ぜんぶを書かずに、ぜんぶを書くということ

 感覚で言うと、ずっとアウトボクシングをしているような読み応え。相手の反応を見ながら、「こう来たらこう返そう。いや、やっぱ違うよね。 俺が変に期待してるみたいで恥ずかしいし......」っていうむず痒さを文が完全に纏ってしまっている。

「あれ、先輩、写真入んないんすか」「うん、まあ色々ね」の2行がとにかく強くて、震えた。写真に入るか否か、でそこに介入する意思って昔以上に強いことはSNSの投稿を見れば明らかだよね、というテーマを最初からふっかけておきながら、やはりそこを攻め込んだ「トリミング」云々の話になる訳で。とはいえ、本題はそこじゃない。

 メッセージという短文にする作業で捨てられた部分──圧縮以前の生々しさは中々表現できないところだし、それって書けない。で、それを本作で書いてるっていうのがコピーの「ぜんぶを書かずに、ぜんぶを書くということ」。話せなかった・可食部だったはずのロスは、行き場を無くしてしまうわけで加工も処分もされずに残ってしまうとコンポストにするしかなくて。「写真に写らない」っていうのは、写りたくない(存在を残したくない)ことなのかなあ、でもそれは通俗的な解釈な気がして違うのかもしれないと悩み、じゃあ何なんだろうと。

 風穴としては、ラーメン食べたいに対して先手を打つ(エスコートする)ように一瞬の躊躇を拭い去ってしまうが如く「一緒に行かない?」が重ねて送られたところにあるのだと思う。もし、この一言を継いで無かったら、「なんて返そうか」の堂々巡りになるはずで。

 写真に写らない人ならばこう考える。そこに正解は無いだろうが、解を設けるなら、スタンプで終わらせるのもアリだし、そこに『私』が居ないように振る舞う(「わかる〜」「飯テロ注意報~」等)ような当たり障りのない問答で、無意識下にその可能性(写真に写る・存在として取り込まれること)を排除しようとする行動に出るんだろうなという所が目に浮かんでしまって、そこもまた巧い、と思ってしまった。

(補足)冒頭でアウトボクシング的読み物と述べたが、これを詳しく説明すると例えば、ラーメン食べたいに対して「駅前の〇〇ってお店が美味しいよ」と返されると、ああこの人は私と一緒に行く前提ではなく、単純においしいお店を勧めてくれただけであって、それ以上の関係になることはないなと補助線を引いていることが返信ひとつで分かるように、板挟みになってる虚無感がそこに痛く感じられる。そんな書かれない部分を、書く。書かれなかった「わ・を・ん」を読み手は、受け取ることになる。だから、「ら」で終わる。