第2話 都市
幼い頃、母が余所に男を作った。
父の勤める工場の専務だったが、当時の彼は知らなかった。
その男とも何度か外で会った。
小さな旗のついたお子様ランチを、いつもご馳走された。
母も家とは違って、丁寧に化粧をしていた。
男と別れ、帰る前に決まって母は「お父さんには秘密よ」と言った。
約束どおり、彼は決して父にこのことを話さなかった。
少し経ち、母は出ていった。
彼は集めていた小さな国旗の数々を、父に見つからないようにティッシュで包んで捨てた。
父との、ふたりきりの生活が始まった。
ひとりの時間が増えた。
学校から帰るとテレビを見て過ごす。
だらだらと眺めていれば、あっという間に夜になる。
何も考えなくてよかった。
映像と同じだ。時間だけが過ぎていく。
彼も中学生になろうとしていた。
その日もテレビを見ていた。
その映像が流れたのは、金曜日の夜だった。
ひとりの歌手がギターを弾き、歌っている。
心臓を握り取られたと、彼は震えた。
ブラウン管の向こうで歌手が歌えば、多くの歓声があがった。
金や名声、多くの賞賛を得て、歌手は屈託なくはにかんでいた。
強烈に焦がれた。
すぐに彼はギターを拾ってきた。
ゴミ捨て場にうずもれていた、古びたアコースティックギターだ。
それから毎日、無我夢中でかき鳴らして、とりとめのない音が生まれた。
生まれた町を離れよう。
そう決めたのは十八歳の冬だった。
かつての夕暮れ時に、差し込む西日を見た。
輝きと苛立ちを同時に覚えた。
あまりに明るすぎて、この町には不釣り合いだったから。
彼の故郷の風景は、工場の騒音と排水の匂いがほとんどだ。
巨大企業に誘致された自動車の部品工場と、そこに勤める人間が集まってできた町だ。彼の父みたいな人間の集まる、小さな町で育った。
それが原風景だった。
丘の上の公園から見えるものは在り来たりだ。
川面に浮かぶゴミ。汚水に浸かって、それらをかき集める浮浪者たちが日銭で飢えをしのぐ姿だ。
こんな惨めな人間にはなりたくないと、あの頃、丘の上で誓った。
彼の肩にはギターがかけてあった。
あれから月日を浪費した。
いま無一文で、夢破れた彼は戻ってきた。
彼の歌は、大都市で見向きもされなかった。
往来は流れるばかりで、声なんて聞く気すらない。
道行く人は素通りを繰り返す。
それでも彼はめげずに歌った。それしか手段が分からなかった。
アルバイトで食いつなぎ、夜は歌だけに費やした。
そんな毎日の中で、彼女に出会った。
職場の先輩だった。
彼が歌手を目指していると誰から聞いたのか知った彼女は、歌ってと頼んできたのだ。彼は少し怖かった。だが、それより隠せない喜びが勝った。
歌って。
そう言われたのは初めてだった。
労働を終えてから、二人で近所の公園に行き、彼は全力で歌った。
「あなたの歌、とても悲しげで、きれいだわ」
一曲目の後、彼女は目を伏せがちに褒めた。
「もっと聞かせて」
それから、彼女に何度も聞かせた。
夜の公園には街灯の光が点在している。
彼が真下に立てばスポットライトのようだと、彼女は笑った。
ふたりきりで過ごす時間が当たり前になっていた。
やがて、どちらからともなく交際を始めた。
同棲して彼は四六時中、新しい曲を作った。
彼女に最初に聞かせてから、彼は路上で披露した。
働く時間を増やした彼女はいつも目を瞑って、からだ全体で曲を聞いてくれる。
ギターが鳴り止むと、えくぼを浮かべながら弾けるような拍手をした。
彼は愛しいという感情に、その度に触れた気がした。
ある日、得意げになって彼はギターを拾ったときの話を聞かせた。
父のことも話した。
母に捨てられ、油塗れになって働く父が嫌いだった。
ブラウン管の向こうにいたあの歌手と同じようにギターを手に取った。
それ以来、ずっと使い続けている。
「こいつがあったから、歌手になると決めた。僕の宝物なんだ」
彼との蜜月を経て、いつしか彼女も彼に打ち明けた。
夏の夜だった。狭い部屋の中にふたりきりだった。
以前、彼女には区役所に勤める婚約者がいた。だが、破談になった。
「わたしね、無戸籍の人間なの」
彼女の母親は、夫から暴力を振るわれていた。
青痣が絶えなかったそうだ。彼女がお腹の中にいたとき、とうとう家を出ていった。住所の特定を防ぐために住民票を移さず、そのまま彼女を出産した。
この時、母親はやむなく出生届を出さず、そのまま育てることにしたらしい。
その母親も彼女が十五歳の時に亡くなった。過労と栄養失調によるものだった。
無戸籍になった経緯を話す彼女は、父親のことを知らないと笑う。
知るのが怖いの。
そう呟いて、また笑った。
今にも叫びだしそうな瞳だと、彼は思った。
「破談になってすぐ後、あなたに出会った」
「あのバイト先で?」
「違うわ。あなたが路上で歌ってるのを、偶然見たの」
彼女は、彼の側に置いてあるギターをそっと手のひらで撫でた。
「あの夜は泣きそうだった、諦めるしかないと思って。でも、あなたの歌を聞いて、泣くのをやめたの」
彼は理由を訊ねた。彼女はまた、えくぼを浮かべて笑った。
「私だけじゃない。どこにも居場所がなくても、それでもと頑張る人がひとりじゃないんだって。そう思えたの」
その話を聞いてから、彼はさらに曲を作った。
歌詞を記したノートは次々と埋め尽くされ、壁には曲のメモを片っ端から貼り付けた。彼は無性に歌いたかった。彼女に何度も歌って聞かせた。笑顔にしたかった。そうして数年間、二人の時を重ね合わせた。
「こんな歌に、何も価値はない」
この町に戻る前、最後に彼女へ歌を聞かせた後、彼はそう結論づけた。
「歌うことなんて無意味だ」
それを聞いて彼女は、見せたこともない表情を彼に向けた。
「あなたは、どうして歌っていたの?」
丘の上に立った今も、答えられないままだ。
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