第3話 訴う

些細なきっかけだったと、彼は思う。

いつものように作曲して聞かせた。

彼女はいつものように耳を澄ませた。

聞き終えると拍手し、笑顔になる。

いつもどおりだった。


ただその後、彼は路上ライブでの出来事を彼女に話した。

その夜も、ギターケースの中には投げ銭一枚すら入ってなかった。

歌い終わり、彼は撤収の準備をはじめていた。

すると、後ろから声をかけられた。

見覚えのあるやつだ、あの酒場によく顔を出している。そうして記憶を辿ると、小説家志望の青年だと彼は分かった。


一曲頼む。青年は静かな声で言った。


彼はリクエストに気を良くして、最も気に入っている曲を演奏した。

彼女が一番好きだと言っていた曲だ。

がむしゃらに弾き、声を出した。

青年は難しい顔をして、黙って聞いていた。


演奏が終わり、彼はどうだったと訊ねた。


良かったか、この曲?


その問いかけに青年は、神妙な顔をして答えた。


「僕、小説家になるの、諦めようと思うんです」


彼には、言葉の意味が分からなかった。


「自分の書いた小説を読んで、誰が一番喜んでるのか考えてみたんです」

「だから何だ」

「僕でした。誰に向けたものでもない。自己満足のかたまりでした。あんな出来損ないの、ぶくぶく太った愛着だけを、毎日毎日それだけのために注ぎ続けたんです」

「それと俺の歌に、何の関係があるんだよ」

「僕と同じだと思ったんです。さっきの歌も、歌ってるあなたも」


怒りが、彼の胸中から突沸する。青年は構わず続けた。


「自分は価値のある人間だと、そう在りたいと何かに手をつける。自己満足の陶酔に浸って、時間と労力を費やし、生みだし続ける。読むに堪えないものを、いくつもいくつも」

「口、閉じろよ」

「僕の書いたもので救えるのは、何もできない自分自身でした。働くことも、死ぬこともできない、両親にとって穀つぶしの臆病な僕一人です。全部、無駄なことですよ。ねえ、馬鹿みたいでしょう」


とうに限界だった。彼は青年を突き倒していた。

はずみで道路にへたり込んだ青年は、へらへらと笑う。

彼を見て、指差しながら言う。

少し大きくなった声で。


「あなたもそうだ、ひどい曲だった、売れないわけだ」


彼は青年の襟首をひっつかみ、地面に押しつける。

空いた方の拳で顔を殴った。


「黙れ!」

「やめてしまえ、あんな無価値なこと!」


青年は出血した口を歪めて、彼に叫んだ。

唾と血が混じって、空気中に飛んだ。


「創作者なんて、誰も無価値だ!」


大都市の夜に、青年の訴えが響いた。

彼は起き上がり、青年の腹をしこたま蹴った。

呻き声をあげてバタつく姿を置き去りに、きびすを返す。

彼女の待つ部屋へと走って帰った。

息せき切って走ったのだった。




話し終えて、彼は彼女に聞いた。


どうだった、今日の歌。


彼女は良い歌だわと、念を押すように三回も繰り返し言った。

いつもと同じ、いや、それ以上の賞賛だった。

その姿に、彼は愛情とは別の小さな想いを抱いた。

濁った感情は急速に膨らみ始める。

不意に湧いて、いまでは疑うだけになった。

都合が良すぎる。

それだけでいっぱいになった心は、止めようもない。


「嘘ばっかりだ」


言っていた。言葉を選べない。考える間もなかった。


「こんな歌に、何も価値はない」


彼はやおら立ち上がると、いままでの作詞を記したノートを無造作に取り上げ、ゴミ箱の中にめいっぱい叩き込んだ。

無価値だ。

無価値に思えた。

何度も無価値だと呟きながら、壁に貼り付けていた曲のメモを何枚も剥がし、クシャクシャに握り潰した。それも全部、ゴミ箱に捨てた。


「無価値だ」

「そんなこと言わないで」

「クズだ」


彼はゴミ箱の中に入ったものを、ビニール袋に詰める。


「歌うことなんて無意味だ」

「やめて」


彼女の訴えは、泣き出しそうな声になる。

無視して彼はビニール袋を縛り上げる。


「やめて、お願いだから、話を聞いてよ」

「君はずっと、俺に嘘をついてたんだ。曲を褒めれば満足する、簡単な奴だとでも思ってたんだろ。出来損ないの歌を自慢する僕は、さぞ滑稽だったはずだ、そうだろ」

「本当に、あなたの歌が好きなの」

「俺のこと何も知らないくせに」

「知ってるわ、あなたが教えてくれたんでしょ」

「君もどうせ、馬鹿にしてるんだろ」

「あなたが大切なの」


彼女は彼の両腕を思いきり掴んだ。

彼は放せと暴れた。

いやだ。彼女は首を振った。

彼もムキになり、右腕を払い上げる。

押さえつける手を無理やり払ったその腕は、吸い込まれるように彼女の頬を激しく叩いていた。

大きな音がした。


少しのあいだ、動きは止まった。

やがて彼の腕は所在なさげに下ろされる。


「君が、悪いんだ」


彼は繰り返した。

君が悪いんだ、君が悪い、そうだ、そうに違いない。

そう思わないと、もう耐えられなかった。


声は激しさを増し、彼女を責めるような叫びになった。


「全部、君が悪いんだ!」

「分かったから、やめて」

「歌なんてクソ食らえ!」

「どうしてそんなこと言うの、ねえ、何で」

「君のせいだ!」


からだ中の血が頭に上ったようだった。

彼女の言葉がすべて嘘に聞こえた。


「君と出会ったせいで、最悪の人生だった!」


言い放った彼の言葉にわずかな時間、彼女は唇を固く閉ざした。

僕は間違ってない、間違ってなんてないと、彼は喚き散らす。

彼の歌に関わるものを捨てて回った。


「どうして」


ようやく喋った彼女は、彼の姿を見つめた。喉がひくひくと震えていた。


「それなら、あなたはどうして歌っていたの?」


耳にした問いかけに、彼は一瞬手を止め、うな垂れる。

力が抜けるのを感じる。


「歌うことが、唯一で、すべてだった」


本心だった。

疲れた声でもう一度、彼女を詰った。

君のせいだと。


「君に出会わなければ、こんな馬鹿なこと、考えなくてよかったのに」


そう言い終わる直前、彼は目を見開いた。

じんわりと浮き立つ雫が、彼女の目尻を濡らしていた。

透明な一筋が流れ、赤くなった頬を伝い、こぼれ落ちた。


彼は初めて見た。

彼女の泣き顔を知らなかった。

戸惑って声も出せなくなる。


「じゃあ、もう二度と歌わなきゃいいじゃない!」


グシャグシャに歪んだ顔と涙声、彼女の悲痛な息が彼の胸を突き刺した。

床に投げ出されていた彼のギター。彼女はそれをひっつかむと、数瞬、彼を凝視した。肩が大きく震え、苦しげに眉根を寄せる。


彼はまた、無価値だと言った。


たまらず慟哭した彼女の長い叫びが止まらなかった。

彼女はそのままギターを床に叩きつけた。

バラバラに壊れて、木片や弦が部屋の隅に散らばっていった。


彼女は両手で顔を覆うと、膝から崩れおちた。

泣きやまなかった。


彼は何も言えなかった。

壊れたギターの破片を一つ拾い、それもゴミ箱に放り込んだ。


「僕が無価値だ」


彼は木造長屋を飛び出ていった。

彼と彼女で暮らすには、あまりに狭い四畳半だった。

その夜はひどく寒かった。

ひとりでいるには辛すぎる夜だと、彼には思えた。

駅まで疾走し、朝日を待った。

長い無言の待ちぼうけだ。

最中、彼女はあの部屋でまだ泣いてるのか、それとも愛想を尽かして出ていったのかと考えた。


翌日、始発で彼は故郷に戻った。

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