最終話 ノーヘイト(4)


     4


 新宿駅は世界最大級のターミナル駅だ。

 鉄道五社が乗り入れており、一日あたりの乗降客数は合わせて三、四百万人に及ぶ。始発から終電までの時間で割れば、一分ごとに約三千人が新たに来ては去っていく計算になる。

 それだけの人数をさばく駅の面積も世界トップクラスの広さを誇り、面積と同様、全長も南北に長い。

 その中央からやや南寄りに、甲州街道との接点はあった。

 街道は、線路の上を陸橋となって交差しているが、それへと至る傾斜は、東西どちらから見ても、いたってなだらかだ。橋の両側には建物がくまなく並んでおり、欄干のようなものは、まっすぐ通り抜ける分には視界の範囲にない。

 そのため、橋というよりは人工地盤、線路上との認識もなければ、単なる舗装路と誰もが信じて疑わないだろう。陸橋の西端には、南北の施設を結ぶ連絡通路を兼ねた歩道橋が伸びているので、歩道橋を見上げるその足もともまた橋であるという真相を、重ねて忘れやすくしている。

 霧の推測どおり、ヘイトデモ隊は途中で道を変えることなく、まっすぐ陸橋へと向かっていった。途中いくつか交差点があったが、そのたびに全方位の信号機が赤色の灯火でデモ隊を迎えた。青ではない。「止まれ」の赤だ。何十台もの車や何百人もの歩行者がその色に従って一時停止を余儀なくされる中、しかし機動隊を合わせれば千人近いその隊列だけが、信号を無視して一度も止まることなく直進していく。

 風歌たちも例に漏れず、二度ばかり足止めを受けた。警官に信号機を巧みに操作され、デモ隊との距離がたっぷりと開いたのちに、ようやく通行を許可される。その距離を元に縮めるべく全力で走り、次の交差点でまた引き離される。あゆむ一人だとほぼ相手にしなかった警察だったが、一人が幾人かに増えただけで、彼らは露骨なまでに自身の追跡者たちを警戒した。

「こんな調子で、どうやってデモを止めると……」

 真子の父が、何とも心細そうに霧や天祢たちを見回した。この街道ではまた新たに数人のカウンターと合流し、ようやく十人を超えるほどになっていた一行だったが、付け狙う標的たちの多さと比べると焼け石に水でしかなく、どうあっても返り討ちに遭うのが関の山――としか考えられないのだろう。犯行グループに捕らわれた人質としての不安感というよりは、その犯行グループを心配するような顔つきだった。

 午後二時四十三分。

 ヘイトデモ隊のさらに先、二百メートルあまり前方に、陸橋上の歩道橋が見えてきた。梁と柱からなる四角形に筋交いを組み込み、安定した三角形を作ることで強度を増したトラス橋だ。

 その三角の合間から、何やら小さく並んだ十数人の影が見える。風歌たちがよくよく目を懲らして見てみれば、デモ隊の左側面にも確認できるお馴染みのシルエットだった。ヘルメット等で身を固めた機動隊員たちだ。

 彼らはまず、同じ歩道橋を行き交う人々の中にカウンターがいないかどうかを見張っていた。次にこちらのほう、彼方から迫りつつあるデモ隊とその後を追う風歌たち一行を高みから様子見しているのだ。

 そして何よりも、彼らの視線の大半が彼らのすぐ足もと、トラス橋の真下に注がれていた。

 さらに少し進み、ようやく真子の父の顔色にも変化が表れた。

 どうやら彼も知ったらしい。スマホを操る風歌たちと違って、じかに自身の目で。

「あれは――!」

 橋の下には無数の名もなき正義の人々、何百人ものカウンターがそろって集結していたのだった。

 そちらのカウンターたちは、あるいは車道に座り込んで隣の者どうしで腕を組み、あるいは立ったまま人間の鎖を形成し、はたまた紙コップに入った飲み物や塩飴を配り歩きながら、まさにデモ隊を迎え撃つ態勢にあった。中にはシットイン以上に路上へ全身を投げ出し、仰向けで寝そべる者たちもいる。死体に扮したダイインだ。シットインと同じく抗議の一形態で、特に命や人権が絡む訴えにおいて行われる。

「公園から張り付いてくれてた人たち、逐次報告ありがとう!」

「おかげで先回り楽勝!」

「要所だもんなあ 確かに東側に出たいならここだよ、うん」

「カウンター全員集合!」

 風歌のスマホに、彼らのメッセージが次々と表示されていた。霧も天祢も真子も、満足そうに自身のスマホを見つめている。あゆむも肩越しに天祢のそれを覗きこんでいた。

「すごいすごい! どんどん仲間が集まってくる!」

「正直、自分だけだったら嫌だなーと思ってたことが恥ずかしい」

「呼びかけがありゃ集まるもんだな。最初スパムと疑ってすまなかった」

「スパムだったろうさ。けど彼らの勇気に当てられたんだ。みんなして騙された結果がこれ」

「騙されたというか、承知のうえで、あえて乗ったというか」

「どなたか存じませんが騙してくれてありがとー。うちらのお尻引っぱたいてくれて」

「遠埜さん」

「遠埜霧」

「たぶん本物の遠埜氏」

「ホント、今思うと我々の先月のビビり方は以上だった」

「こんにちは、異常警察です。以上じゃなくて異常ね」

「異常警察 笑」

「警察は異常 怒」

「警察がおかしくなけりゃ、こっちも正攻法で済むんだよ!(大激怒)」

「あ、そうだそうだ。わたし、勤め先のスーパーから廃棄分のビーツもらってきちゃったー。理解ある店長で助かったー(ニッコリ)」

「ビーツって、色とれないやつじゃないですかあ(笑) ネトウヨ共、謝るなら今のうちだぞっ」

「あ、自分も! うちの子が何考えてんのかタンスの奥に隠してた玉子、そのまま捨てちゃうのも資源の無駄だし投げる用に持ってきた! けど、万一口に入っても大丈夫かな? 一応、狙うとしてもヘイトプラカとかのつもりだけど」

「あるある~ 子どもの意味不明な行動」

「腐った卵いいっすねえ! よければ一つ分けていただけませんか?」

「どうぞどうぞ! 郵便ポストのとこでパック持って立ってます。ほかにも欲しい人ー」

「ネトウヨの口だし、腐った口だし、ちょうど合うんじゃないですか? 適材適所」

 真子の父が、すっかり降参したふうに嘆息した。

「ここ以外にもカウンターが……」

「集まっていたということです。デモのコースが定まるまで、いささか気を揉みましたが」

「ナイス、リード」

 天祢が霧をねぎらった。

「あま姉も。真っ先にボクの投稿を拡散してくれて。おかげで弾みがつきました」

「あたしだけじゃないよ。真子ちゃんと風歌ちゃんもすぐ続いてくれて」

「フフ……」

「ヘヘ……。遠埜、バレバレだったね」

「それと……」

 天祢が彼方の橋を見やる。

「ええ」

 霧も頷き、同じ方向に目を向けた。

 じかにはまだ明確に見てとれないが、二人が探した者たちの姿はやはり電子の文字列となって、それぞれのスマホに映し出されていた。

「てへ、来ちゃったあ」

「新宿ヘイトデモを許すなってタグ作ったからには来ないとよねえ そーゆー鉄の掟なんですよね?」

「霧お姉様ー!」

「すごい人だかり・・・ これみんなカウンターってゆー人達?」

「正直、もっとアングラっていうかマニアックっていうか、そんなふうに思ってたんですけど・・なんかお祭りみあるー」

「アングラはあっちのほう こっちがホントはメインカルチャーで王道で正道。……だよね? 遠埜さん」

「会長! われら生徒会執行部一同、歩道橋の下でお待ちしてます!」

 真子の父以外では、一人、あゆむだけが驚いていた。

「マジかー、こんなことになってたんかー」

「知らなかったカウンター、あんたくらいよ。てか、何も知らずに突撃する気だったの? それ、地味に誰よりもすごい覚悟……」

 天祢が呆れる傍ら、霧が皆を振り返った。

「ボクらも行こう。斥候の役目は終わった」

 各自こくりとうなずき、駆け足となる。


 午後二時四十五分。

 風歌たちがデモ隊を追い越すべく迂回路を急ぐ中、新宿駅南口のカウンターたちより一つの知らせが届く。デモ隊に先立ち、まずは機動隊員と衝突したとの報だった。

 十数秒後。

 陸橋にもっとも近い交差点で、風歌たちは再び甲州街道に出た。

 右手を見てみれば、裏通りを駆ける間に追い抜いたヘイトデモ隊の先導車が、まさに同じ交差点へと進入しつつある。その進行方向上でもある左手側には、いよいよわずか五十メートルほど先にトラス橋を確認できた。その橋の上に配置されていた機動隊員たちの姿はすでに一つもない。SNSに続々と上がってくる報告によると、脅威は足もとにこそ存在すると悟った彼らは、悟りつつもしばらく傍観の構えを見せていたものの、おそらくは遅まきながら上官の命令が下るや一斉に階段を駆け下り、周辺からなおも集まってきているカウンターの群れの中へ、いざ飛び込んだとのことらしい。

 ただし、南口のカウンターが何百人と集まっているのに対し、あらかじめ現地に待機していた機動隊員はごく少数だ。ゆえに、そこでは隊員たちのほうが油断される側だった。実際、カウンターたちの間を、言葉以外の抵抗は受けることなく、彼らは容易にすり抜けていく。そうやってダイイン実行者たちの所まで近づくことができた彼らは、眼下に一つの忌むべき象徴を見いだしたとばかり、ただちに対象の排除に取りかかった。

「地面に寝ないで」

「道を空けなさい」

「立ち止まらないで。われわれの指示に従いなさい」

 そうした言葉とともに、背や腕をとって強引に立たせたり、さらには両脚さえもつかんで、とにかく地面から引き剥がそうとする。

「やめろ! おい、やめろよ」

「手ェ、離して」

 ダイイン実行者たちも、全身をこわばらせるなどして必死に抵抗を見せた。この段にいたっては、当然ながら周囲のカウンターたちも揉み合いに加わり、まだ引き剥がされていない者の身を上から押さえたり、すでに剥がされて空いてしまったスペースへ、自身が新たな「死体」となって寝そべったりする。

「させるかよ」

「どかすなら違法デモ隊のほうだろ」

 その騒乱のさなか、風歌たちもついに現場に到着し、カウンター大集団との合流を果たした。修高生ら見知った顔の確認もそこそこに、ただちに次の行動に取りかかる。

 とはいえ、まさに大集団に阻まれてしまい、奥の騒乱の場へは向かえそうにない。また、向かう必要もなかった。手前は手前で別の役割があったからだ。ヘイトデモ隊に立ち向かうという、最大にして当初からの役割が。

 風歌たちに遅れること三十秒あまり、午後二時四十六分。

 ヘイトデモ隊とそれを守る警官たちの群れが、線路を超えて新宿の東側に出ようと、カウンターの一大集結地へいよいよ迫る。

 これを阻止すべく、カウンター側はすでに百人以上がダイインおよびシットインをしていた。誰に命じられたことでもない。おのおのが自発的に最善と考える行動をとるのだ。風歌たちも、それぞれ分かれてまだ空いている場所を探して回り、見つけると、ためらうことなくそこを自分の身で埋めていった。

 一方、デモ隊側からは機動隊員の列が統制のとれた動きでデモ隊から分離して前進し、生ける障害物となったカウンターたちを排除しにかかる。

 奥のほうで生じていた揉み合いが、たちまち手前でも繰り返された格好だ。しかも規模はより大きい。そこが新たな前線となり、拡大し、結局は最初の騒乱の場とも繋がって一つになった。

 新宿駅南口、陸橋西端のトラス橋。その橋の真下を中心とした前後数十メートルの範囲で、カウンターと機動隊員の揉み合う光景が同時にいくつも繰り広げられた。

 なお、片側四車線だったり三車線だったりした甲州街道は、立地上の制約からか、直前の交差点を境に一段と数を減らし、トラス橋の十メートルほど手前まで局所的に二車線となっている。そこから道幅を広げながら、橋の真下で再び三車線に戻る。

 ただ、どうであれ、デモ隊が通ってきたのは、常にもっとも左側の車線だ。

 必然的に彼我の衝突の場もその一車線上に限られ、中央寄りである追い越し車線のほうを、一般車両が渋滞気味ながらも走り抜けていく。それを物欲しそうに見つめているのか、デモ隊は公園を出発して以来、初めてその足を止めていた。

 デモ隊員たちが何やら口々に叫んでいた。周囲の喚声に埋もれてほぼ聞き取れないが、どのみちヘイターの言葉など、いっさい聞くに値しない。かろうじて「お巡りさんガンバ!」といった軽薄な声が耳に入ったが、両隣の仲間たちと腕を組んで座り込む風歌としては、彼らへの軽蔑の念を新たにしただけだ。

 彼らは決して警察よりも前面に出ない。他者への危害ならいくらでも進んで加えるが、自ら危険を冒そうとはしない。常に守られていなければ、身の安全が保証されていなければ、ヘイトスピーチも罵詈雑言もデマも吐かないのだ。

 もちろん、傷つく覚悟のできている者だけが傷つける資格を有する、というわけでは決してない。ヤクザあたりがいかにも好んで口にしそうな理屈だが、間違いだ。覚悟があろうとなかろうと他人を傷つけてよいわけがない。暴力は悪だ。しかし同じ悪のうちでも、ヘイターは心構えすらなっていない。きっとヤクザにすら軽蔑されるだろう。しょせん、その程度の訴えなのだ。それらを「訴え」と称することすら不相応といえるほどのものだ。

 音。

 ただの音。

 ノイズ。

 公害。

 そういったものでしかない。

 彼らは本当のところ、自分の一部を賭けて大切な何かを勝ち取るために闘った経験など、これまでにただの一度もないに違いない。

 だから知らないのだ。

 だから信じられないのだ。

 正義を。

 正義の人々を。

 最後には必ず正義が勝つということを。

「戦車だって止めるんだから!」

 風歌は叫んだ。

「離せったら」

「痛い痛い! 引っ張んな」

「この野郎」

「負けてたまるか」

 風歌の周りでも怒号と喚声が飛び交っていた。ただ、やはり抗しきれないらしく、幾人ものカウンターが次々と機動隊員に体を取り押さえられていく。数人がかりで全身を拘束されたまま、警察車両があるデモ隊のほうへ引きずられていく。

 絶叫が、いよいよ風歌のすぐ耳もとで発生した。見ると、一人の機動隊員が、風歌が今まさに腕を組んでいる隣人の肩をぐいと鷲づかみにしていた。

「痛い! 離して!」

 隣人が、腕を振りほどこうと何度も体を揺さぶりながら叫んだ。

 隊員も叫び返した。

「道路交通法違反だ!」

 その腰には、きらりと光る物があった。手錠ケースから頭を覗かせている中身だ。

「違反はあっち! ヘイトスピーチ解消法に――!」

 が、隣人の言葉は、歩道側からの飛来物によって思いがけず中断させられる。

 同時に隊員も動きを止めていた。飛来物が、まさに隊員の脇腹に命中していたのだ。

 一個の卵が、防護ベストの表面で、びしゃりと音を立てて砕け散っていた。ぶちまけられた粘性の液が殻の破片を抱え込みながら徐々に垂れ落ち、ズボンへと汚染を広げていく。

 その様を、風歌と隣人、当の隊員とが同時に見つめた。

 風歌が卵の軌道を目でさかのぼっていくと、すぐ行き当たったのは、すこぶる知った顔だった。

 あゆむのそれだった。

 先方も風歌を見返し、よっ無事かとばかり、にこやかに片手を挙げる。

 次いで、装備を汚された当隊員が、あゆむを警棒で示しながら声を上げた。

「確保ー!」

 それを合図に、合図した本人と付近の隊員数名が一斉に被疑者へと飛びかかった。

「暴行容疑!」

「おとなしくしろ!」

「この野郎!」

 ある隊員はあゆむを後ろから羽交い締めにし、またある隊員は両脚を地面に押さえつけた。群がる隊員たちの間からは、手錠が幾度も不気味に見え隠れした。

 これに対し、周囲のカウンターたちも黙ってはいなかった。

 特に、あゆむと同じく歩道にあぶれていた者たちが、いち早く反論の言葉を投げつけた。

「暴行というなら、まずお前たちだろ!」

「それにこっちのはだ! 常識的に妥当なので法に触れない! 侮辱目的で唾を吐くのとは違う!」

「弾圧に走る警官に抵抗するのは市民として当たり前だろうが!」

「すぐ逮捕、逮捕! 職権濫用しやがって!」

「警察法第二条第二項を読め! 不偏不党とあるだろうが!」

「警察はレイシストに味方するな! 違法デモを守るな! あの街を燃やせと何度も言い放ってきた連中だぞ! このネズミどもを一匹残らず海に追い落とせと笑いながら言う連中だぞ! そんなのが政治的主張か! 思想か! 言論か! どうなんだ!」

 警察以上にがなりつける。が、あゆむを取り囲む隊員たちに行動の変化はない。代わりに、呪文のような言葉が隊員たちの間から漏れ聞こえた。

「ひとよんごーまる」

 それが何を意味するものか、風歌には理解できなかった。が、一部のカウンターたちをいよいよ激高させるものではあったらしい。

「ふざけんな!」

「この!」

 あゆむにならって、彼らも隊員たちに物を投げつけた。いずれも同じ、潰して丸めた紙コップだ。それでも抵抗の意思表示としては十分であり、対する警察としては、またしてもこの上ない挑発と受け止めたようだ。

 新たに暴行の疑いが発生した者たちへ、周辺から、さらに続々と隊員たちが集まってきた。あゆむにしたのと同じことを繰り返し、それがまた新たな反発を生んで、騒乱の規模だけを大きくする。

 カウンターたちがまた次々に拘束され、警察車両のほうへ連れていかれた。いつしか、あゆむの姿も消えてなくなっていた。

 しかし、風歌に彼女を探しに行く余裕はなかった。自身にも隊員の腕が伸びてきて、何度も人間の鎖をほどかれそうになっていたのだ。風歌はそのつど左右の人たちとともに全身をこわばらせ、額に大粒の汗を浮かべながら目をつむって歯を食いしばった。

 そうこうするうち、しびれを切らしたのか、足を止めていたデモ隊が再びゆっくりと動きだした。

 先導車が右斜め前へと進んでいく。どうやら追い越し車線を使うつもりらしい。その背後を見やると、風歌たちが通ってきた交差点の手前で、数人の機動隊員が交通整理に当たっている。交差点の信号機こそ青色だが、こちらに来ようとする車はすべて彼らの赤い誘導棒に従って停止し、長い列を作っていた。

「通すかよ!」

 カウンター側も即座に対応した。

「新大久保へは絶対に行かせん!」

 なおも歩道に残っていた者たちが、そここそが自分の活躍の場とばかり、追い越し車線のほうに移動して壁を作り始めた。仲間どうしで腕を組み、車線変更を試みるデモ隊の前に立ちはだかる。すると例によって機動隊が両者の間に割って入り、カウンターたちに当たった。

 そちらの衝突は、ラグビーかアメリカンフットボールのような、立った者どうしでのそれだった。

 集団と集団が、互いに押し合いへし合い、圧迫し合う。

 力の均衡を崩そうと、新手の機動隊員が加わる。一方、元の車線でシットインやダイインをしていたカウンターたちも立ち上がり、隣の新たな自陣に移動する。

 風歌たちも誰が言うともなしに腕の鎖を解き、それぞれ無言ですっくと立った。

 アスファルトに近い所とはまた違った熱風が、さっと風歌の頬を撫でていった。立ちくらみか、それと似た感覚が全身を貫いたが、すぐに消え、改めてスクラムの後ろに付いて力の一単位となる。

 風歌の後ろにも続々と仲間たちが加わってきて、大いなる頼もしさと一抹の圧死の恐怖とを同時に味わった。加えて、機動隊員と直接ぶつかっている前方からは「どこ触ってんの!」という女性カウンターの声が聞こえ、たとえ本当の痴漢行為でなく偶然の接触だったとしても彼女は心中穏やかではいられないはず、それでいうと自分も同じか――と妙に冷めた思考が頭をよぎった。

 それこそ自分たちカウンターは、ヘイターや警官や関東大震災時の虐殺者たちとさほど変わらない。ただ、これらの者たちよりは少しばかり差別に敏感で、少しばかり悪や不正に染まらないで済む強さがあって、少しばかり本当に世のため人のために頑張っているだけなのだ。

 その少しを幸運と信じきるには、今はまだ肉体的には苦しい時間だった。

 呼吸しづらい。

 あちこち押されて痛い。

 スマホを踏んづけた。誰のだろう。

 暑い。

 蒸し蒸しする。

 早く終われ。

 なんで、こんなしんどいことを。

 仕方ない。

 それがマジョリティの責任だ。あるカウンターは義務とも贖罪とも言う。

 さらには、みずからカウンターに加わってくれているマイノリティだっている。差別から身を守るだけでも手一杯のはずなのに。

 その一人である少年が、すぐ近くにいる。彼とは人混みの中、互いに苦しい表情ながらも一度だけ視線を交わせた瞬間があり、それだけでも風歌の体の芯に新たな火がともった。

 そうだ。

 だから、なおさら自分がへこたれるわけにはいかない。

 満員電車でもまだ余裕があると言えるほどの揉みくしゃになりながら、何度も強くそう思う。

 そんな苦闘のさなか、ふっと圧力が弱まり、少し楽になった。

 風歌たちに進行を阻まれたデモ隊が、再び方向転換したらしい。

どうやら元の車線へ戻るようだ。

 それと知らせるカウンターの声がいくつも飛び交う。おのずとカウンターたちもそちらへスライドすると、機動隊員たちもやはり動きを合わせてきた。

 右へ、左へ、三たび右へ。

 双方そろって、車線をまたいで右往左往する。十メートルほどの狭い範囲だ。対向車線を合わせればさらに二倍以上の道幅となるが、幸いにしてセンターライン上にはブロックがくまなく並べられており、車両の乗り上げを封じている。

 程なくすると、戦線は往復した幅の分だけ広がったままとなり、左右の振幅はなくなって膠着状態となった。なお、あとでSNS上の報告を見て知ったことだが、この時、交差点の向こうでは通行許可待ちの車列がいよいよ伸び、最後尾が見えないほどだった。

 そこへ。

 デモ隊がまたしても新たな行動に出た。車両を捨て置き、大胆にもセンターラインを越えてきたのだ。機動隊が作る壁の背後で、徒歩のデモ隊員たちがひそかにブロックをまたぎ、対向車線に移動していたのだった。

 盛んに走っていた対向車は、いつの間にか一台もなくなっていた。警察がトラス橋を挟む前後すべての信号を赤にし、道路を全面封鎖していたのだ。

 しつらえられた無人の野を、旭日旗やヘイトスピーチののぼりを掲げた集団が、鷹揚な権力者のようにゆったりと歩いてくる。

「警察!」

「ちったあ、なりふり構えっての!」

 うんざりした表情を浮かべつつ、カウンターたちもデモ隊のこの動きに合わせた。いまだ役割を担えずにいた者たちからセンターラインを順々に跳び越えていき、そちらでも壁が築かれていく。同じく機動隊員たちも展開し、全車線を端から端まで繋ごうとするカウンターの壁を、できたそばから崩しにかかる。かくして戦線は一気に伸長し、しかし、またしても拮抗、膠着状態に陥った。

 増えたのは、車道の人々だけではなかった。両側の沿道や頭上のトラス橋にも群衆が集まってきており、何事かと、こちらの騒動を見物している。無遠慮に無数のスマホカメラを向けている。

 風歌は全身すでに疲れきっていたが、戦線が伸びた分、実は圧迫の度も減っていた。それにより空間的にも精神的にも多少の余裕が生じたからか、見物人たちの中に、一人、何やら疑問の声を上げている者がいるのを見つけた。

 やれやれ、どうせカウンターとレイシストの両方を苦々しく思っているか、カウンターだけを苦々しく思っているかのどちらかだろう。

 風歌はそう諦観したが、顔をよくよく見てみると、真子の父だった。疑問をぶつけている相手はカウンターでなければレイシストでもなく、自身の同業である警官たちだ。

 彼は沿道と車道の間をふらふらと泳ぐようにさまよっていた。足腰に力はなく、今にも転びそうだ。おぼつかない足取りで、撮影係や公安たちの顔を見て回りながら「おかしいだろ、おかしいだろ」と大声で連呼している。

 風歌のすぐ近くにも寄ってきたが、それには気づかず、彼は改めて疲れたように吐き出した。

「警察だろ。何でだよ。何なんだよ……」

 そうして再び同業者たちの顔を覗きこみ、スクラム中だった一隊員の前ではたと立ち止まる。

 彼はそのまま、隊員の腕をぐいとつかんだ。

「おい、お前」

 つかまれた隊員は、敵意よりも驚いた顔で彼を見つめた。

「俺だよ、俺! 忘れたか? ほら、寮生時代、一緒によく麻雀やったろ? 寮監や先輩たちに誘われて」

 どうやら旧知の間柄らしい。

「覚えてないか? ほら、よく黒川レートで」

「……その言葉は、まだなかった」

 隊員はおもむろに姿勢を正した。

「二宮」

「そうだよ、そう! 俺はいまだハコのアヒルだけど、お前……出世したんだなあ」

 真子の父の視線が、しみじみと隊員の胸のあたりに注がれる。

「でさ、何なんだよ、これ。なんで俺らとカウンター、正義どうしで争ってんだ」

「正義どうし?」

「だろうが。差別と闘う方たちが正義でなくて何なんだ」

「……」

「なんで答えねえんだよ!」

 真子の父は声を荒らげた。

「まったく! どいつもこいつも!」

 旧友のもとに、警察車両のほうから若い隊員が二、三人、慌てたように駆けよってきた。着くなり真子の父を鋭くにらみ、さらに前へ出ようとする。

 旧友が、言葉と手で彼らを押しとどめた。

「奴はいい。ほかを」

「はい」

 隊員たちは返事をし、再び散っていく。

 真子の父も、諦めたように背を向けた。

「また、卓、囲もうや。みんなでさ」

「誰も変わりなければ」

「ハハ、そりゃ無茶だ。何年たってる。お前だって」

「いや……俺たちは変化が苦手だ」

 旧友の、短く乾いた言葉だった。真子の父は黙ったまま再び疲れたように歩き出すと、今度こそ風歌の視界からも消えた。

 カウンターと警察との押し合いは、もうしばらく続いた。が、その圧力は、人の壁が車道の幅いっぱいに広がった直後と比べてみても、ずいぶんと弱くなっていた。皆、体力を磨り減らしていたのだ。

 それまでにも一人また一人と、次々にカウンターが拘束され、連行されていった。

 風歌は壁の隙間から、それらの光景を幾度も目にした。すでに何十人が連れられていったことか。おそらく五十人は下るまい。ただ、助けにはいけなかった。みずからも壁の一部となって、ひたすらにデモ隊の行進を阻むだけだった。

 そうこうするうち、圧迫感はさらに弱まり、ついには完全になくなるときが来た。

 体力の消耗だけが原因ではなさそうだった。新たに連行されるカウンターもいないのだ。

 今度は何が起きたのか。

 周りの仲間たちと同じく、風歌もただ棒立ちとなる。

 自身も、周囲のどの顔も、すっかり汗まみれだった。また、息もひどく荒い。

 意外と近くに、同じように肩で息をする霧がいた。揉みくちゃになっている間は気づかずにいたらしい。やや離れたところには真子もいた。三者とも互いに気づき、息を切らしながら視線だけを交わす。

 再び動きがあった。

 前列のほうから、カウンターたちが吸い寄せられるように、さらに前へと歩きだしたのだ。どうやら機動隊が退いたらしい。それにより生じた真空を埋めるようにカウンターたちは流れていき、霧と真子も自然と流れに乗る。特に霧は誰かに手招きでもされたか、すぐ小走りになり、人よりも早く進んでいった。

 流れと逆に、戻ってくる者もいた。

 天祢だった。

「おーい、おーい」

 彼女も顔に大粒の汗を浮かべていたが、そう呼びかけながら、人々の間を掻き分けるように歩いてくる。

 先方もこちらに気が付いた。

「これ、見なかった?」

 風歌に歩み寄りながら、両手で眼鏡の形を作って自分の顔に押し当てる。あゆむ以外にありえない。

「どこにもいないんだよねえ。サボり魔だから、まさか逮捕はされてないと思うけど……。捕まったのは三十人くらいかなって感じだし……」

 三十人。

 風歌の見立てよりも少ない。

「今日のカウンターが千人として、三十人。三パーセント。まあ大丈夫だろうけど……」

「あ……」

 風歌は口を開いたが、疲労もあって声が出ない。

「遊びに行っちゃったかな? ったく、しょうがないんだから……」

 天祢も、その声とは裏腹にすっかり疲れきった表情だった。

 なおも元気だったのが、終始、沿道にいたカウンターたちだ。

 遠巻きにプラカの掲揚やビラ配りなどでカウンター活動を行ってくれていた人たちだった。ただ、カウンター初心者も大半がやはり沿道にいて、見よう見まねで周囲のコールに加わったり、一般の通行人と同様に、ただ事態を見守るだけだったりしていたようだ。

「あー、サトちゃん」

「佐藤先生も来てたんだー」

 天祢に向かってそう呼んだのは、春に自研部に仮入部していた子たちだった。声は無邪気そのもので、仮入部とはそういうものだからか、辞めたことへの引け目は感じとれない。もとより、風歌としても責める気などない。今日ここに来てくれただけでありがたいと思う。

「さっきねー、日本史のぬまっちもいたよー」

「まだ言ってる」

「ホントにいたんだって」

「そら似じゃない?」

「かなあ……」

「うちの先生なんかが来るわけないじゃん。あ、佐藤先生は別ー」

 彼女らの会話に触発され、風歌も周囲を見回した。

 が、それらしい顔はどこにも見当たらない。やはり見間違いだろうか。まさか自分たちの学校の教師がカウンターの現場に現れるなどと……。

 ただ、この人数だ。たとえ本当に来ていたとしても、そうそう見つけられるものではない。

 念のため、もう一度、視線をさまよわせてみる。

 目に映ったのは、スマホで状況を確認する人、路上に散乱した紙コップやビラを拾い集める人、シットインでなく疲れから地べたに座り込む人、引き続きプラカを掲げる人、警察に激しく怒鳴り散らす人、その背後のデモ隊に高々と中指を突き付ける人――そうした仲間たちの姿だった。

「……佐藤先生だって?」

 不意に聞こえた声の主は、仲間でなく家族だった。

 元仮部員たちのすぐ近くに、風歌の父が立っていた。

 どうやら心配のあまり来てしまったらしい。

 しょうがないか。

 今朝、黙って家を出てきたことくらいは、きちんと謝っておこう。

「お父さん」

 風歌は声を出したつもりだったが、依然として呼吸は整っておらず、それに近い音声がかろうじて口から漏れただけだった。

 果たして呼び声が届いたのか判然としなかったが、父がちらりとこちらを向いた。が、すぐさま視線を天祢に戻し、どこか棘を含んだ声で問う。

沢本さわもとと申します。あなたが佐藤先生ですか? 風歌のもう一つの部活の」

「はい。ああ、風歌ちゃんの……」

 気もそぞろに天祢は返事した。その視線は、おそらくあゆむを探すものと父との間を微妙に行き来していた。

「父です。いきなりで恐縮ですが、どうか、もううちの子を誘わないでいただけませんか。お願いします」

 深々と頭を下げる。その姿は、いつも自宅で下手な冗談ばかり飛ばしている父とはまるで別人に見えた。

「一方的なお願いであることは重々承知しています。ですが、この子は来年、受験生なんです。将来の方向性を決める、今が人生でいちばん大事な時期なんです。そんな時に、こ、こんな……」

「こんなとは、カウンターのことでしょうか」

「もちろん。ええ、もちろんですとも。カウンター、反差別活動。社会には確かにそういうものも必要なんでしょう。もっとも、賛否はあるみたいですが」

 父がぐるりと周囲の見物人たちを見回した。

 その視線を風歌も追う。

 見物人たちの中には、カウンターと同じくヘイトデモ隊に鋭いまなざしを向ける者も確かにいたが、大半が無表情か冷ややかな顔をしていた。そうした反応ないし無反応ならまだ良いほうで、カウンターに対してあからさまに侮蔑や憎悪の目を光らせる者もいる。受け取ったばかりの反ヘイトビラを数歩先で路上に捨てる者もいる。

 野次がスッと飛んできた。

「通行妨害すんな、反日!」

 父が向き直った。

「過激な活動で支持を集めようと反感を買おうと、それはあなたたちの責任です。ですが、うちの風歌はまだ子供。女の子です。女の子にそんな責任が負いきれますか。なぜあなたは負えると思われたのですか。同じ女性でも、あなたは自分の意思でそこに立っておられる。それにもう大人です。だからあなた自身は平気なんでしょう。いくら傷ついても、警察のご厄介になっても、あなたの信念においては、それもまた一つの勲章と誇れるものになるんでしょう」

「……」

「そんな偏った価値観を、うちの子に植え付けないでほしいんです。自分の子が逮捕されるかもしれない社会運動なんて、ど、どこの親が認めるのかと」

「まことに、おっしゃるとおりです。申し訳ございません……」

「そんな通り一遍の謝罪などされても」

「本当に、すいません……」

「デモで人が亡くなることだってあるんですよ、実際に」

「すいません、すいません……」

「うちの子、あんなにヘトヘトになって……揉みくちゃになって……潰されそうになって……」

「すいません……」

「大人がすることでしょう。それを子供にまでさせて。間違っているとは思わなかったのですか」

「間違っています。すいません……」

 天祢は何度も謝罪の言葉を繰り返した。が、父の静かな憤りは収まらず、相手の謝罪と回数を競うかのように詰問を重ねる。

 その光景に、風歌は既視感を覚えた。

 が、そんなはずはない、まるで似ていないではないかと、すぐさま自身の直感を否定した。

 デモ開始直前、カウンターを応援してくれた、いかにも人の良さそうなあの老夫婦と、今の父とが同じなどと。

 子供にこんなことをさせて。

 女の子に無茶などさせて。

 そうした言葉を、父は幾度も繰り返した。

 ほら、ぜんぜん違う。

 気のせいでしょ。

 胸の内で自分につぶやく。

 違うんだから。

 だから、あま姉。

 謝らないで。

 頭を下げないで。

 あま姉は何も悪くない。

 悪くない人が謝っちゃダメ。

 それはひどく歪んだことだ。

 だから、お願い。

 もう、それ以上――。

 前方のほうで、どっと歓声が上がった。

 続いて、スピーカーを通した音声が鳴り響く。

「これは、ボクが尊敬するある方の言葉です」

 姿こそ見えないが、明らかに霧の声だった。

「高貴な激情は、ときに現行法に抵触することもあります。ベトナム反戦など、あらゆる手段で、ぎりぎりに抗議することもあるのです!」

 盛大な拍手が湧き上がる。

 そうした音にすっかり埋もれてしまい、あとにもあっただろう霧の言葉は風歌のほうまで届かなかった。いくらか静まったときには別の話し手に代わっていた。

「構造的暴力は、直接的な抗議行動によって初めて可視化されるものです!」

 そのような難しいことを話している。だからだろうか、いくぶん手を鳴らす者は少ない。

 そのすぐあとに起きた拍手こそが、この日のデモで最大のものとなった。

 それは何の主義も修辞もない、抑揚も乏しい警察車両からのアナウンスに対してだった。

「デモは中止になりました。皆さん、速やかに歩道に上がってください」

 拍手と同時に、大歓声も地響きのように轟いた。

「中止だ!」

「成功だ!」

「カウンターの勝利だ!」

 風歌の頭上に、歓呼の叫びがこだました。

 東京の空に、反差別の音が広がる。


 午後三時七分。

 カウンタープロテストは、新宿ヘイトデモを阻止した。

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