第5話 歌う

ふと誰かが、足を止めた。

彼はその人を見た。


彼女だった。


頬の腫れた彼女は薄い財布の中から、小銭を数枚取りだして放り投げた。

彼の空っぽの足下に。


「もっと聞かせて」


帰りの乗車賃と、まったく同じ額だった。


「あなたの歌を、私に聞かせて」


彼女は手に持っていたクシャクシャのビニール袋から、ひどく折れ曲がった一冊のノートを取り出す。

あるページを開いて指差す。びっしりと、歌詞が書き連ねてある。


これが聞きたいと、彼女は言った。

彼は何も答えなかった。

指先が熱くなるのを必死で堪え、彼女に向き直る。

彼女は真剣な表情で、次の歌を待っていた。


ただ彼女のために歌おう。

それだけがいま、彼の頭の中にあった。

伴奏もなく、彼は歌いはじめた。

声だけが頼りだった。汚れきった叫び声に乗せて、嗄れんばかりに歌った。

リクエストされた歌を。

歌とも呼べない、存在証明のために生まれた、自己満足の言葉だった。

あらゆる嘘をない交ぜに作った、本当の音だ。

誰にとっても無価値で、だが、ただふたりにだけ価値のある歌だ。


彼は歌った。

彼女の一番好きだと言った曲を。


彼女は目を閉じて聞いた。

彼の最も気に入っている曲を。


声が出せなくなるまで歌った頃には、もう日が落ちかけていた。

辺りは薄暗い。

冬はまだまだ続くのだと、風の冷たさが告げている。


彼はその場にへたり込んだ。

もう立っていられなかった。


「帰ろう」


彼女が彼の手を引き、立ち上がらせた。

地べたに転がる小銭を握らせ、もう一度語りかける。

帰ろう、と。


「ひとりだと、あの部屋は広すぎるから」


彼は深く頷いた。

帰ろうと、そう言おうとした。

だが、声が出せなかった。

歌いすぎたせいで掠れた息だけが喉から漏れた。

その様子に、彼女は思わず笑い出した。


「はやくのど飴、買わないとね」


おかしくて仕方ないと、彼女はえくぼを浮かべる。

そのえくぼに片手を添え、彼も笑った。

せいいっぱいを振り絞って、しゃがれ切った声を出す。


「ありがとう」


「……ほんとはね、もう勝手にすればいいと思ってた」


彼は黙って、彼女の言葉に耳を傾ける。


「またひとりで生きていけばいいって、ひとりは慣れてるし。思いどおりになったことなんて、生まれてから全然、何もさ、なかったから、またいつも、みたいに、ひとり」


その声が震えるのを感じた。感じたいと思った。


「でも、だめだね。」


彼の手に、濡れた感触がした。

彼女が泣いていた。

二度目の涙だった。


「ひとりには、もうなれないよ」


涙は止めどなかった。


「怖いけど、それでも」

「俺も」


彼も必死に喉を震わせた。

嗄れた声は囁きに近い。


「見つける、ちゃんと」

「うん」

「見つけるから」


彼も目頭が熱くなっていた。

我慢できそうになかった。

泣きたくないのに、勝手に溢れて止まらなかった。


「ごめん」


その様子を見て、彼女が「だめだよ」と、明るい涙声で言った。


「笑ってなきゃ。前が、よく見えないよ」


彼女は微笑みながら、涙をこぼす。

その頬はより一層赤い。

頬を包む彼の手のひらに、彼女も手をそっと重ねた。

温かいなと、彼も笑った。




それから、彼はギターをまだ弾いている。

歌を作り続けている。

もう一度アルバイトをして買った、二本目のアコースティックギターを使っている。

あの声を響かせている。

木造長屋の四畳半で、いまも変わらず歌っている。


「もし、願えるなら、君の隣で……」


彼は、その歌の意味を見出した。

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満たされることを見出すもの。 美治夫みちお @jawtkr21

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