最終話 ノーヘイト(2)


     2


 午後一時五十八分。

 集会場の一人の男が、何やら奇声を上げるとともに、眼鏡をかけるようなしぐさと卑猥なジェスチャーとをこちらに突き付けた。

「んだとォ!」

 縁なし眼鏡の底で、あゆむの両目が怒りに染まる。

 マイクを持つ者も、笑いながら先の男に続いた。さっそくヘイトスピーチ解消法に抵触している言葉だった。

 周囲の者たちも、哄笑でもって盛り立てる。

 彼らは、見たところ百人を下らなかった。カマボコ、ひいては警官と同様、彼らも数をいや増していた。

「何だかねえ……。いつもこうなの?」

 真子の父があきれたふうに連中を見やりながら、曖昧な感想と漠然とした質問を誰にともなく吐き出した。

 うーん……と真子が軽く首をひねったが、カウンターとしての経験の乏しさからか、あとが続かない。天祢が代わった。

「こんな感じですねえ。ただ、人数はいつもより――」

「多いんだ?」

 天祢がやや考え込んだ。

「……日曜日ですしね。休日は、平日よりどうしても」

「そりゃそうか」

 真子の父はそれで納得したが、休日にしかカウンターを行ってこなかった風歌の目にも、この日のヘイトデモ参加者たちは、過去に覚えがないほど大勢に映っていた。

 増加した真の理由については、おそらく承知している。

 警察がヘイトスピーチの自由を保障するからだ。これまで以上の人員で、これまで以上に積極的に。となれば、差別を扇動したい欲求に駆られた者たちが、お膳立てされたこの機会を逃すはずがない。

 天祢も当然ながら同じ認識のはずだった。それも一社会人として、まだ学生にすぎない風歌以上に確かな見識でもって。が、真子の手前もあり、同じ警察組織の一員であるその父に対し、とっさに言葉を選んだのだろう。それくらいのことは風歌にも読み取れた。もとより、幼少のころから他人の心の機微には敏感だった風歌だ。

 マイクの者が再び挑発してきた。

「反日売国奴の皆さーん、今日はやけに少ない人数でお越しですねえ。お仲間がたのビザが切れてしまいましたので?」

 周囲がまたしても盛大に笑う。

 軽薄な笑い声が車道を越えて降り注ぐ中、霧がおもむろにキャップを脱いだ。束ねられていた銀髪がうなじから背、腰へと流れるように広がり、日を受けて金属の光沢を帯びる。

「おっ……」

 真子の父がのどを小さく鳴らした。見慣れていないなら無理もない。霧自身、積極的にみずからの美を演出しての行動だろうから。

 とはいえ、距離のある水の広場の者までもが一時とはいえ多少とも静かになったのは、同じく霧に見とれた結果か、それとも単なる偶然か。

 風歌にも判然としない。ただ、少なくとも前者の可能性を捨てきれない程度には、髪をさらした霧の姿は人目を引く。

「多くはありませんよ」

 注目の人が静かに告げた。

 それは文脈的にも、また声の調子と大きさからも、彼女が見据えた先のレイシストたちではなく、背後にいる真子の父に向けられたものであることは明らかだった。

「かつて、ヘイトデモは最も多いときで千人を超えていました。それをカウンタープロテストが何年もかけ、少しずつ削り取っていったんです。こんなふうに」

 霧がエコバッグにキャップをしまうと、同じ手で愛用の機械を取り出した。紅白のトラメガだ。

 それを口に添える。

 出力は常に最大という。

 水の広場へ、ついに霧が最大の攻撃を放った。

 言論だ。

「我々を暗に外国人と決めつけるその物言い――またしてもヘイトスピーチだ。お前たちは、いちいちヘイトスピーチを交えなければ言葉の一つも紡げないのか」

 大きいが、冷静な声だった。二人で公園を周回していたときの焦燥感は、すでに表情の裏側へと押し込めたようだ。

 先方も返してきた。

「ほほう、外国人認定されたから差別、と。自分たちを外国人などと一緒にしてくれるな、と。やれやれ……。外国人を差別しているのは、いったいどちら様でしょうかねえ」

 そうだそうだと、周囲の合いの手。

 軽薄な笑いがいっそう沸き起こる中、霧もすかさず再反撃した。

「むろん、お前たちだ。相手の言動によって国籍を一方的に断じようとするお前たちだ。己の気に入らない者が己と同じ国の人間であるはずがない、そんな現実は認めたくない、信じたくない――そうした態度を取り続けて恥じないお前たちだ。しかし、そのように卑劣なお前たちだが、お前たちを非難するわれわれは、決してお前たちをよそ者扱いにはしない。なぜなら、お前たちと違って、われわれは卑劣ではないからだ。われわれカウンタープロテストは、同じ国に住まう者として、責任をもってお前たちレイシストを正しにかかる」

 ぴしゃりと言い切った。

 が、連中の哄笑はやまない。むしろ、さらに増してしまう。

 ただ、マイクを持つ当人からの声はそこになかった。どうやら霧の理路整然とした物言いに対し、再反撃の言葉を見つけられないでいるらしい。

 この機とばかり、風歌がプラカを頭上に掲げて叫んだ。

「ヘイトスピーチは違法!」

 続いて、真子もプラカを手に訴える。

「差別ダメでしょー」

 天祢もスマホで彼我の写真を何枚か撮ったのち、あゆむとカラーが対のトラメガを構えて発した。

「レイシストどもに告ぐ。ただちにヘイトをやめなさい!」

「警察みたいだね」

 真子の父が脳天気な言葉を吐く。スピーカーの隙から、天祢がいたずらをした子供のように少し舌を覗かせてみせた。


 午後二時五分。

 有害な音声をまき散らしていた集会がようやく終了した。

 次は隊列を組んで出発となるはずだが、警察の指示に難があるのか、それとも指示を受ける側に倫理観以外でも支障があるのか、なぜか一向に整列がはかどらない。

 風歌たちも引き続きデモ中止を訴えてはいたが、皆どことなく手持ち無沙汰になり、用意していたスポーツドリンクを口に含んだり、腕の日焼けを気にしたり、スマホをいじったりする。

「AGITO 人気CM降板も意欲あらた『ヘイトに屈せず表現の自由守り抜く』」

 何の期待感も失望感もない目で、風歌はヘッドラインニュースの表示を消した。

「みっともない……」

 ほぼ口内でつぶやきつつ、スマホを淡々とポーチにしまう。すぐ傍らでは、純粋な罵詈雑言なら任せろとばかり、一人あゆむだけが気炎を吐いていた。

「てめえら、整列もまともにできねーのかよー! 幼稚園で習わんかったんか!」

 近くで知らない人の声がしたのは、そうした妙に弛緩した時間が流れているときだった。

「何かの催しでしょうか?」

 声をかけられたのは真子の父。かけたのは、公園で穏やかなひとときを過ごそうとやってきた品の良さげな老夫婦だ。

 が、せっかく来てはみたものの、周囲を物々しい機動隊員たちがあまた取り巻いているではないか。これではきっと入園はかなうまい。そう諦めて引き返しかけたとき、園内に向かって何やら叫ぶ風歌たちの姿を見つける。そこで、つい尋ねてみたとのことだった。

「差別扇動団体によるデモ行進が、これからあるんです」

 答えたのは天祢だった。

「はいはい、ヘイトスピーチのあれですね」

「なんだ、レイシストの集まりか。まったく嫌になるねえ」

 老夫婦が合点のいった顔で頷き合う。

「横文字言えてんじゃん!」

 天祢の肩越しに、あゆむが感嘆の声を上げた。そのつま先を、天祢が老夫婦たちを向いたままかかとで踏む。

 失礼な女を、つま先を両手に抱えた体勢で片足跳びさせることに成功した天祢だったが、その彼女も、表情には驚きの色を隠せないでいた。

「ご存知でしたか」

「ええ、もちろん」

「常識だよ。なあ、お前」

「もしかして、お知り合いにカウンターが?」

「いえいえ。ですけど、インターネットをしていると、どうしても目に入ってしまうものでしょう、ヘイトスピーチ。同じ日本人として、とても心苦しくて……」

「分かります……」

「だけど、あれだ。ヘイトスピーチに抗議してくれている方たちもいると知ってね、世の中、まだまだ捨てたものではないなと。君たちがそうだったんだね」

「皆さん、とてもお若いのに。しかも、こんなに少しの人数で……」

「いやはや、大変な勇気だ。ありがとう。いつもご苦労さま」

 老夫婦は何度も丁寧に頭を下げながら、公園とは別の方角に去って行った。

 風歌の胸に暖かいものが込み上げた。

 カウンターに理解を示してくれる人たちも、ちゃんといるんだ――。

「あっ」

 スマホをタップしていた天祢が指を止め、声を上げた。

「一般の人は水の広場以外なら入れること伝えそびれた。……入れるんだよね?」

 風歌が答えた。

「うん、ほかはどこも賑やか。でも、この厳重な警備だし、みんなちょっと不安そうにしてる感じ……。なんか危なそうって言いながら帰ってくカップルとかいたし。あ、でもでも、ここから一番離れてるちびっこ広場って所なんかは、大きい滑り台に小さい子たちが集まってて、もう、すんごく楽しそうにはしゃいでました」

「そう……」

 幸福で愛らしい情景を思い浮かべたのか、天祢の目が細くなる。そして再び、あーあと、この小さな失敗を悔やむのだ。風歌もならって頭を掻いたりした。

「構わないでしょう。落ち度は、そう思わせた警察にあります」

 霧が突き放すように言った。

「もちろん一番の原因はレイシストにあるんですが、一番は――」

 何やら老夫婦が去って行ったほうを見やる。

「……?」

 風歌が不思議そうにその横顔を見つめると、視線に気づいたのか、霧は再び公園に向けてトラメガを構え、カウンターとしての行動を再開した。


 午後二時十二分。

 さすがに整列も進み、デモ隊の全容が明らかとなってきた。

 真子の父が改めて目を丸くする。

「百人に届くかどうかかなと思っていたけど、百……百五十……いや、それ以上か。さっきのご夫婦じゃないけど、君たち、この少人数で本当によくやるねえ。ほかに仲間はいないのかい? ネットだともっと大勢いるみたいだって、真子――おっと、この子から聞いてたけど。レイシストにはあまり素性を知られないようにしたほうがいいんだったね」

「ええ、ここに集まったのはこれだけですね」

 霧が答えたとおり、この丁字路には風歌たち五人と、ほか、それらしき影がわずかに確認できるのみだ。幾人か、他の現場でも見覚えのある男女が道路の向かいなどに点在し、やはりプラカやトラメガで水の広場に向かって訴えている。ときおりこちらの面々とも目が合い、会釈を交わしたり、小さく手を振り合ったりする。

 風歌もにこやかに手を振り、その顔を、天祢が横から間近に見て、口もとに微笑をたたえたりした。

「そうか、しょせんネットの書き込みなんてね……」

 真子の父が、残念ながら妥当だろうという顔をした。

「しかし、そうなると何とも心細い。まあ、もしもレイシストたちが襲いかかってきたとしても、通報するまでもないのが、せめてもの救いか。公園に遊びに来ている人たちには少し怖い思いをさせているようで申し訳ないけど……その分、しっかりみんなを守ってくれるはず、うん」

 真子の父が水の広場に目を向ける。

 何百人もの機動隊員たちが、デモ隊の側面に張りつき、隊列を補強していた。

「パパも守ってね」

「もちろんさ。非番でも現行犯逮捕はできるから」

 真子が、しまったという顔をした。

「……あなたも」

「あなたっ?」

 同時に、風歌もハッと喜色をあらわにした。

「みんな!」

 満面の笑みで片手を大きく上げる。

 青空を、薄く広がったうろこ雲がゆったりと流れていく。

 その空のもと、風歌たちはひとつ輪になった。輪の中心で、それぞれの手を、甲を上に向けて重ね合わせる。

「マジでやんの?」

 ゲンナリするあゆむへ風歌は朗らかに笑ってみせた。

「ライブ前、これですんごく気合い入ったの」

 霧も露骨に不機嫌そうな顔をしていたが、真子と天祢はすこぶる乗り気だ。

「いいですねえ」

「こういうの、素敵って思う」

「二人ともありがとー。はい、三対二。多数決」

「……言っておくが、多数決は多数派による独裁だからな。少数派による独裁よりは民主主義に近いだけの代物だ」

「遠埜、小難しい」

 ひとり手持ち無沙汰になったのが、真子の父だった。

「ええと……」

 何やら五人を見回し、最後に置かれた真子の手の上へ、自分のそれを不思議そうに置く。大きく、ごつごつして、濃くはないが毛も生えた手だ。

 真子以外は皆――さすがの天祢なども、さらには真子の父自身も次々にえっと顔に疑問の色を浮かべたが、まあ……と風歌はにこやかに掛け声を発した。

「せーの……!」

 ノーヘイトォ――。

 空高く、六つずつの手と声が弾けた。

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