満たされることを見出すもの。

美治夫みちお

第1話 故郷

信じたいものがあった。

可能性だ。

それさえあればと、何度も願った。

何年経っても見つかりはしない行き先の標が、幻のように浮かび上がる。


嘘ばっかりだ。


頭を鈍く揺すられ、ぼんやりとした視界越しのすべてを睨みながら、彼は呟いた。

無理無謀の極みに討ち捨てられた、数々の夢を思った。

場末の酒場にはもう皆、集まることもないだろう。

かつて夢を抱いた奴らといっしょに、夜通し飲み明かしたのだ。

あの場所に人が来ては、また去って行った。

それは自分も同じだと、彼は自嘲した。

間に合いそうにないから、もうあそこに用はない。


ジャンパーの裾で鼻下を拭う。血が鼻水に混じっていた。

どうもしないと、また車両のなかでうな垂れた。

あの街で失ったものは多かった。

もはや数えることすら彼には億劫だった。


「あなたは、どうして歌っていたの?」


彼女が最後まで言わないように、胸の内に秘めていた言葉だ。


「歌うことが、唯一で、すべてだった」


たしか、そう答えたはずだ。

嫌な時間だった。

なかったことにしたいが、それも納得いかない。

車輪の軋みが彼女の訴えに重なって、彼には耳障りに思える。


これ以上は壊れてしまうと、甘えと弱さに許されているのが現状だった。

のうのうと生きながらえてしまえた数年間、彼は可能性だけを追いかけた。

その可能性にも嫌気が差した。

だから昨日、飛び出した。


自己防衛だ、こんなことは。

彼は諦めていた。

いくつもの歌を、何を思って作ったのか、歌ったのか。

迷路のような日々だった。

掠れた声を出していた。

日本中から人が集まる大都市で、彼は歌手を目指したのだ。

路上で歌を披露した。

積み重なるのは、届く先を持たぬ歌だけだったと、いまでは思う。


なんでもいいから、満たされる実感が欲しかった。

それが動機だ。

故郷の町から、遠く離れてきたのはそのためだった。


「全部、あんたのせいだろ」


一番身近で彼は見てきた。

成り損ないのままの人だと思っていた。


「あんたみたいな人生は御免だ」


何度も罵った。

油臭い工場で黙々と働く父を。

出ていった母を責めなかった男を。

その姿だけは許せなかった。


たしかに、きっと、それが始まりだった。



あらゆる物がなくなっていた。

駅を降りて、実家のある団地までの道を歩いた。

目に映る現実は年月にすり潰された風景だった。


見る影もない町並みに、彼は一人おののいた。

辺り一帯で、新築の庭付き一軒家が建ち並ぶ。

どの家にも高級車が駐車されている。


子育てにやさしい町、と書かれた自治体のポスターが掲示板に貼ってあった。

そんな町では、なかったはずだ。

ここは工場の町だ。

そう思い、彼は辺りを見回す。だが、見知った工場はどこにもなかった。


変わり果てた故郷の道路を進み続けて、ようやく団地に着いた。

そこは閑散としている。

実家のあった一室を確かめてみると、知らない表札が掲げてある。


彼は立ち竦んだ。

置いてけぼりだった。

夢しか見なかった彼自身は、苛つくだけだった。

いまなら何でも歌えそうだった。憎悪と苦痛の叫びで歌えるような気がした。


彼は団地を後にした。

いくつか空室ができていたのを見て、ここも終わりだと決めつけた。

ここにいる意味はない。


次は、丘の上だ。あの公園にいくことにした。

がらんどうの部屋よりいい。

彼の記憶を見知らぬ表札で押し潰した部屋よりは、まだいくらか救われる気がした。

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