第4話 親子

大都市の地べたにある木造長屋から、小さな町の丘の上に彼は来ていた。

そこにある公園からは町の中央を流れる一級河川が見える。

十八歳の冬、誓いを立てたその場所にはいま、子どもを連れた母親の集団がいた。

身なりの整った、上品な言葉を使う人だった。


彼の居た頃は、なかった光景だ。

公園に充満する子どもと母親の声に耳を貸すなと、彼は自分に言い聞かせる。


川はきれいになった。

ゴミなど、もうどこにも浮いていない。

浮浪者たちも去って行った。

いまも残るのは河原の隅で、眠りこけてる一人の男だけだった。


丘の上から、様子を窺った。

彼は男に見覚えがあった。やつれているが分かる。


まぎれもなく、彼の父だった。


油に塗れて働く工場の機械工で、その姿は記憶の中に固定されていた。

だが、目の前には浮浪者となった父親の姿だけがある。


こんな奴知らない。

彼は動揺を隠せなかった。

罵った父、母に捨てられた父、男手一人で自分を育てた父、


――あの日、故郷の駅から俺を見送った父。


それがいまになって、段ボールを被り、うずくまっている。

しばらく様子を見ていると、父はもそもそと起き出し、丘の上に目をやった。

彼はからだを硬くした。

目が合ったか。

そう思いながら、恐る恐るもう一度見てみる。

父がこちらに歩いてきていた。

距離が近づくにつれ、心臓が激しく鼓動した。


「と……」


思わず、声に出ていた。だが、続けられなかった。


真横を素通りされた。

彼は足先が急速に冷えていくのを感じた。

父は彼に目もくれず、公園の砂場で遊ぶ子どもたちの元へと行った。そして、調子の外れた声で童謡を歌いはじめた。すると、いっしょに子どもたちも歌い出した。

音に合わせてからだを揺らし、満面の笑みを浮かべている。

母親たちは気まずい顔をしている。

彼はその様子を黙って見守っていた。何も言えなかった。


歌い終わるのを見計らって、母親たちが子どもを連れて帰ろうとする。

だが、子どもたちはまだ歌いたいと駄々をこねた。

いいじゃないですか、と父が母親たちに笑う。

その中のひとりが鼻を手で覆った。

子どもたちはもう次の歌を待っていた。

それを見て父は、母親のひとりに両手を差し出した。

首を前後に動かし、顎を振っている。


「はやく歌って、おじさん、早く早く」


子どもたちが騒ぎ出す。

父は両手をさらに前へ出し、いいじゃないですかと笑う。


惨めなどという言葉では言い表せない、途方もない感情が彼を襲った。

後ろでまた子どもたちが歌いはじめた。

父の声も聞こえる。

どうやっても消えない音らしい。

その稚拙な声が許せなくて、彼は唇を噛みしめた。


何もかも許せない。


彼は丘の上を去った。



あんたは正しかった。

夢より先に得るべきものは金だった。


彼は胸の内で、父に向けて言った。


はじめから間違った夢だった。

あんな歌で、何を叫びたかったのか。

彼自身が一番分かっていない。


青年の言葉が図星だと思った。

どこにも行き先のない訴えが俺の作る歌だと、彼も認めてしまった。

見慣れない街並みの中、青年と彼女と、父とが頭の奥で繰り返し明滅した。


あんたは正しかった。

夢より先に得るべきものは金だった。


彼は父に向け、ふたたびそう言った。


彼の頭の中を無数の言葉が、でたらめに行き交った。

痩せ細る父に、何も差し出せない。父は職を失ったのだ。俺も金を持っていない。その場を去る以外に選択肢がない。父は金をせびる。かつての浮浪者と同じく、飢えをしのいでいる。俺の歌は父よりも劣る。この町に俺の居場所はもうない。表札が変わっていた。工場も閉鎖した。

川はきれいになった。

きれいになった。


きれいに消し去っていった。




それが、この町に来て分かった事実だった。

踏み入る足場もなかった。

四畳半に、彼は帰りたくなった。



駅に着いても、もう切符代すらなかった。

途方に暮れて、彼は路上で歌い出した。

彼女と出会ったあの街で、叫び続けた歌をまた大声で歌う。

いま、ギターもないまま声を出すのは金のためだ。


歌う。訴う。どうせ同じことだ。

訴えるのみだ。

可能性という言い訳で塗り固めた、嘘の言葉を。

醜く卑屈な歌にして。

過ぎゆく雑踏が聞きもしない歌を。


あの街と同じだ。

この小さな町の住人も、同じように通り過ぎる。

誰も、見向きもしない歌だった。

無価値極まりない歌でしかなかった。

それしかできなかった自分自身を、彼は悔やんだ。


それでも、彼は叫び続けた。

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