プロローグ

 

 時刻としては夜の区分だが、空にはまだかすかに薄明かりが残るころ。

 風歌は軽音部の仲間たちと都会の道を急いでいた。

 行き先は、一部のマニアから愛される知る人ぞ知るライブハウス。人前での演奏は修高祭以来となる。

 緊張からか皆の気はどこか急いていて、時間的にはまだ余裕があるものの、一人が近道をしようと言いだした。

 反対する者もなく、やや大きめの公園の中をよぎっていく。

 街灯も人気も少ない空間だった。園内を吹き抜ける風が余計に寂寥感を掻き立てる。

 一人なら、きっと不安に駆られていたはずだ。公衆トイレが設置されていたが、よほど切羽詰まっていないかぎり利用することはないだろう。

 しかし、このメンバーと一緒なら何も恐れる必要はない。

 トイレに続き、会社員らしき中年男性が小道で仰向けに倒れているのを発見した。

 死体?

 いや、酔い潰れているだけのようだ。やはり怖くない。むしろ悪い人に財布を抜き取られたりはしないかと、こちらが心配になったほどだ。加えて今が真冬なら、凍死の可能性も危惧してあげなければならないところだった。

 が、幸いにして今は夏。八月もまだ半分残っている。

 風歌たちは特に気に留めず、会社員の傍らを過ぎていった。

 薄暗い公園からようやく抜け出ようとしたとき、ライトを灯した一台の自転車が、風歌たちと入れ違いに外から入ってきた。

 すれ違いざま、どうにも風歌の体はもぞもぞし、その足も自然に止まってしまった。

 自転車が園内へ消えていく。

ふう、どしたん?」

「ごめん、さき行ってて」

 風歌はきびすを返すと、ひとり、駆け足でトイレのほうへ戻っていった。

 心配の種が、ほかにもあったと気づいたのだ。

 交通事故だった。

 さきほどの自転車はうまく会社員をかわせたとしても、まもなく辺りは一段と暗くなる。次の自転車も同様に衝突を回避できるとはかぎらない。

 せめて、道の隅にでも会社員の体をどかしておきたい。

 思い立った途端、風歌の体はそのように動いていた。

 戻ってみると、会社員の姿はすでになかった。

 酔いが覚めて歩き去ったか。

 そう安堵したのもつかの間、その姿を、すぐ脇の樹脂製の柵の上に見つける。丸木に模した成形品を組み立てた柵で、高さは風歌の脚でも楽々とまたげるほど。公園の内外を隔てており、越えた先は車が頻繁に行き交う車道だ。会社員はいまだ夢の中の住人らしく、上から被さるように柵に抱きついていた。支柱の後ろに腕を回し、愛おしそうにさすりながら、何とかちゃんの背中って意外と筋肉質だね、お尻はどうかな、などと寝言を繰り返している。

 ひどく前のめりだった。今にも車道へ頭から転落しそうになっている。

 ヤバいヤバい。

 これ、自転車に轢かれるどころじゃないよ。

 いよいよ事故死してしまいかねない。

 まさに懸念した矢先、傾きを変え始めたシーソーのように、会社員の足がふわりと地面から浮いた。

「ぶひゃっ」

 のどから変な声が出るも、風歌はとっさに手を伸ばし、両の足首を見事つかんだ。

 そのまま引き戻そうと後ずさりする。

 が、わずかに半歩ほどしか下がれない。

 相手の体が重いからではない。会社員は特に肥満でも巨漢でもない。

 重いのは気持ちのほうだった。

 風歌の頑張りに対し、会社員は、何とかちゃんは絶対に離さないもん、と寝言で決意を堅くしながら、両腕でがっしりと擬木ぎぼくにしがみつき、必死にあらがっていたのだ。

 風歌はあきれ、脚を地面に投げ捨てた。

 すると今の決意は何だったのか、会社員もはしごのように横木を一段ずつ下りてきて最後に手を離し、再び眠る人となる。

 このまま放置しようかとも考えたが、場所が場所だ。当初の計画どおり、もう少し安全な所へ移ってもらおう。

 声をかけてみた。

「もしもーし。そんなトコでごろごろしてたら危ないですよー。車に轢かれちゃいますよー。轢かれたら痛いですよー」

 ぺちぺちと頬を軽く叩いてもみる。

 今度は寝言とも寝息ともつかない半端な声が返ってきた。

 いずれにせよ、自助の精神は期待できそうにない。

「やれやれ……」

 風歌は背中のベースケースをいったん近くのベンチに置き、戻ってきて会社員の肩を担いだ。これで安全な場所まで引きずっていけばよい。

 が、そこまでだった。

 動けない。

 またしても柵から半歩しか離れられない。

 会社員が反対側の手で、再びがっしりと柵をつかんでいたのだ。

「ええー……」

 アップテンポな曲の十六拍分、風歌は中腰のまま途方に暮れた。

 そこへ何者かの影がスッと現れ、柵の手を力づくで引き剥がした。取った腕をそのまま自分の肩に回し、風歌と同じく会社員の半身を支える。

 影が背筋を伸ばしながら告げた。

「せーので」

「うん」

「せーの……!」

 二人、そろって足を踏み出した。

 動いた。今度こそ引きずっていけている。

 同時に、会社員の顔も動いていた。

 何やら風歌のほうを向き、くんくんと鼻先でうなじの匂いを嗅いでくる。

 不穏な気配を察して目を向けると、薄目を開けた会社員がひょっとこのように口先をすぼめ、キスしようと迫ってきていた。

「やっ」

 風歌は思わず手を離し、さっと後ろへ飛びのいてしまった。

「あっ」

 影のほうでもバランスを崩し、彼自身はどうにか踏ん張るも、そちらでも手を離してしまう。

 完全に支えをなくした会社員が半回転して背中から地面に落ち、なおも半分夢の中にありながら、何とも残念そうに嘆いてみせた。

「チューくらい何だよう……」

「ざけんな!」

 すかさず怒鳴ったのは影だった。

 そのあまりの間のなさに、一つ前の件、自分が転ばされそうになったことで怒っているのかと風歌は身をこわばらせた。

 勘繰りすぎた。

「セクハラ親父! お前に生きる資格はねえ!」

 吐き捨ててから、彼がこちらを向いた。

「こんな奴、ほっときゃいいよ」

 対して、地面に落ちても横になれれば快適なのか、会社員は再びのんきに寝入っている。

 風歌は静かに頷き、提案した。

「……道路に投げ捨てちゃう?」

「死ぬ死ぬ、死んじゃう!」

「生きる資格――」

「ないって言ったけど! い、命だけは助けてあげようよ……」

 その困惑した口ぶりに、風歌はくすりとした。

 相手もようやく安堵したらしく、えーと、と周囲を見回す。

 目を留めたのはベンチだった。

 風歌がベースケースをどかし、彼が負ぶった会社員をそこに寝かせる。

 その際、会社員はまたしても少し覚醒し、俺はホームレスじゃない、一緒にするな、などと暴言をいくつか吐き散らかした。ネトウヨだったのかもしれない。

 ただ、体のほうは引き続き寝床を求めていたらしく、特に抵抗はなかった。まどろむ意識も結局ベンチを受け入れ、そのため幸か不幸か、腰骨の痛みは夢の中で味わうこととなった。

 会社員が寝かされたベンチは、角張った横木が座面の上に不自然に数本しつらえられたもので、いわゆる排除アートだったのだ。

 眠りながらも、波のように苦悶の表情が浮かんでは消える。

「自業自得」

 断じたのは彼が先だった。

「自業自得」

 風歌も判決を重ねた。

 会社員がベンチから転げ落ちてしまわないか、二人して、しばらく上から覗いていたのだ。ひとまず、その心配はなさそうだった。

「さてと」

 ベースケースを風歌が背負い直す。彼が改めてこちらに視線を注いだ。

「もしかして――」

 その口から意外にも、まさにこれから向かおうとするライブハウスの名が飛び出す。

「え?」

 風歌は軽く驚きつつ、うんと頷いた。

「やっぱり」

 彼がにこりと微笑んだ。

「俺も行くとこ。あそこ、音響サイコーだよなあ!」

 公園の出口へと向かいながら、二人の会話は興奮気味に弾んだ。

「主催ライブ?」

「それが夢。軽音部みんなの」

「すごい。ぜったい行く。いつ?」

「気ぃ早い。バンド名だってまだ決まってない」

「そっか」

「うん」

「いけね――」

 公園を出たところで彼がはたと立ち止まった。

「自己紹介」

「あー……」

 彼は気づかなかったようだが、風歌の反応は、自分では明らかに気が抜けていると分かってしまうものだった。

 彼と違って、風歌は相手の顔と名前をすでに知っていたからだ。

 ただ、そのことを伝えるつもりは毛頭ない。

 遠藤えんどうじゅん

 ユン・ジュン?

 どちらを名乗るのだろう。

 いや――。

 夜風がそっと髪を撫でていく。

 どっちでも。

 名乗った名が彼の名だ。

 風歌はただ素知らぬ顔で涼やかに耳にし、以後は自分が何度もその名を口にすることになるのだろうと、心地よい想像を巡らせる。

 それだけだ。

 なぜなら。

 二人は今日、偶然に出会ったのだから。

「俺は――」

 彼はやや照れたように自分の名を告げる。

 風歌も前髪を整え、少しはにかみながら名乗る。

 街灯が二人を包んでいた。

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叫べ、風歌 東京カウンタープロテスト Taka @Taka37564

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