ふたつの月

壱単位

【短編】ふたつの月


 なぜ……なぜ、わたしにはできない……スイートポテトを、あの夢のような味を、いま手の中に再現することが……! その資格がないとでもいうのか。わたしに、なんの罪があるのか……っ!


 「エルレアは慟哭し、突っ伏した……目に光る涙……自らの限界をはじめて知った、その事実が彼女を虐め、追い詰めた。だが、その背を優しくさすりながら、なかまが、さしだした、えくれあに、かのじょは、めを、かがやかせて、しょうどうぶつのようなえがおで、かぶりつい……た、と」


 青年はそこまでひといきに打ち込んで、大きく伸びをした。カーテンはしまっている。わずかな隙間からこの季節としては珍しい、あかるい月のひかりが差し込んでいる。


 部屋の照明はすべて消している。いま彼の横顔を照らすのは、輝度をおとした目の前のノートパソコンの液晶の発光と、しずかな月あかりだけだった。


 深夜。ふだんは眩しいくらいに夜を彩っている近隣の商店も、そんな情景が嘘であったとおもわせるような、ふかくしずかな眠りについている。


 きょうの執筆は、少し予定を変更していた。


 かれは小説家のたまごだったから、まいにちかならず、少しの文章をかくように心がけている。昨日も、おとといも、先日リリースした新作のつづきに集中した。その新作は、はじめは自分のこころに沿うものか、自信をもてないものだった。しかし、おのれの気持ちの底にたいして呼びかけ、問い詰め、ようやく得られたちいさな答えを頼りに、世に送った。


 かれの予想にはんして好評を博したそのはなしは、かれにとって多少の冒険を含んでいたから、しばらくはそのことに集中していたかったし、そのつもりだった。


 今朝、まだ夜もあけぬ頃、あれを見るまでは。


 かれが立ち寄るウェブサイトには、小説を投稿できる場所もあって、そこでかれはここしばらく、ある作品を追いかけていた。もちろん、素人作品だ。つたない部分が目についた。だが、かれのなかの何かに、その作品の主人公、エルレアが、ずっとひっかかっていた。


 うまれの秘密、呪われた人生を、こどものような、わがままで理不尽で、そして純粋なおもいで切り開いていく。動機と描写においてあまりに稚拙で、組み立てのあまい主人公だった。が、かれは、エルレアから目が離せないでいた。


 その作品が、深夜、とある理由で傷ついていたのだ。


 炎上なら止めようがあったかもしれない。罵倒されたなら、かれが加勢することもできたろう。だが、それは、その作品の作者自身の過失といえるようなもので、かばいようはなかった。


 いったんはその場所をとおりすぎ、しばらくネットの海をたゆたって、自分の作品をひらき、少し書き進め、だが、気がつけば、エルレアのところに戻っていた。


 自分がなにをしたいのか、なにをすべきかわからないまま、キーボードに指を乗せていた。が、やがてキーはゆっくりしずみ、しずみ、文字をつらね、なにかを綴りはじめていた。それはかれの意思というより、気持ちが電網の世界にちょくせつ投影され、刻印される、そういう作業だった。


 いつのまにか、何人かの主人公が目の前に現れていた。美しい魔法使い、望むものに変身するちからをもつ頼もしい相棒、理不尽な神、世情につうじた姉御肌の女性、そして、戦士エルレア。


 かれは他人の作品を土台に、話をつくったことがない。が、いま、かれ自身が驚くような速度で、物語が急速に生成されている。なんらかの意思で異世界に放り出された彼らは、神々の他愛ないいたずらに翻弄されながらも、究極の地、安息の世界を目指して旅をする。


 魔物が魔法使いに一刀のもとに倒され、相棒と姉御肌が見慣れぬ世界を案内し、エルレアがめちゃくちゃな闘いを展開しつつも、なんとか、少しずつ、まえに進む。友情などということばがかれの小説に登場することは稀だったが、いま、かれはその単語を用いることに躊躇いがない。


 野営地で主人公たちが休んでいる。途中で仲間にくわわった若い男性が、ひとり、焚き火のまえで空を見上げている。みずからの無力を嘆くかれは、月、この世界にかがやくふたつの月に祈りを捧げる。


 月は、かれにちからを与えた。


 やすらぎのちから。いさかいをおさめ、暗黒を隠し、ひかるものだけを見つめるように誘導する、天界のちから。


 その若い男性はしばらく手をみつめ、やがて立ち上がり、天幕に駆け寄った。なかまたちが眠っている。かれらは昼間、まったくくだらない理由で諍い、苛立ち、旅の前途をあやぶませていた。そのかれらに、男性は手のひらをむける。


 やわらかく展開される、光の瀑布。だれも目はさまさない。だが、かれらの表情は、この旅の中ではじめて、ふかい安らぎと赦しに満ちたものに変わっていた。


 満足して、天幕を、後にする、だ、ん、せ、い……。


 「……?」


 青年がそこまで書いたときだった。キーボードを打つ手が、不思議なひかりに包まれた。けっして眩しくはない、だが身体の中心までつらぬくような、やわらかい、しろい光。


 徐々につよくなる光に目を細め、顔の前に腕を交差させる。目の前のノートパソコンの異常とかんがえたが、それは正確な推測ではなかった。青年と同じ部屋にだれかがいたとすれば、あわく光ったかれが、やがて、シュっという、空気を切るようなおととともに姿を消したのを目撃できたはずである。


 「……こ、こ、は……?」


 鬱蒼としげる森。やや湿気をふくんだ空気を、青年は吸い込み、そらを見上げた。月が輝いている。だが、その数は、ふたつであった。


 焚き火がしずかにほむらをあげている。


 その向こうには天幕がみえた。


 これでは、まるで……。


 青年がおもったそのとき、天幕がうごいた。


 入り口の布があげられ、誰かがでてくる。


 青年はおもわず後ずさったが、成功しない。脚が、うごかない。なにかのちからで縛られたように、地に根がはえたように、うごかせない。


 人影はいちど立ち止まり、やがてまた足をはやめ、青年に近づいてきた。


 月明かりにうかぶ、栗色のながい髪。勝気な目が、髪とおなじ色にひかっている。白いキャソック、胸の金色の徽章は、青年がまいにち見ていたあの作品に登場する革命軍の制服の描写とよく一致していた。


 エルレア、だった。間違えるはずもなかった。作品の中でなんども追い、なんども思い浮かべた、魔法のような技<神式>の使い手、精霊の子、世界とともに呪われた戦士。


 彼女は青年の目の前にせまり、立ち止まった。指先で組んでいたなんらかの印を解いた。そのとたん、青年の脚に自由が戻った。


 「……あなた、が、そのひと、なの……?」


 「……えっ、ぼ、ぼく……?」


 次の瞬間。青年は、見慣れぬ世界に放り出されたことより、目の前にあのエルレアがたったことより、もっと衝撃的な事実に、動揺した。


 エルレアが、かれを抱いたからだ。


 柔らかい栗色の髪が青年の頬をくすぐり、わずかな芳香がかれを包んだ。


 「……ありがとう」


 しばらくしてから、エルレアはゆっくり、腕をといた。


 「……え、なにが……です、か」


 そういいながら、青年はふたたび衝撃に耐える必要に迫られた。


 エルレアの目が、なみだでいっぱいになっていたからだ。


 彼女自身もそれに気づいて、くっと手の甲でぬぐい、笑顔をつくろうとしたが、失敗した。なきわらいのような、こどものような、不思議な表情。


 「……ぜんぶ。ぜんぶ。スイートポテト、美味しかった。エクレアも、とても美味しかった。なかまとの冒険も、馬車の上で歌わせてもらったことも、ほんとうに嬉しかった。そして……」


 せっかく我慢した涙が、また、いくつもおちた。エルレアは慌てて誤魔化そうとしたが、うまくいかない。だから、なのか。別の理由なのか。


 青年の腰に左手をまわし、みぎの手のひらをかれのあたまの後ろに送る。ゆっくりと引き寄せる。互いの鼻先が、触れ合う距離まで。


 「……あの夢、みさせてもらったこと。あなたのちからで、やさしい夢、見させてもらった。おかあさまに、あえた。やさしかった、真っ白に光っていた、みんなといっしょに笑い合っていた、あのころの、おかあさまに」


 エルレアの瞳が、こぶしひとつもない距離で、青年の目をまっすぐ見つめている。


 「まもってくれて、ありがとう。あなたが呼んでくれた、わたしのもうひとつの世界。とても、嬉しかった」


 ことばを漏らすくちびるが、ゆっくり、かれの方に近づく。


 「あ、あなたには、レリアンという、想いびとが……」


 青年が消え入るような声でそういうと、エルレアはすこし微笑んで、そらを見た。


 「きょうの月は、ふたつ。そういう日があってもいい」


 ◇


 ざっと、風がふいた。


 目覚まし時計が控えめにおとをたてている。


 カーテンの隙間からは眩しい朝日。


 ノートパソコンの電源はおちている。


 机からあたまを起こし、青年はあたりをみまわし、頭を掻いた。


 ひらいたままのパソコンの蓋を閉じ、立ち上がる。


 ほおに残った、しらない女性の残り香は、午前中いっぱいかれを悩ませた。


 

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