最終話 ノーヘイト(1)
1
水と緑に囲まれた小広場は、都心のどこよりも勝る喧騒であふれていた。
新宿中央公園。
灰色の超高層ビルが何十棟も建ち並ぶこの街において、数少ない憩いの地。
園内には、森といくつかの広場がある。その一つ、公園東側の通りに面した「水の広場」で、先程からヘイトデモ参加者たちが集会を開いていた。奥にナイアガラのそれを模した小さな滝がある場所だ。
開始から、すでに三十分近くたつ。
時刻は午後一時五十六分。予定された出発時刻まで、もう間もない。
その時が刻々と迫るにつれ、会場からは、いよいよ大きな喚声が湧き上がった。喚声の合間合間に、マイクの声もまた怒鳴るように響く。耳に飛び込んでくる内容は断片的ではあるものの、まず間違いなく、排他的な言説が展開されていると確信できる醜悪な語の数々だ。
水の広場の正面は、ちょうど丁字路になっている。
「先日はどうも! 今日も暑いですねえ」
あゆむを連れてこの場で合流した天祢に、真子の父が手ぬぐいで額や首筋を拭きながら挨拶をする。娘のほうはさすがに気恥ずかしそうだ。自分の顔を隠したげに、麦わら帽の両端をつまんで下げている。その父も同じ帽子に半袖シャツという、家庭菜園からそのまま抜け出てきたような装いをしており、風歌はひそかに真子に同情した。
同情された子が愚痴をこぼした。
「せっかくおそろいの帽子でお出かけなんだし、今日は特にしゃんとしててほしいのに……」
「おそろはいいんだ!」
驚きで頭髪が膨らんだ風歌へ、あゆむがそっと顔を寄せてきた。真子の父を、真新しい小振りのトラメガで指し示しながら舌打ちする。
「何だよ、あれ」
「心配でついてきちゃったんだって。ほら、この前、熱中症のあれで――」
「親バカかよ」
「いいじゃん。カウンターに反対しないだけ。わたしんち――」
つい口を滑らせる。不快なので誰にも言わず胸の内にしまっておいたのだが、今朝がた、とうとう両親の理解を得られないまま、強引に家を飛び出してきた風歌だった。
「わたしんち?」
「……何でも」
風歌が素っ気なく答えると、あゆむもフムと軽く鼻を鳴らし、改めて真子の父に視線を向けた。
「どうせくんなら、ポリスメンの服着てこいっつーの」
「そしたらカウンターどーなるの! どーすんの! ……てか、そっちこそもうカウンターしないんじゃ?」
「マジそれな? ……ったく、反差別はマジョリティの仕事って何べんも言ってんのに、うちの連れがさあ……」
何やら深刻に話しだすので、聞けば、下らない理由だった。
昨日、天祢への土産を用意せずに旅先の北海道から帰ってきたところさんざんなじられ、許す代わりに本日の参加を求められたという。
「土産持って何百キロもチャリ漕いでらんねーよ。そしたら、郵送してくれれば良かったでしょって。だったら、カニでもホタテでもネットで勝手に好きなだけ注文しろよ」
「しょうもな……。犬も食わねえ」
「そんだけじゃねーぞ。アカウントも作らされた。あんたも年下の風歌ちゃんたちに負けてないで、ノーパサランの一つくらい書きなさいってよー」
あゆむがトラメガを下げ、代わって数世代前のスマホを風歌の正面に持ってくる。見ると何も映っていなかった。
「……電源くらい入れときましょうよ。かえって省エネですよ」
「んなわけねーだろ」
「わけありますって。いいですよ、もう。自分ので見ますから」
「お、わりぃな」
清々しいほどの笑みを向けてくる。
笑顔のまま告げられた安直なIDを、やれやれと風歌が検索してみると、確かに、作成されたばかりでアイコンもプロフィール欄も初期設定のまま、フォロー数もフォロワー数もゼロという、すこぶるやる気のないアカウントがそこにはあった。投稿も一件のみ。
「♯NOPASARAN 差別するクソは全員地獄行き決定」
ハンドルネームは「フーガ」。「風歌」より強そうだからとの理由だった。
「負けてねーだろ?」
「もうツッコまない……」
「うっせえぞ!」
唐突にあゆむがトラメガで怒鳴った。公園のほうに向かってだ。
そのトラメガと怒号は、もちろん水の広場のレイシストたちに向けられたものだったが、風歌が目で追った先には、機動隊員たちの姿がまず手前にあった。今回は盾こそ持たないものの、ほかは直近の例と同じ重装備だ。ヘルメットにすね当てに
そんな彼らが公園側の歩道に幾人も立ち並んでおり、風歌たちカウンターの進入を防いでいた。
他の進入路も封鎖中であることは、すでに把握している。
実は、風歌は霧と二人、これより二時間ほど前に現場に到着していた。他の面々と合流するまでに、付近の様子を見て回っていたのだ。
まさに現在立っているこの場から回り始めた時点で、同じ通りのやや南側、園内の森と隣接した路側帯に、警官隊の輸送車であるカマボコが列を作って駐車していた。その数、七、八台。さらに公園を一周する間に、同じく駐車中の数台を見つけた。合計すれば、風歌が体験した中で、恐らくそれで最も多い台数となる。なおもどこかに見落としている分や、このあと新たに到着するかもしれない分も含めれば最終的に何台になるのか――風歌と霧は、決して快くない想像を互いの顔のうちに認め合ったものだった。
輸送車が多ければ、当然、運ばれてくる人員も多くなる。それらが生ける壁となり、まずは園内における水の広場への通路を完全封鎖、その後すぐ中央公園自体への進入路をも、対象をカウンターに絞って塞ぎ始めた。
とはいえ、彼らだろうと不動の岩山ではない。鉄板のように一面をくまなく塞ぐ仕切りでもない。生身の人間たちの隙をうかがい、霧が、家族連れなど一般の公園利用者たちに紛れて幾度も通過を試みた。
それでも、結果は従来どおりだった。
通行人の中にカウンターのそれとおぼしき素振りや所持品を目ざとく見てとるや、ただちに機動隊員や公安たちが飛んできて、「デモがある」の一点張りで通行を阻止しにかかるのだ。
「あるのはヘイトスピーチだ。先日の朝鮮人犠牲者追悼式典脇で行われた妨害集会と同様に」
霧がそのつど抗議したが、多くは無言か同じ言葉の繰り返し、たまに違う返事があったとしても、歴史の解釈も他者に抱く感情も思想信条の自由、自分たちはそれがヘイトスピーチかどうかを判断する立場にない、といった類の内容だった。
「誤った見解だ。行政までもが歴史的事実と異なる解釈を後押しするのは許されない」
霧がキャップのずれを直しながら反論した。
「また、警察ならば全員、たとえどれだけ組織の末端にあろうとも、市民のとある行為が違法かどうかを判断できる立場にある。判断する義務がある」
「ふむ、では君たちの行動について、ひとつ判断を下してみようかね。遠埜霧さん……と、そっちは、あー……」
耳にインカムを付けた黒服の男の視線が、風歌の体を下から上へ舐めるように這った。
風歌は思わず後ずさりをし、それと逆に、霧が一歩前へ進み出た。
「まだ飽き足らないのか! あなたたちは!」
「遠埜!」
風歌もつい叫ぶ。
が、霧はなおも前に出ようとした。
風歌はとっさに後ろから霧を抱きとめ、近くの木陰まで全力で引きずるように下がらせた。
「脅しじゃないよ……。今はホントに逮捕されちゃうんだから……。特にあんた、顔と名前、完全に知られちゃってるんだし……」
「そんなこと――」
百も承知だとばかり短く吐きつつ、霧はなおも息苦しそうに彼方の公務員たちをねめつける。自分の襟元を乱暴につかんで首まわりを自由にすると、いくらかでも呼吸を楽にしていた。
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