われはじめていた。
まだ子猫だろうか。私の知る猫よりもずいぶん小さく感じた。
背中をさすると、にゃあと小さく鳴く。
「その猫な。目を離さぬよう。悪いモノが入り込むかもしれぬ故。なに、難しい事ではない。猫と遊んでいればよいだけだ」
「うん、うん。わかった」
倫さんは、うすぼんやりとした暗闇の店の奥に、音もなく引っ込んでいった。
そして、猫と二人きりになった私は、少し機嫌を直して猫を見つめた。
にぁお。とひと鳴き。香箱座りのまま、目を開ける。
暗い店内だからか、瞳孔が丸い。猫はいつでも可愛いが、瞳孔は丸い方が愛らしいと思う。眩しい中で見る縦に
「君はどこから来たの?」
指を口元にもっていくと、少しのためらいの後、ぺろぺろと舐めはじめる。
猫の舌はざらりとして、少し痛い。肉をこそげ落とすためにあるのだという。
「君も独りぼっちなのかい」
私の問いかけに応えた訳ではないだろう。だが、にゃおと鳴いた猫は「お前と同じだよ」と言ったように思えた。
「なんだかね。生きるのに疲れてるんだよ。人間はどうしようもないね。意味もなく死にたい気分になるんだ」
私は猫を抱えて、倫さんの座敷にごろりと横になった。ひんやりとした畳は湿気だらけの6月でも気持ちが良い。猫はそのまま私の胸元にのぼった。
「ちょいちょい」
猫の鼻先に指を持っていく。
ざらりとした舌で、ペロリと舐められた。何も味のするものは付いていないだろうに。舐めるのが好きな子なのだろうか。
しばらく、猫の肌触りと重さを楽しんでいたが、抗えない睡魔に襲われる。
「はあ、眠くなってきた……」
気が立っていた私は、猫のおかげで緊張の糸がほつれたようだ。
意識が睡魔に飲まれる。ごめん倫さん。遊んでおけと言われたけど、少しくらいいいでしょ?
倫さん御用達の人を駄目にするクッションを引き寄せ、倒れ込んだ。にゃおと声が聞こえる。小脇に暖かい温もり。どうやら、猫もついて来たようだ。
◆◆◆
夢。
夢だろうか。
教室にいた。今日のように曇天ではない。朱に染まった空。沈みかけの日の光は眩しいほどに室内に差し込む。
私は机に腰かけていた。胸元のスカーフを取り去り、ボタンを開けていた。
くつしたも、下ばきも投げ出して、はしたなくもスカートを
「なめて」
自分の声ではないと思った。が、それは私の声だった。
「ほしいんでしょう?」
伸ばした足の先には、ひざまずいた先生がいた。余裕が無さそうに、視線が右往左往している。足先をふりふりと揺らすと、ようやく視線が定まる。
「はやく」
私の命令に、熱い吐息が、足の甲にかかる。
先生は、どんよりと濁った瞳で、ゆっくりと顔を寄せた。
べろり
舌が、私のさし出した足の甲を舐めた。
猫の舌。ざらざらとしているけれど、さっぱりとした舌とは全然違う。
湿っていて、ぬるぬるして、情念がこもっている人の舌。男の舌。
タガが外れた先生は、一心不乱に、私の足をねぶった。足の甲から始まり、くるぶし、そこから戻って
「――ハァ、気持ち
私だが、私ではない声は、愉悦を含んだ冷たい声で目の前の獣を蔑む。
「は、は、は――」
獣には褒美のようだった。短い息遣いはまさに獣。
獣の奉仕は、足先にとどまらず、ふくらはぎから、ふとももに至る。
内ももをさすり。舐める。
先生の熱い吐息が、非常に気持ちが悪い。だがその気持ち悪さを好んでいるのも私だった。
足だけでは満足できなくなった獣は。哀れっぽく視線を上げ、懇願する。
見ながら、口元に酷薄な笑みを浮かべた私は。
「好きにしなさい」
と、言った。
先生がおおいかぶさった。のしりと重さが増す。
獣は、胸元がお気に入りのようだ。こんな薄く、肉付きの無い身体どこがいいのか。顎から喉元、うなじから鎖骨、べろりと舌が這わされる。
服を脱がせて、肩の
制服は、腰あたりまで下げられて、私の胸元はすっかり露わになっているというのに、ひたすらべろべろ、べろべろと、首回りを舐めるのだ。
獣の癖に、まだるっこしい。
これでは、舐めるのが目的のようだ。そのようなものは、獣では無く猿である。
「猿」
そう思った途端、先生は猿に変じた。
小さく、しわだらけの薄汚れたはだかの猿。猿の癖に、毛がない。つるりとした禿頭の猿だ。節くれだった身体は、人間ではあるまい。べろりと、私の顎を舐めた猿は顔を上げる。真っ赤で長い舌を下げていた。シワの多い顔には理性を感じないガラス玉のような目。にいとわらった。
◆◆◆
「そこまで」
パン――と、
いやに
鼻先には、猫がにゃおと言いながら頬を舐めていた。ざりっと痛みが走る。
「目を離すなと言ったであろうに」
見降ろす倫さんは、お盆を持っていた。座敷に置かれると、猫が離れた。温めた牛乳だろうか、皿に乗っていた。猫の興味はそちらに移ったようだ。
「可哀そうに。首が真っ赤だよ。ひどく舐められたのだろう」
言われて首筋に手をやると、ひりひりと痛んだ。もしかして寝ている間ずっと舐められていたのか。
「気をつけるといい。
しゃれこうべというのは、白骨死体の事だ。
確かに、寝ている間に、骨だけにされてはたまらない。
「それは……、怖いですね」
「だが、今のしげこには良かったのかもしれぬな。心にも垢は積もる。垢は体に悪かろう。お前さんは普段は自分でどうにかしているようだが、今日はずいぶん溜めこんでおった。だが、すっかり嘗め取られたようだ」
何のことを言われているのか分からなかったが、不思議と気が晴れている。
心の垢……、あの猿は倫さんの仲間のあやかしだったようだ。
夢の中にも居るのかい……とか思っていたら、首元がひどく痛んだ。
「猫の舌は荒いからね。どれ、薬を塗ってやろう――」
どこから取り出したのか、倫さんの手には、小さな小箱に入った緑色の軟膏が握られていた。倫さんの白く細い指が、ねとりと、薬を塗った。
「ひゃん」
「ふふ、愛い奴よ。どれ、もっと塗らせるがよい」
倫さんがにやにやと笑いながら塗る薬は、とても冷やっこかった。
あやかしぃ本屋『一服堂』の倫さんは今日もぬらりとしている 千八軒@サキュバス特効 @senno9
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