プロキオン

「これから、どうしよう……」


 泣いて、泣いて、泣き疲れるくらいにひたすら泣いて。


 溢れる湖がやっと落ち着いた頃、魔王は――少年は呟いた。

 隣に座るイルはゆったりと言う。


「なンかやりてェこととかねェのか? なンだってできるだろ」


「……ずっと前から、宝玉を壊したら死ぬつもりだった。やりたいことなんて、そんな、急に言われても……」


 まァそォかもな、ゆっくり考えろよ、と言ってから、


「……俺は、さ」


 遠いどこかを――いつか通った道を見ながらイルは言う。


「今まで自分のことしか――自分の復讐のことしか考えてこなかった。だけど、国のことを考えて行動してきたオマエらを見て、スゲェって思った。そンで、初めてこの国のこととか考えてみたンだけど……」


 息をきり、少しだけ俯いて恥ずかしそうに前髪を触る。


 前髪と、その下にある額当てを。自分が魔人に成りかけた――高い魔力を持っている証でもあるそれを。


「俺は生まれた村を滅ぼされたけど――、思い返せば、その後の生活に困ったことはなかった。余裕があったわけじゃねェけど、学院に通って魔法や剣術を学んだり、護衛組合ギルドで働いたりできた。それを不思議に思ったことはなかったけど……もしかしたら、それは俺にたまたま精霊様のご加護があったからじゃないかって。もし、魔力がなくて、魔法が使えなかったら――。俺もどっかの組合や王国警備隊に捕まる側の人間になってたかもしれねェって、そう思ったンだ」


 だから、と息を吐く。


 真っ直ぐ、前を見て言葉を続ける。


「この国は魔法至上主義なンだよな。確かに魔法は便利だけど……でも、それが使えるか使えないかなンて、運でしかない。使えなかったら他がどれだけ優秀でも選べる道が一個減るような――そンな国は変えてェな」


 今まで国のことか考えたことなかったし、どォすればいいかもわかンねェけどな、と付け足すイルに、


「……聞いてないよ」


「言いたかっただけだ。なンか思いつくかもしンねェだろ」


 そう笑う大樹をチラと見て。


「……僕は」


 抱えた膝に顎をうずめて。


 こちらもどこか遠くを――、遥か遠い大地を見ながら少年は言葉を紡ぐ。


「僕は、海が見たい」


「……ウミ。って、アレか。でっけェ湖みてェなヤツ」


 自分のことをまじまじと見て言うイルに、そう、と頷いて、


「僕が魔王になる前。教会に攫われる前。もうほとんど覚えてないけど――ひとつだけ微かに覚えてる。僕は海の側の漁村の生まれだったんだ」


 そのおぼろげな記憶を辿るように、遠く目を細めて。


 懐かしそうに彼は語る。


「潮の匂いと、波の音。嵐の日は海面に打ち付ける雨の音に怯えて、でも晴れの日は太陽がきらきら反射して、いつまでも眺めてられるくらい綺麗だった。……この国さ、海ないじゃん。大きい湖はあるけど、内陸国だから。三方を険しい山と深い森に覆われて、南は少しだけ開いてるけど見渡す限りのだだっ広い平原。その先には砂漠が広がってて、それを抜けていくつも国を渡って、やっと海が見える。……故郷の場所もわからないけど、北の海は氷が浮かぶって言うし、たぶんこっちだと思うんだ。…………それをまた、見たいなぁ」


「――そっかァ。いい目標じゃねェか」


(今度は国の外か。やっぱりコイツは、俺の一歩先を行ってるなぁ。……もう、俺がいなくても大丈夫そうだ。ルーイやあの尾狐もいるしな。まだ話してェこともあるけど……)


 ここでお別れかな。


 そう思って寂しくなる。


 まだ会って数時間しか経ってないはずなのに、もう何年も時を共にした気がして。


 さっきまで泣いてうずくまっていただけの背中が、いまはとても大きく見える。


 その変化に目を細めた時、


 ――ビュウ。


 一陣の風が吹き込み、ふたりの前髪を揺らして去って行った。


「――風? どォいうことだ、ここは外界と隔絶されてるンじゃ……」


「うん、そのはず、なんだけど……」


 少年は立ち上がり壁の側まで行った。


 ぺたぺたとそれを観察し、それから戻ってしゃがみ、宝玉の欠片を拾い上げた。


「……どうやらここの防御魔法、この宝玉と紐づけされてたみたい。これが壊れたからそっちも維持できなくなったんだ。…………はは。本当にもう、終わりだ」


 爽やかな風が吹き込む。


 それは千年間留まり淀んだ空気をどこか彼方へ消し去った。


 それと同時に、空を覆い隠していた曇天さえも吹き飛ばしていて。


 雲ひとつない快晴のもと、日が昇る。


「――ねえ、イルさん。お願いだ」


 温かい朝日に照らされ少年は立ち上がる。


 腰を下ろしたままのイルに手を差し伸べて。


「君、護衛組合ギルドで働いてたんでしょ? じゃあさ、僕を護ってよ! 南の果ての海を一緒に見よう。その途中で色んな国を見てさ、そして一緒に考えよう。どうしたらシリウス様が愛したこの国が、もっと豊かによくなるか。魔法が使えても、使えなくても、人間でも、魔人でも。どうしたらみんなが幸せになれるか、歩む道を考えよう。――ね、どうかな?」


 大きな湖にいっぱいの希望を湛えて。

 けれどわずかに不安そうにさざめくそれを。


「――あァ! 当たり前だろ!」


 安心させるように力強く手を取り、立ち上がる。


「当たり前だ、ロキ。俺も一緒に行くよ。行かせてくれ。南の果てでも北の果てでも、オマエと一緒に歩いていくよ。それで、一緒に考えよう。ふたりなら、きっと思いもつかなかった未来が歩めるはずだ。だからまた――よろしくな、ロキ!」


「――プロキオン」


 今度こそ、その湖に希望だけを湛えて。


 少年は――ロキは言う。


「プロキオン。それが僕の本当の名前。メイやルインにも教えてない、シリウス様だって知らない僕の名前。君にだけ教えてあげるよ」


 だからその名前で呼んで。


 そう言って笑う。


 希望に満ちた、明るい笑顔で。


「プロキオン。それが、僕の――最後の魔王の名前だ」


「……プロキオン。いい名前だな」


 雪の積もった大樹みたいな目に、その光を反射させて。


 イルも笑った。


「俺はアルタイル。俺は――」


 そしてもごもごと口ごもる。


 ロキにつられて何か言おうとして、何も出てこない。


(いつも『魔王を殺す男の名だ』って言ってたけど、もうそうも言えねェし……。ウーーン……)


 それを見てまた笑って、最後の魔王は明るく言った。


「アルタイル。その名前はね、最後の魔王を救ってくれた、僕を最後の魔王にしてくれた――、僕の勇者の名前だ!!」



 完

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僕の勇者のいちばん長い日 運命の夜と最後の魔王 氷室凛 @166P_himurinn

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