第18話



 室内には、黴臭さと薬品臭の混じった、すえた匂いが充満していた。


 もともと、聖堂か何かだったのだろう。


 石造りの壁と床は、夜闇に包まれて氷の塊みたいな冷たい気配を放っている。

 そんな温度の無い空間には所狭しと机と本、そして実験用のフラスコやら、血がついたままの医療器具やらが転がっていた。


 屋敷の奥に隠された、陰鬱とした実験室。

 ルーデットはそこで、一人の老貴族と対峙。


 丸く剥げた頭と、対照的に口元には白髭をたっぷりと蓄えた人物。

 薄汚れた貴族服に身を包み、まるで彫像のように部屋の奥にある椅子に鎮座するのは、ルーデットも知る老貴族――リッケル・サウルテック侯爵である。


 ズオウ五世より命じられた、捕えるべき対象人物だ。

 リッケルは薄闇の奥から、静かにルーデットを見据える。


 猛禽類のような眼だった。

 尖った瞳孔は、見つめた相手をそのまま狩り殺すような迫力を宿している。


 けれど、臆することなく。

 ルーデットも生まれつき、周りから怖がられてきた鋭い目つきで老人を睨み返す。

 

「リッケル殿ですね」

「ああ、初めてまみえるな、ルーデット・フィルクラム」


 言うなり、リッケル侯爵が痩せた歯の隙間から笑い声を漏らす。


「うぅむ……その反抗的な目、エルムンドと同じだな」

「懐かしいですか?」

「いや、二度と見たく無かった。忌々しい」

「それは失礼。リッケル殿、あなたの研究や実験に、国王陛下並びにズオウ五世公爵閣下はお怒りです。直ちに王都へと赴き、然るべき沙汰を受けて下さい」

「そう言われて、素直に従うと思っているのか?」

「思っていません。だから、”月の家族”が招集されたのです」

 

 薄暗い室内には、外で行われている戦闘の喧騒があらゆる形で伝わってくる。


 怒声、振動、熱、焦げ臭さ。


 それはリッケルを追い詰める、形無き包囲網。

 しかし、老貴族は椅子に座ったまま、つまらなそうに嘆息するばかり。


「”月の家族”か。エルムンドが計画した特殊戦闘部隊だな。そんなものより、こいつのほうがよほど国のためになるというのに」

 

 ルーデットは息を飲む。

 リッケル侯爵の足元。

 そこに、丸く身を縮める毛深い生物の姿があった。


 ただの大型犬――かと思ったが、違った。

 リッケルの足元に控える犬が、二本の後ろ足で『立った』から。


 ルーデットの細い眉が、厳しく吊り上がる。

 獣の体毛――特に頭部から伸びる栗色のくせっ毛に、見覚えがあったから。


「そいつはもしや――サーラ……なのか?」


 立ち上がり、大量の体毛で体を覆い隠すそれは、毛玉の塊のようにも見える。

 しかし、燭台の炎に浮かび上がるシルエットは人に近く――何より、長い体毛の奥からのぞく顔は、人間そのもの。


 見覚えのある、おっとりとした顔つきは――サーラのそれだった。

 

 獣化したサーラ。その胸には真っ赤な刃状の物体が突き刺さっていた。

 純度の低い”詠唱石”で作られた、魔力の楔。

 義肢の調整には使えない、ただ魔力をいたずらに増幅させるだけの、工業部品的な粗悪品。


 ルーデットは即座に察する。

 連れ帰られたサーラは、身体に詠唱石の楔を打ち込まれ、魔力を暴走。

 結果、魔獣に近しい姿へと変えられてしまったのだ。

 物言わずルーデットを見つめるサーラ。そこに、彼女の意識は介在していない。


「なんということを……あなたがやっていることは、ただのイカレた人体実験だ! こんな化け物を生み出して、何が国の為だ!」

「ふん、貴様は何もわかってはおらん。これこそが『兵士』の完成された姿ではないか。恐怖心も痛みも感じることは無い。お前の祖父や、ズオウが研究する”調律兵”なんぞよりも、よほど兵器として完成されているだろう」


 吐き捨てるようなリッケル侯爵の言葉。

 それは、歪んだ対抗心。

 上級貴族であるズオウ五世、そして国王の侍医としての腕が認められ、”調律兵”の研究を許可された祖父、エルムンド――そんな二人に対する劣等感や確執が、老貴族の瞳を濁らせ、狂気へと走らせているのだろう。

 

 リッケルは椅子から立ち上がると、薄く笑いながら獣人――サーラの頭を叩く。


「おい、出来損ないの犬、あいつを喰らえ。わしが脱出するまでの時間くらい稼ぐんだぞ」

「待てっ、逃げるな!」


 背後の扉から逃げ出すリッケル侯爵。

 咄嗟に後を追おうと走り出すルーデットだが、眼前にサーラが飛び出してきた。


 白い牙と歯茎を見せつけ、低く唸りながらルーデットを威嚇。


「くっ……サーラ、止めろ! 私だ、ルーデットだ!」


 叫ぶ。

 けれど、獣人は構わずルーデットに突っ込んでくる。

 

 魔法で応戦――しようと考えるが、出来なかった。

 もし、サーラを殺してしまったら……そう考えると、魔法の詠唱が口から出て来ない。

 

 仕方がなく、ルーデットは咄嗟に身を翻して爪を回避――しようとしたが、無理だった。

 魔法使いに共通する弱点。それは万年運動不足。


 スっ転ぶように身を返すルーデットだが、回避が遅れて脇腹を浅く斬り裂かれていた。


「ぐっ……! くそっ」


 シャツが破れ、色白であばらの浮く脇腹が露出。

 そこから流れ出る鮮血は、月明かりを受けて黒々とルーデットの体を彩っていく。


 血など流すのは、何年ぶりだろう。

 ルーデットは心中で苦笑いするが――このままじゃマズイ。

 リッケルに逃げる時間を与えてしまうし、何より本当に殺される。


 でも。

 どうしても――サーラを攻撃する気にはなれなかった。

 獣人は冷たい床を蹴り上げると、一気に肉薄。


 倒すか、避けるか。

 また判断が遅れた結果――ルーデットの肩口に、サーラの牙が喰らいついていた。


「ぐ、ぐぅううう!? ぅあああああああああっ!」 


 サーラは獲物を逃がすまいと、ルーデットの体に腕を回して組みつく。


 激痛に、思考が白くスパーク。

 咄嗟に魔法で応戦しそうになるルーデットだったが……間近で顔を見つめることで、ようやくそこに『サーラ』を見つけた。


 彼女は、目が悪かった。

 それゆえ、魔力の楔を胸に打ち込まれ、肉体が完全に獣化しても――その瞳だけは、元の優しいとび色のそれだった。

 そして、そんな瞳から。


 ぽろぽろと、涙がこぼれていた。


「……っ、そうか。お前だって、こんなことはしたくないよな」


 サーラの優しい性格を考えれば、それは当たり前。

 いくら魔物の血を増幅させられても。

 いくら獣と扱われようとも。


 サーラ本人が、こんな戦いを望んでいるはずが無い。

 きっと、今のサーラは無意味に肥大させられた破壊衝動に駆られ、暴れているだけ。

 ルーデットは痛みに歪む表情に、気合で精気を取り戻す。

  

「なぁ、サーラ。聞こえるか。聞こえていなくても、勝手に喋るぞ」


 肩口に食らいつく少女。その横顔に、優しく語り掛ける。

 

「ずっと不思議だったんだ。お前やペルが寂しそうな顔をすると、なぜか厳しい言葉が出てこなかった」


 聞こえているかは、分からない。

 けれど、ルーデットは歯を食いしばりながら、痛みに耐えて語り掛ける。


「でも、最近なんとなく分かってきた――私は、自分と同じような境遇のお前達に、悲しい顔をしてほしくなかったんだ……そして、出来れば笑顔で居てほしいと、そう思った」


 ルーデットは幼少期、家族と右目を失った。

 大切な物を沢山失くして――同じくらい、祖父のエルムンドから新しい、大切な物を沢山もらった。


 全てを失ったルーデット。そんな彼女が、偉大な祖父にどれだけ救われたことか。


 だから……同じように家族を失ったペルーシュカ、そして家族に売られ、帰る家を失ったサーラ。

 そのどちらの心の痛みも、ルーデットはちょっとづつだが分かってしまう。


 痛みが分かる――ならば、それを取り払うのが、医者の仕事。

 かつて、祖父がそうしてくれたように……そんな気持ちが、いつの間にかルーデットの胸中で萌芽していたらしい。


「私はおじい様から、大切な物を沢山もらった。だからサーラ、今度は私がお前に大切な物をやる。だから帰ってこい、また一緒に仕事をしよう」


 ルーデットは体を密着させた状態で、サーラの胸部に手を伸ばす。

 指先に触れる冷たい感触は、粗悪な詠唱石。


 まずは、これを除去しなくてはならない。

 

 ルーデットは手中に魔力を集めると、粗悪な叡晶石に一気にそれを流し込む。

 多量の魔力を流し込まれた結果、粗悪詠唱石は悲鳴を上げるようにキィンッと高い音をひびかせた後、砂糖菓子みたいに粉々に砕けて消え去った。


 これで、サーラを縛り付ける魔力の楔は無くなった。

 次にやることは……ちょっと、ルーデットでも覚悟がいる。

 

 ルーデットは自身の右目に。

 勢いよく指を突っ込んだ。


「くッ――ぁあああああああァああああああああ!」


 痛みを紛らわすため、腹の底から声を張り上げる。

 ルーデットは自身の義眼――詠唱石で作られたそれをえぐり取ると、手中にしっかりと握りしめる。


 そのまま、一思いに。

 義眼を――純度の高い詠唱石の塊を、魔力の楔が失われたサーラの胸の傷口に押し込んだ。


 傷口に異物を押し込まれ、たまらずサーラは後方に飛び退いた。


「グッ、ギッ! グギャギャギャッ!? グガァアアアアアアアア!」

 

 叡晶石を埋め込まれた胸部。そこを掻きむしりながら、サーラが研究室内で暴れまわる。

 暴走していた獣人の血が、純度の高い叡晶石により正常化。

 好き勝手流れていた暴れ川が、いきなり整備されて穏やかな流れに代わるような、劇的な変化――それが、サーラの体内で起っていた。


 サーラは痛みから逃れようと、研究室内を暴れまわる。

 机を破壊し、椅子を蹴り壊し、本を斬り裂き、壁に爪痕を刻む。

 

 そして、どれくらい暴れただろうか。

 研究室内が原形を留めないくらい滅茶苦茶になったところで……サーラはぱったりと倒れた。

 

「……うまく、行ったのか?」


 冷たい静寂が研究室に戻ると、ルーデットはよろよろと立ち上がる。

 空洞になった右目を押さえながら、サーラの身体を助け起こす。

 

 脈も呼吸も、正常。

 どうやら魔力を使い果たし、気を失っただけらしい。


 見れば、サーラの体中を覆っていた長い体毛。

 それが抜け、徐々に人間の姿を取り戻していく。


 ルーデットは深く息をつくと、顔に笑みを浮かべる。

 ただし、その顔は痛みで歪み、なんとも不器用な笑みだった。


「なんとか、なったか……良かった」


 深く目を瞑り、ひとまず安堵。

 けれど部屋の奥――そこに開け放たれたままの扉を見つめ、短く息をついた。


「逃がしたか……閣下に何て言い訳しようかな」


 ズオウ五世からの指令は、リッケル侯爵を捕えること。

 わざわざ戦力を回してもらって屋敷を襲撃したというのに、対象人物と対面したルーデットは、あっさりとそれを見逃した。


 これは、大目玉確定か。

 ルーデットは苦笑いしながら――けれど、ゆっくりと呼吸を繰り返すサーラの姿に、薄く笑みを浮かべた。

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魔女先生と調律の兵隊 @mikan556

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