最終話 ノーヘイト(3)
3
午後二時十六分、ヘイトデモ隊が動き出した。
「帰れ!」
「ヘイトデモ中止!」
こちらもいよいよ声高に訴えるが、それもむなしく、旗やプラカを掲げながら、二百人近いレイシストたちが、ゆっくりと広場から丁字路に出てくる。その隊を、隊に数倍する警官たちが両側から挟むように護衛している。左右の人数は極めて不均衡で、大多数が左側にいる。さらにその多くが機動隊員だ。デモ隊が車道を左側通行する際、より左に位置する歩道からのカウンターに備えるためだった。
公安も、中央公園から引き続きついてくる。が、なにせ制服でなくワイシャツ姿なので、デモ隊の左右、いや、前後にもいるはずなのに、その少なくない者たちが、一見してデモ隊の面々と区別が付かない。
私服警官の中には自撮り棒でビデオカメラを高々と掲げ、主にカウンターを撮影する役割の者も一定数いたが、デモ隊員にも同様の撮影者たちがいたので、やはり区別は困難だった。デモの隊列からはみ出た位置にいて、それを周りの誰からもしばらく咎められずにいたなら、ひとまずその者は公務中なのだろう。「警視庁」と書かれた腕章を付けていれば一目瞭然だが、官民合わせて何百人――もしかすると千人をも超えているかもしれない行進とあっては、大半の者たちの腕が人混みに埋もれてしまい、ほぼ手前にいる者たちのそれしか確認できない。
隊列が車道に出て、まっすぐ車線を越えてくる。それと並行し、路上駐車してあった数台の車両を先頭に迎える。先導車に導かれながら、歩道で引き続き抗議する風歌たちの鼻先をこするように悠然と転回し、右折する。
その際。
「一線」
「一線」
そろって風歌たちを向いた各機動隊員が、隊列の先頭から後方へ口々にそう伝えながら、左右の者どうしで手を繋ぎ、たちまち人間の鎖を作り上げた。
鎖に守られた背後からは、ヘイトデモ隊の面々が明らかに風歌たちを嘲笑していく。一つには、こちらの人数の少なさを、もう一つには、こちらが従来のやり方と違って、じっと立ち止まったままデモ隊を見送りつつあることを笑っているのだ。
「あれあれー? ついてこないのー?」
「いつもの威勢の良さはどうしたよー」
「思い知ったかー、ゴミサヨ規制派ー」
「AGITOに謝れー」
「国家反逆罪で死刑だ、死刑」
それでなくとも彼らはよく笑う。カウンターへの罵声のみならず、同じ調子で笑いながらマイノリティの排斥をも訴える。こちらが真剣に反差別を叫べば叫ぶほど、彼らはにたにたと軽薄な笑みで応える。カウンターが眼前に立ちはだかるようになって以来、そちらに気を取られることも多くなった彼らだが、それでもなお、彼ら卑怯者たちの意識の一部は常に、その場にいない特定の人々を向いている。
カウンターを笑う態度と同様に、遊び半分で、楽しみながら、彼らは、弱い立場に置かれた人々に対する棘を街中にばらまくのだ。
過ぎゆくデモ隊を見やりながら、チッと霧が舌を鳴らした。
笑われる悔しさからかと風歌は一瞬思ったが、カウンターへの侮辱は、完全ではないにしろ、その分だけマイノリティへの攻撃を減らせている証だ。今日に限らずカウンターの中にも確かにマイノリティはいるが、ヘイトスピーチではなく純粋にカウンターのみを対象とした侮辱なら、それはマイノリティとしてのアイデンティティまでをも傷つけるものにはならない。
ともあれ今のようなカウンターですら、人数こそ微々たるものには違いないが、確実に功を奏していた。
ねらいどおりに事が運んでいる分で、いらだつ道理はない。
霧の舌打ちの理由は、ほかにあった。
天祢も、覗き込んでいたスマホから顔を上げた。
「右折。公園通りを南下中、と。直進か、そうじゃなくても左折してくれてたら、わりとすぐ公園の端だったのに」
「そっか」
プラカを小脇に挟みながら同じくスマホを見ていた真子も、どうやら気づいたようだった。
「公園で楽しく過ごしてる人たちに、ヘイトスピーチなんて浴びせたくないですもんね。小さい子たちもいるんだし。あ、でもでも――」
真子がスマホに人差し指を突き立て、何やら下と右上に向けて続けざま線を描くしぐさをする。
「南に行くなら、新大久保からは離れていきますよ。地図だと、ここから北……北東のほうですし」
「今回は新宿周回コースかな?」
「まだ分かりませんよ」
霧が天祢に慎重な態度を示した。
「韓流の手先をとか、韓国文化をどうのなどと、のぼりやプラカにありましたし」
「確かに。……ったく、他国の人たちや文化を排除しろって訴えるどの口で、あたしたちを規制派呼ばわりできるのよ。表現の自由の敵、完全にあいつらじゃん」
「ロジックにとらわれないのと同様ですね。コースも奴らの気分次第」
「奴ら」
「ええ、レイシストと行政の」
「……行政」
天祢が、今度はやや小声で繰り返した。声をひそめたこと自体に触発され、風歌はつい真子の父をちらりと見てしまう。が、一瞥されたほうは、自身が視線を向けられたことにも、どうやら気づかないでいる。
「だなー」
あゆむが、ひとり呆れた声を上げた。
「あいつら、いっつもまっすぐ進まねーもんなー。性根と同じで曲がりくねってやんの」
「ひねくれてる本人に言われちゃ、よっぽど」
「てめ! ……まだ土産の件、根に持ってる? ……ごめんね」
風歌もあゆむに言った。
「ヘイトじゃなくても、デモってそういうものじゃないですか? するほうとしては、たくさんの人に見てほしいわけだし」
「プライドパレードもそうでしたね」
「そーそー」
風歌は真子に頷きつつ、デモ隊の進む先に目をやった。
「けど、あっちのほうかあ。あの先って――」
「ちびっこ広場ですか?」
「それはまた右に曲がってその先」
「……?」
「曲がる前に――」
あるのは、左手に東京都庁第二本庁舎、右手に中央公園内施設の一つであるフットサル場だった。
風歌が懸念したのは後者のほうだ。
車道からは石垣やフェンス、さらに木立で視界を遮られてはいるものの、デモ隊の掲げるのぼりなら、競技場のほうからでも確認できるかもしれない。それでなくとも音声は確実に届いてしまうだろう。
先ほど霧と回った際、何かの大会だろうか、異なるユニフォームの二チームが対戦中だった。どちらも中学生くらいの男女混合チームで、ピッチの外ではその家族らしき人たちが、選手たちにも負けないほど額に汗を浮かべながら、熱心に声援を送っていた。
ヘイトスピーチにかき乱される前の、平和なひとときだった。
午後二時二十三分。
今まさに、その傍らを、デモ隊がゆっくりと通過していく。途中にあった大きな交差点も曲がることなく、直進し、その場へと至ってしまう。
遅ればせながら、もちろん風歌たちも隊を追った。霧の注意喚起を横顔に受けながら。
「あまり近づきすぎないように。デモ隊から慎重に距離をとること。警察の指示には従うこと。警察を非難しないこと」
あゆむ以外は――真子の父も素直にうなずく。
「距離ってどんぐれーだよー」
例外が、ひとり口先を尖らせた。
「間合いの距離です」
「間合いか、ウシッ」
ともあれ、風歌たちは隊後方を守る警察車両の列を鼻先ににらみながら、プラカを掲げ、声を大に叫んだ。あゆむなどはその車列を超え、最後尾の機動隊員がいるところまで前進した。そこで隊員の手がぎりぎり届かない距離を保ちながら、おかしな表情をこしらえつつ、デモ隊に向かって卑猥なジェスチャーを披露している。逮捕も拘束もされなかったのは、まったく脅威とは見なされなかったからだろう。相手にもされないというやつだ。機動隊員たちは、先ほどの丁字路で風歌たちと最接近した際に作った人間の鎖を解除し、あゆむの存在などまるで眼中にないかのように、再び普通の状態で歩いている。警察車両のスピーカーも、鳴らしているのは毎度の呼びかけばかりだ。
「車道に出ないようご協力を――」
ただし公安の一人からは、その手を下げなさいと、何度か身振り手振りを交えながら注意を受けたようだった。あゆむは注意のたびに素直に手を下げ、公安がよそを向いた瞬間にまた掲げることを繰り返した。
そのあゆむに感化されてしまったらしく、風歌たちの近くにいた他のカウンターたちも一人二人と突進しかける。
「よしましょう、十分な距離を。あの変な人は無視してください」
霧がすかさずそれを制した。風歌もそのうちの一人に、めっと顔をしかめてみせる。彼はやや不満の頬を膨らまし、その顔に見覚えがあることに真子が気づいた。
「あ、川崎ヘイト集会のときの」
「うん」
風歌は素っ気なくうなずいた。
その集会を中止させたのち、なおも現場に居残るカウンターたちに、政治家や弁護士たちに劣らず堂々とスピーチをした在日コリアンの少年だ。彼は「
少年と真子が軽く会釈を交わす。以降、少年は他のカウンターたちとともに、風歌たちのそばから離れずにいた。
以上、少しばかり足並みに乱れはあったものの、それでも風歌たちカウンターは、できることが少ない中で可能なかぎりヘイトスピーチを打ち消そうと、それぞれ必死に努めたのだった。
しかし、この圧倒的人数差だ。
ヘイトスピーチの侵入を許してしまったフットサル場がどうなったか、路上からは内部の様子をうかがえない。といっても、おそらく大した変化は生じていないだろう。大半の大人と子供が、不快な騒音だと迷惑がっている程度のはずだ。
それでも、もしも当のマイノリティがそこに一人でもいたらどうか。
遠足のような楽しい時間から一転、二百人近い者たちからのヘイトスピーチを、まったくの不意に、ただ一身で受け止めるしかない子がいたとしたら、その子はどうなっていることか。先の少年のような、カウンターとして自ら現場に臨んでいるマイノリティと違い、身構えも何もできていないのだ。
風歌は想像し、身震いし、そのような子がいなければよいのにと願い、またすぐに願い直した。
同じ「いなければ」と願うなら、その対象は加害者たちであるべきだ。加害者さえいなければ、それで済むことなのだから。
被害を受ける側は何も変わらずそこにいてくれてよい。それが本来だ。
「こりゃあ……いくら中止しろと叫んでも、はい、分かりましたとなりそうもないねえ……」
真子の父が彼我の人々を見比べ、憐憫の情すらこもる声でつぶやいた。
が、風歌自身を含め、カウンターたちのどの顔色にも変化はない。
今さら、改めて指摘されるまでもないことだったからだ。
カウンターとしてヘイトデモ隊にさんざん非難の言葉を浴びせ続けている自分たちでさえ、訴えがすんなり通るなどという期待は微塵も持ち合わせていない。
それどころか、本日に限っては――。
公園の南端に達したデモ隊が、そのまま直進し、東西に走る高架の下へ入っていく。
「ここでデモを止めるつもりはありませんよ」
霧がトラメガを持ち替えながら、真子の父にきっぱりと告げた。
「ですけど皆さん、中止中止って……。あ、ここではってことか」
真子の父が、ふうむとうなりながら辺りをぐるりと見回す。
「ここ……都庁の真下……。とすると……ええと……」
「まだ公園のそばですからね。今、ようやく離れようとしていますが」
「あなた、ヘイトスピーチは毒ガスみたいなものだから。すぐ止められるなら場所はあんまり選ばないけど」
「物騒だなあ。それほどのもの?」
「それほどのもの」
「なるほど……」
娘の説明により、ある程度は納得したようなその父だったが、彼に釣られて、風歌もつい都庁第二本庁舎を見上げていた。
高さは隣接する第一本庁舎の引き立て役といった程度ながら、それでも、真下から見上げれば威圧感を覚えるには十分だ。
何かとまだまだ至らなそうな真子の父だが、現場に来ているだけ、まだましと言える。
対し、都庁ビルの中からは、今いったい幾人の職員たちが、このヘイトデモを見下ろしているのだろう。
そもそも、そんな高くから見てとれるのだろうか。
ヘイトデモを。
ヘイトスピーチを。
それにより脅かされるマイノリティたちの姿を、暮らしを。
それとも自分たちはマジョリティだから、無関心や高みの見物を決め込んでいるのか?
だとすれば、あまりに愚かしい認識だ。
差別が、他者の問題に過ぎないなどと――。
高架を抜けたすぐ先はインターチェンジだった。
「高速上がれよなあ。そこで全力で走っとけ」
単身での先行に飽きたのか、立ち止まって風歌たちを待っていたあゆむが、合流するなり愉快なジョークを飛ばした。
その言葉に一同はささやかな笑いを誘われたが、デモ隊は当然ながら、左の片隅に追いやられた形の一般道路へ流れていく。
隘路を抜けると、今度は片側四車線の広い道に出た。甲州街道だ。江戸時代から続く牧歌的な名称だが、現在は国道二十号の名も冠している。関東全域の地図だとおおむね東西方向に伸びているが、この辺り、新宿西側に範囲を狭めれば、反時計回りにやや傾けて、北東から南西にかけての道となる。北東に何百メートルか進めば新宿駅だ。
午後二時二十九分。
デモ隊は左折し、その駅への針路をとった。
「確定だ。奴らは新宿駅へ」
霧の言葉に天祢が首肯した。
「公園南で曲がらなかったときは、あれあれ、どこ行くのって思っちゃったけど、こうなると、まずまずいつものコース」
「カウンターを警戒して、ささやかな一工夫を加えたのかもしれませんね」
「警戒されるような数かあ? うちら」
あゆむの問いを無視する形で、真子が再びスマホ画面に視線を落とした。
「あとの問題は、新大久保まで行ってしまうかどうかですね。新宿駅南口から北に一キロ半くらい」
「それはもう関係ない」
霧が即答する。
「え? コリアンタウンですよ?」
「コリアンタウン、か」
ふむ、と霧があごを撫でる。
「間違いではないが、新大久保とはいえ、住人で一番多いのは、やはりマジョリティである日本人だ。しかしそれを抜きにしても、近年は、コリアンに限らず、いろいろな国の人々が集う街になっている」
「なあんだ、じゃ、やっぱり――」
「駅で止めるからだ。マイノリティの手を煩わせはしない」
霧が、真子でなくあゆむを向いた。
「――でしょう?」
「おう、マジョリティが働けっての」
不意を突かれたか、口癖どおりの言葉をあゆむが吐く。風歌は朗らかに笑った。
「んじゃ、そゆことで、あゆ姉もよろしくー。みんなで逮捕されよー」
「ほわっ?」
あゆむが自分の顔を指さした。
風歌も人差し指で虚空を指し、あゆむに短く質問する。
「日本人は――?」
「……マジョリティ」
次にあゆむを指す。
「あゆ姉は――?」
「さすらいの旅人」
「いやいや」
指し直す。
「あゆ姉は――?」
「……日本人」
「つまり日本人のあゆ姉は――?」
「……マジョリティ」
「そゆこと。もうずっと前から分かってたくせに」
「……」
「あゆ姉」
風歌は、自分でも気づかないうちに真顔になっていた。
「しんどいよね。反差別活動って。メンドくさいよね、正義って。苦しいことばっかだよ。つらいことばっかだよ。お金もかかっちゃうし。レイシストのほうは差別を楽しんでるのに……不公平」
「……」
「ズルい」
「ズルい、か」
あゆむが観念したように苦笑した。
「ズルいのは好きだぜ。けど……他人がズルしてんのはムカつくな。悪い奴らなら余計に」
苦笑が、不敵な微笑に変わる。
「ちっ、しゃあねえなあ。うちも奴らに一発でけえのぶちかますとすっか。それで死ぬならしゃあねえぜ」
「それ、テロリストの思考」
天祢が困った顔をした。
「こっちはルールを守る側だから。基本的人権の尊重っていう一番大きなルールを」
「ちょ……ちょっとちょっと皆さん」
真子の父が、慌てたように割って入った。
「さっきから黙って聞いてたら、いったい何なんですか? 逮捕とかテロとか。一警察官として、さすがにちょっと聞き捨てなりませんよ」
「……どうする?
対象を指で差しつつ、あゆむが皆に問う。
真子も対象に尋ねていた。
「スマキって何?」
「……」
言葉をなくした彼の処遇は、霧の一声で定まった。
「ご案内しましょう。目撃者になっていただく」
「目撃……? 君たちがヘイトデモ隊と争うさまを……? いやいや、そもそもヘイトスピーチって毒ガスみたいなものなんでしょ? なのに、よりにもよって駅みたいな、いちばん人が多く集まる場所で……」
「市民には、差別加害者と差別被害者と二つの顔があるんですよ」
霧は即答した。
「年少者が多い公園では、さすがに守ること、被害を生まないことを重視しました。ですが、これから向かう先は、公園利用者とは人々の構成が異なります。ある意味、駅周辺こそが社会の正確な反映といえるでしょう。市民には、被害者とならないことと同じか、それ以上に、加害者とならないことが重要となってくる。よって彼の地の方たちには、見て、聞いて、知って、学んでいただく。毒の存在と、毒の発生源と、毒の発生を防ぐ具体的手法とを。そのせいで少なからずショックを受け、うろたえ、怒りだすことになろうともね」
「な、何を……。君は……君たちはいったい何なんだ……!」
いよいよ不審感もあらわに、真子の父が周りの面々を見回した。
時刻は午後二時三十二分。
たじろく彼とは対照的に、カウンターたちの毅然とした表情が、日の光を浴びて明るく輝いていた。
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