第5話 方舟と壺

 初めて灯台に登った子どもたちが見た海は、想像したほど広くもないが、がっかりするほど狭くもなかった。

 彼らが灯台から臨んでいたのは、三浦半島と房総半島に囲まれた東京湾であり、向こう岸に巨大なクレーンと、コンテナの並ぶ港を見ることができた。


「あのあたりは千葉の、木更津かな」


 パンテレイモンが言った。彼は社会科の自習時に、地図帳を開いてこの辺りの地形を予習しておいていた。


「どうでもいいや。ルチア、船に錆はあるか?」

「それがね、荷物を降ろしても船の深さが変らないの。正確には、一旦は浮くんだけど、すぐに沈んじゃうの」


 ルチアが目を精いっぱいに細めて、色とりどりのコンテナの積み上がる港と、そこに停まる大型船舶を見ながら言った。荷降ろしをした船がすぐに沈むのは、安定を保つためのバラスト水を注入するからなのだが、子どもたちは知りようもない。ただ不思議な光景として映った。


「あの船はこっちの港には来ないんだな、なあこっちの港は石だらけだから箱が置けないってことか」

「狭くて浅いからだろうね」


 キリヤンとパンテレイモンが話し合う隣で、ルチアは酷使された目を手のひらで抑えている。

 他の子どもたちも窓に張り付くようにして遠くを臨んでは、意見を交わしている。

 その騒ぎのなか、アナスタシアは子どもたちの騒ぎからは一歩下がって立っていた。髪の毛の先を弄りながら、コンテナ船ではなく積み上げられたコンテナを見つめていた。彼女が口を開く。


「コンテナの中にはなにが入っているんだろうね?」

「知らないのか、荷物だよ。海外から運ばれてきたとにかく色々な荷物とか、機械とか、ゲンザイリョウとか、動物とか、そういうの」

「本当にそうなのかな、なんで言い切れるの?」

「言えるよ、コンテナ船は荷物を運びますって参考プリントにあった」

「習ったことが本当だってなんで分かるの? マチの学校の授業を受けたことがあるのに、なんで? プリントなんてコミュニティの大人が好きに書けるのに、なんで全部信じられるの?」


 パンテレイモンとアナスタシアは互いに譲らず、パンテレイモンの声は狭い灯台内に反響するほど高まっていった。一方のアナスタシアはあくまで淡々と、疑問を呈し続けていた。

 いつもは冷静なパンテレイモンが声を荒らげることに、子どもたちが気まずげに視線をうろつかせる。一番小さなルチアがついに泣きだして、集団の不安は臨界に達した。


「なんで、なんでって、うるさいんだよ! 大人がおかしいっていうのか? マチの学校がなんだっていうんだよ! あそこは最悪だよ! おれがどれだけ嫌な思いをしたか、知らないくせに!」


 パンテレイモンが叫び、アナスタシアに掴みかかろうとするのを、キリヤンが羽交い締めにして止めた。


「落ち着け。おいアナスタシア謝れ。パンテレイモンがこんなに怒ってるんだから、お前が悪いに決まってる」

「なんで? 禁止言葉は使ったけど、パンテレイモン個人に攻撃なんてしてない。ここには口枷もないよ」

「ぼくは今きみの口にこぶしを突っ込んででも、黙らせたいと思ってるよ」


 湿っぽい息を漏らすパンテレイモンが、拳を握りしめながら、呻くように言った。


「わたしは分からないことを知りたいだけ。本当のことを知りたいだけ。『なんで?』に込めているのはその気持だよ。なんでみんなは本当のことを知りたくならないの? そんなにあの口枷が怖い? 違うよね、怖いのは口枷をつけているところを見られること。口枷をつけているのは愚図で、阿呆で、幼稚。そう思い込まされている。それを恥だと思わされている。それって本当に『ありのまま』なの? 口枷をつけられても恥ずかしくない、それが『開き直り』の精神だとわたしは思う」


 アナスタシアがこんなに沢山話せるとは、そのときまで皆知らなかった。


 アナスタシアは本来の、野生動物の賢さを発揮しており、愚鈍な雰囲気は消え去っていた。目は鋭く周囲を睨みつけ、静かな興奮を湛えている。彼女は自由であり、強く美しい野生のけものとしてそこに居た。

 そして彼女は覚っていた。目の前の家畜の群れを餌にすることが出来ることに。自分の言葉をどう使えば、子どもたちの天地がひっくり返るのかも、既知のことのように分かった。


「箱の中を本当に見た? わたしはあの箱の中身は、ただの荷物なんかじゃないと思う。だってあの箱を運ぶ船はずいぶんと特別みたいだから」

「中身なんて見られるわけないだろ、マチの子どもだって直接見てやしない」


 パンテレイモンを羽交い締めにした姿勢のまま、キリヤンが答える。パンテレイモンはというと、抑える必要がないくらいに脱力していたが、キリヤンは気づいていない様子だった。


「でもマチの子どもは『なんで?』を禁止されていないんだよね。このコミュニティに隠された意味があるとしたら、表面上の生活様式の違いなんかじゃない。それは目くらましで、子どもだけが疑問を持つことを禁止されているというところにあるんじゃないの。最初の信仰者・安達辰馬が聞いたという神の言葉を思い出してみて。神はなんと仰った?」


 アナスタシアが、一つにくくっていた髪をほどいて頭をふると、癖の強い髪が勢いよく広がった。そのさまは彼女を実際より何倍も大きく見せた。


「こう言ったのよ、『嘘つくのやめてもらっていいですか?』。どう? 大人たちは隠したい目的がある。わたしたちにキリスト教の聖人、それも殉教者の名前ばかり選んでつけている大人たち。子どもを産まなければ大人と認めないコミュニティ。第二世代である子どもを増やしたい。殉教者を増やしたい。殉教者である第二世代には、教えられないことがある。でも嘘をつくわけにいかない。だから『なんで?』を禁止言葉にしたんだ。ねえ、わたしはそう思うよ。ずっと考えてた」


 ずっと考えてた、と言葉にしたときに、彼女自身、自分はずっと考えていたのだとはっきりと覚った。いま出てきている言葉は、口枷を初めてつけた一歳半の頃からずっと、内にあったものだ。コミュニティの第一世代たちへの疑いが先にあり、疑いを確信に近づけるために禁止言葉をしつこく繰り返していたのだと、覚醒した彼女は気付いた。


「大人世代が隠そうとしていることって、なんだよ。なんでそんなこと言うんだよ……」


 パンテレイモンを抱えていた腕をほどいたキリヤンが、力なく言った。


「聖人の名前なのは、おれらが救世の使命を持つ次世代だからだろ、そのはずだろ?」


 そうも呟いたキリヤンは、脱力して座り込むパンテレイモンの隣にしゃがみこみ、頭を抱えた。


「救世の次世代を作って、それから大人はどうするの? 知ってる? 方舟に乗るんだよ。錆びない、沈まない、大きな船の箱に乗って、新しい大地に行く。わたしたち子どもに名前をつけて、自分たちの名前は消した【父】【母】たちが移動しようとしている。コミュニティはきっと沢山あるんだ。そして名前を消した大人たちが、ある日ごっそり方舟に乗ってしまうんだ」


 呆然と彼らのやりとりを聞いていた子どもたちが、また灯台の窓にへばりついて、湾の向こう岸の港を見る。係留されたコンテナ船は、コンテナを全て降ろし終わって平らな甲板をさらしながら、深さと安定を保っていた。


「なんでそんなことが言い切れるの」


 ルチアが禁止言葉を使ったことに驚くだけの余裕は、子どもたちのだれにも無かった。


「冬に全日空の貨物機が消えたばかりじゃない。飛行中に忽然とね。あの事件について大人たちが話しているのを聞いてから、ずっと引っかかってたの。それで、貨物を運ぶコンテナ船を見たときに思ったの。特別の船や特別の飛行機が、存在する。分かる? 分からないなら別にいいけど。わたしだけでコミュニティを脱出する。聖人の名前なんて捨てて、出生届の通りの名前を名乗る。わたし達みたいなコミュニティの子どもは、保護してもらえるんだよ。きちんとした嘘が言えないといけないけどね」


「出ていって、どうするんだよ」


 キリヤンの問いにアナスタシアが答える前に、パンテレイモンが割り込んで答えた。


「本物の終末、西暦一九九九年までに方舟に乗る。呉陽子が【アナスタシアの母】になったように、呉素子もとこは誰かの母になって、方舟に乗る。そうだろ」


「そういうこと。西村喜一が【パンテレイモンの父】になったように、西村和樹が誰かの父になれば方舟に乗れる」


「『なんで』、きみはそんなことを考えついて、言えるんだ?」


 パンテレイモンとアナスタシアの視線がかち合った。

 パンテレイモンの転向に伴い、二人の間で契約が成立した瞬間であった。




 昭和五十一年十一月十六日、西村素子は一人の男児を産んだ。

 彼女は【クレメンスの母】となり、夫・西村和樹は【クレメンスの父】となった。翌年、二人は新興宗教団体を設立。彼らは【零日の庭】と同様の信仰を持つコミュニティが各地に存在する信じていたため、自分たちと同じような第二世代が繋がる経路となるべく、【セカンド・チャネル】を名乗る。


 聖人・クレメンスⅠ世を名の由来とするクレメンス青年は、世界の終末を信じ方舟を待つ両親を他所に、【セカンド・チャネル】のあらたなコミュニティとしての掲示板をウェブ上に作ることにした。そこはあるがままの開き直りが許される楽園、人を縛る名を廃した匿名のコミュニティである。

 一九九九年、恐怖の大王も訪れず、第三次世界大戦も起こらなかった世界で、クレメンス青年は言葉と居場所を獲得したのだ。

 彼の第一の真言が紡がれたのは、翌二〇〇〇年のことだった。

 

「嘘を嘘と見抜ける人でないと、難しい」


 アナスタシアこと西村素子こと【クレメンスの母】は、息子・クレメンスがテレビ取材にこたえて語ったこの言葉をうけ、【セカンド・チャネル】を解散。これをもって、信仰者・安達辰馬の信仰を引き継ぐ団体は世界から消滅した。

 しかし辰馬の聞いた神の声は、これより先ひろく巷間に知られるようになるのである。

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終末に壺から聞こゆ神の声 髙 文緒 @tkfmio_ikura

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